11. 『イパネマの娘』
はい、イパネマの全容がほぼ見えてきたところで、いよいよ『イパネマの娘』が登場します。これはどうしても書いておきたいのですが、結構長いです。
ボサノバは知られていますね。ブラジルに突如出てき新しい音楽です。その産みの親の一人が Antonio Carlos Jobim(通称トム・ジョビン)です。
時代は1960年代の初め、僕たちは中学生のニキビ面でした。ビートルズだ、ベンチャーズだ、いや、加山雄三だ、と言ってはエレキをかき鳴らしていた頃、突如として爽やかなリズムとコード(和音)に乗って現れたのがボサノバでした。普通は「新しい感覚」と訳されるのですが、実はチョット違う。が、まぁいいでしょう。ま、そんな意味です。
唐突ですが、湘南という街がありますね。そこにタムロする若者は湘南族と言われ、太陽の季節を謳歌したりしていた。アイコンは石原裕次郎ですね。
それで、イパネマはブラジルの湘南だったのですよ。当時の社会を睥睨しては、愛だ、恋だ、人生だと理屈を並べる若者がいて、その筆頭がトム・ジョビンという音楽家と、ヴィニシウス・ジ・モライスという詩人、あるいはジョアン・ジル
ベルトというギタリストでした。こういう人を中心として、時代に反逆しようとしていた若者たちが、昼日中からバーでビールを飲んでは人生を歌い、音楽を奏でていたわけです。
このバーは現在もそのまま残っていて(名前こそ変わりましたが)、僕たちが泊まったホテルから数ブロックのところです。ビーチに向かう道沿いの角にある。トム・ジョビンは、そのバーにギターを抱えて座っていたわけですね、毎日。そ
うすると、可愛い娘さんが、水着で海へ向かって歩いていく。
Tall and tan and young and lovely
The girl from Ipanema goes walking
And when she passes, each one she passes goes "Ah!"
背が高く 日焼けした肌 若くて素敵な
イパネマの娘が歩いてくる
娘がそばを通り過ぎると、あぁ、誰もがため息をつく
モラエスが歌詞を書き(もちろんポルトガル語)、ジョビンはメロディを口ずさみ、ギターでコードを付けていきます。
When she walks she's like a samba
That swings so cool and sways so gently
And when she passes, each one she passes goes "Ah!"
娘が歩く姿はサンバのようだ
クールにゆらめいて やさしく揺れる
娘がそばを通り過ぎると、あぁ、誰もがため息をつく
実際にこうやって楽譜を書いたのは、このバーの紙ナプキンの上でした。現在、その自筆楽譜は、このバーの壁に、額に収まって掛けられています。それに、T-シャツにもなってる。
来る日も来る日も、トム・ジョビンはバーでビールを飲む。と、娘さんが歩いてくる。ビーチへ向かって、まっすぐに歩いていく。自分には、振り返ってもくれない……。
Oh, but he watches(sees) her so sadly
How can he tell her he loves her?
Yes, he would give his heart gladly
But each day when she walks to the sea
She looks straight ahead, not at him
あぁ、しかし彼は悲しそうに見つめるばかり
この想いを どうして伝えよう
僕の心を喜んで捧げるという この想いを?
毎日海に向かって歩く イパネマの娘
あの娘は僕には気づかない 海のほうを見るばかり
こうやって、作られた曲が『イパネマの娘』です。恋をメランコリーに歌う雰囲気は、中流家庭のドラ息子の世界ですね、社会に入ってがむしゃらに働く、そういう人生を信じる気になれない若者たちがイパネマにたむろしていたのでした。
さて、曲はできた。歌うのはジョアン・ジルベルトの奥さん、これが、アストラッド・ジルベルトです。決してうまくない。だから、この曲をレコーディングする時、「まぁ、とにかく歌わせてみようか、上手くなければ彼女の歌はカットすればいいし」という程度の扱いだったそうです。
しかし、わからないもので、この上手くないところに味がある、という人もいるわけですね。『イパネマの娘』の録音は完了し、強力なボサノバのヒットとなる名曲が世界に発信されたのが、1963年でした。(実際は、ボサノバが知られるようになったのはもっと早い。イギリスのポップチャート1962年12月27日付では、11位にトム ジョビンの「デサフィナード」という曲がランクされています。1位はプレスリー「リターン・トゥ・センダー」、17位がビートルズの初めてのヒット曲「Love Me Do」でした。)
さて、この曲のバックをつとめたのが、ジャズのサックス奏者、スタン・ゲッツです。この人、まぁ、実力はあるのですが、当時音楽のアイデアに枯渇していた、のだろうと思う。突然ブラジルから出てきたボサノバに飛びついたわけです。上に書いた「デサフィナード」の演奏もスタン・ゲッツでした。で、『イパネマの娘』のバックを演奏していきなり大ヒット。
レコード会社はバーブ、レコードは世界中で売れまくりました。シングルで200万枚を売った。また、"Jazz Samba"と題して、チャーリー・バードと演奏したレコードも売れた。さらに続いて、同じ路線で、何枚も同じようなレコードを出しては稼ぎまくった。レコード会社のバーブは大喜び、そして演奏者も……と思いきや、そうではなかったわけですね。スタン・ゲッツは、バーブに電話を掛けて、「おい、あの曲は俺の曲だからな、コミッションはブラジルなんかにやるなよ、全て俺のところへ送金するように」
実際に、ブラジル側では、コミッションは受け取っていなかったようです。そこで、ジョビンがブラジル音楽振興と音楽家保護のためにブラジル音楽の著作権を主張し、音楽事務所を作り、という活動を始めることになり……、と、ここでも、理不尽なアメリカに対抗して闘った人がいたわけです。スタン・ゲッツは抒情的なサックスと言われます。が、何がリリカルだ、その裏では、こういうことをやって札束を数えてはニンマリしていたわけです。ここにも成功者に金、金、金というアメリカの一面が見える。
1994年、カーネギー・ホールでバーブが創立50周年記念のパーティを開きました。バーブで活躍したミュージシャンが招待されたわけですが、トム・ジョビンは当然その筆頭です。ボサノバで稼ぎまくったバーブとしては、中興の祖、と呼んでもいいくらいでしょう。ここで、音楽を語るシンポジウムが開かれました。トム・ジョビンも壇上に座っていた。そこで、司会者がボサノバに話を向けました。バーブはジャズのレーベルです、ジャズのボサノバに対する影響ということを喋って欲しかったのでしょう、
「ボサノバとジャズの関係を少しお話ください」
ジョビンは怪訝そうな顔をして、
「ボサノバはブラジルの音楽です。そのルートにあるのは、サンバでした」
「ボサノバが生まれた当時、ブラジルではどういうジャズが流行っていたのでしょう?」
「私は知らない。ジャズとボサノバは関係ありません。私は自分の音楽を演奏してきただけです」
「しかし、コードなどにはジャズの影響が感じられますが」
「ジャズで使われているコードは、ジャズよりずいぶん早くドビュッシーが使っています。私はヨーロッパの音楽を勉強していましたから、それは知っています」
ここで、ジョビンは意固地なくらいにジャズとボサノバとの関係を拒絶したそうです。上に書いたような話を下敷きにして考えると、この頑なな姿勢がよくわかりますね。実際ブラジル側にしてみたら、自分たちが作ったボサノバという音楽
を聴いたアメリカ人が、勝手にやってきて、勝手に演奏して、勝手にジャズに取り込んだという話で、ブラジル人がアメリカのジャズを勉強し、その影響のもとに新しい音楽を作ったということでは全然なかった、というのが実感なのかも知れません。
(現に、『イパネマの娘』もオリジナルの楽譜では、4分の
2拍子で書かれていて、これはサンバのリズムです。)
晩年のアントニオ・カルロス・ジョビンは、こう言っていたそうです。
「私が演奏していたのは、サンバだ」
そのスタン・ゲッツも心臓発作でくたばり、アントニオ・カルロス・ジョビンも天国に召されてしてしまいました(1994)。
そうして、ボサノバが残った。
さて、イパネマの通りに残るバーですが、その新しい名前を"Garota de Ipanema” つまり、『イパネマの娘』といいます。通りの名前が、Vinicius de Moraes 通り。ボサノバの誕生に大きな力のあった詩人の名前ですね。イパネマのビーチに出て、コパカバーナの方へ歩いていくと30分ほどで、公園に出ます。これが、「イパネマの娘公園」。リオ国際空港の名前を Antonio Carlos Jobim 空港ということは先にも書きました。
60年代、ブラジルにも新しい世界の息づかいを感じて自由を表現していた若者たちがいました。時代は移りましたが、僕には今もボサノバは新鮮な音として響いています。ガロータ・ジ・イパネマ……。ここには以上のような歴史がありました。
僕たちは、今回も何度かこのバーに行きました。店内は常に混みあっていて、見回すと、観光客か地元の人か、見分けがつかない。皆、飲み物や食事を楽しみながらお喋りに夢中です。
僕はゆっくりとビールを飲む。そして、感慨にふける。
イパネマ、とうとう本当にやって来た……
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