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ブラジル点描

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もう20年ほど前の旅行の記録、ブラジルに3度行って経験したことを綴っています。できるだけ短く書くつもりが、連載で30回近くになってしまいました。それなりに面白ければいいのですが。
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27. リオとの別れ

 最後に、リオの国際空港へ戻ってきました。もうお馴染みですね、アントニオ・カルロス・ジョビン空港。ターミナルから南の方へ目をやると、凹凸の激しい山並みが続き、中ほどの山頂に小さくキリストの像が立ち、それに向かい合って屹立しているのがシュガーローフでした。  そのふもとに広がる人口1千万人の街を、いよいよ後にします。たくさんの思い出を残して。  最後に、アントニオ・カルロス・ジョビンに、もう一度登場していただきます。1987年ロスアンジェルスでの公演です。ジョビンはヤマハ・ピ

27. 黒いモナリザ

 奴隷として連れてこられた黒人はアフリカの神話・宗教も持ち込みました。アフリカの宗教ではおよそ50の神々がいて、この世界を説明し守護しています。大晦日の夜、白い服を身につけて海の神に対する畏敬を示し、白い花々を海に流して幸いを願う情景は、実はアフリカから渡ってきた宗教的習慣であったのです。  あるいは、延々と打ち鳴らされるドラムが作り出すリズムに合わせて、アフリカの宗教的陶酔に我を忘れるという情景がブラジルでも繰り広げられているのです。さらに、この陶酔がまた、カトリック教の宗

26. ブラジルの魂はバイアに

 さて、この旅行最後の訪問地へ参りましょう。リオデジャネイロから飛行機で3時間北上すると、バイアに着きます。Bahia《バイア》というのは州の名前です。到着地はサルバドール市で、ここがバイア州の州都。  ここで改めて、地理のおさらいをしておきましょう。ブラジルの概略図を見ると、南アメリカ大陸の中央西側を占めており、その北方にはアマゾンがありますね。ジャングルに覆われ、黄土を溶かしたような大河が蛇のように身をくねらせて延びている湿地帯です。  そこから南に行くにつれて大陸は大西

25. ファヴェラ、それはスラム街

 リオデジャネイロの街には、あちこちに「スラム」があり、これをポルトガル語では favelaといいます。ブラジルでは君主制が長く続き、奴隷制も比較的近代まで残っていました。そのために富裕な階層と貧民の格差も、世界一大きいのです。  ファヴェラは、不法に占拠された土地に繁殖した貧民の居住地区です。リオデジャネイロだけで、516箇所のファヴェラが存在し、その居住者総数は200万人と言われています。総人口1千万の都市のうち、200万人が不法居住者、こういう現実をブラジルの政治はどの

24. ブラジルの料理は

 ここらで食べ物の話もしておきましょう。(なんて、僕は不得意な分野なんですけど。)  ブジオスでは魚の料理をいただきました。漁村ですからね、新鮮です。新鮮だけれども味付けが違います。写真からも想像できますね。ブラジル料理に比べると、日本食は爽やかで、そよ風みたいなものですね。ギトギトとしたものばかりを食べているとここへ戻りたくなります。それで、この当時のブラジルの流行が日本食だそうで、寿司屋が混雑していました。味のほうはわかりません、僕はどうも心配で寿司屋には入りませんでし

23. ブジオスのカーニバル

 カーニバルは日本の夏祭りと同じように、ブラジルの夏に当たる2月に全国各地で繰り広げられます。ブジオスに行ったのが2月、カーニバルの直前でしたから、夜になると村の青年団がドラムの練習をしていました。  海岸に飲み物や簡単な食事を供するバーがあり、その前の広場に50人ばかりの青年や少年が集まる。それぞれにドラムを持っています。なかには、本物のドラム缶を半分に切ったようなものもありました。小さいスネア・ドラムから、大きいものは大人が腰に引っ掛けて地面に届くようなものまで、いくつか

22. パラチからブジオスへ

これまでは、パラチという村で過ごしてきました。ここは、リオから海岸沿いに、バスで5時間ほど西に走った所にありました。これから同じ道を辿ってリオデジャネイロに戻ります。そして、そのままリオを素通りして、次の地へ向かいましょう。次はブジオスという、これも海岸の町です。リオから、およそ3時間ほどのところ、北東に位置しています。 リオのずっと東にある海辺の町です。この辺りは岬が複雑に入り組んだ土地で、小さな湾があちこちにビーチを広げており、海水浴にもってこいです。多くの湾には、こ

21. パラチの人形劇

フィルムがなくなったので(デジカメも iPhoneも使っていませんでしたからね、こんな問題もありました)カメラ屋さんへ行きました。観光案内所の隣にお店を構えています。小さなカメラ屋さんですが、コダックだ、フジフィルムだとどこでも同じです。まぁどれでも同じだろう、などと言いながら買ったりしたのですが、その店のご主人は東洋系で年のころは 60過ぎほどか、ハンチングをかぶっている。おや、気がついてみると日本海軍の旭日旗バッジがついているではありませんか。 「あれ?あのバッジ見てご覧

20. パラチの思い出

さて、翌日はボートに乗ってビーチ巡りです。パラチには漁民もいて、小さな港があります。岩と木で組まれた波止場が静かな波に洗われて、早朝の眠りを楽しんでいるかのようです。これから海へ出るわけですが、40フィートくらいの白い船が、陸路からは行けないビーチに連れていってもらいます。褐色の若者2人が案内してくれましたが、船員兼船長というところですか。残念ながら、やっぱり英語は喋りません。でもなかなかの好青年でしょ。 出帆までまだ時間はあったものの早々に乗っていたら、ブラジル人の5人家

19.  パラチのビーチを巡る

陸路のビーチ巡りツアーに出発です。ガイドは黒人の若い青年です。ワゴンを運転しながら、大声で解説を加えてくれます。英語も大丈夫、という触れ込みだったので、まず「Hello!」と言ったら、ニコッと笑って、返事はポルトガル語。あぁ、やっぱり……。このニコッというのがクセモノです。日本人もよくやるので、意味はわかります。「スイマセン、喋れません。だけど、僕たちはトモダチです」という意味でしょう。 僕たちは英語⇔ポルトガル語の豆辞典を持ち歩いていますが、そんなもの使うような状況ではない

18.  パラチで観光

パラチは人口1万5千人の小さな観光地ですが、ここはポルトガル植民地としての姿を最もよく保っている場所として、ユニセフから重要史跡として指定を受けています。これに続いて、ブラジル政府も文化財として村全体の保護を決定しました。その中心地区域400メートル四方では、車の進入は禁止されています。観光資源と言えば、まず大自然。リオデジャネイロから西へ300キロ、「Costa Verde(緑の海岸線)」と言われる地域です、緑豊かな自然と海岸には不自由しません。 パラチには観光案内が1つ

17.  パラチのこと

パラチは Parathi と書きます。これは Para Thi からの造語ですが、意味は英語で「For You」。しかし実は、フランス語の「pour toi」と言ったほうが意味が近いのです。pour vous ではなく、pour toi。つまり、この時の「You」には親愛の情がこめられているのですが、当然、ここにはこの町の名前にまつわる話があります。 リオデジャネイロはブラジルの2番目の首都でしたが、その時代は1763年から1960年まで。その間のこと、1808年にナポレオ

16.  パラチへ向かう

これから少し、都会を離れます。 きょうはバスに乗ります。長距離バス、しかも観光地行きですから、デラックスなもの、しっかり冷房も効いて、座席もゆったり、リオデジャネイロを発って大きな車体を鷹揚に揺すりながら、バスは西へ、西へ。 リオからおよそ5時間ほど行った海辺にある小さな宝石、それがパラチです。 この小さな観光地に到着してすぐに、僕は故郷の田舎を思い出しました。親の実家があるところで、小学校時代は夏休みをそこで過ごしたものでしたが、その当時の雰囲気がありました。 到着したバ

15.  ブラジルを笑い飛ばす

さて、東京ならば江戸っ子、ニューヨークならばニューヨーカーなどと言われて、その土地の気質を体現しているような人たちがいますね。当然リオにもそういう気質があって、カリオカと呼ばれています。「彼はカリオカだ」などと言われるわけですね。 そのカリオカが、よく口にするジョークです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 3人が飛行機に同乗していました。ニューヨーカー、パリジャン、そしてカリオカ。 ニューヨーカーが飛行機の窓から腕を差し出して、 「お、今ニューヨーク