中邑真輔VS柴田勝頼 MABOROSIの一戦~ストロングスタイルを追い求めた男達のブルース~(2014.11.8新日本プロレス大阪大会・IWGPインターコンチネンタル戦)

ストロングスタイルとは?


1972年3月に旗揚げした新日本プロレスは長年プロレス業界を牽引する盟主である。

新日本のアイデンティティーといえるのがストロングスタイルである。そもそもストロングスタイルとは何なのか?

ストロングスタイルは、新日本プロレス創設者・アントニオ猪木が提唱したプロレスのスタイルの1つ。「強さ」による実力主義を前面に打ち出したスタイル及びコンセプトの総称として用いられる。 猪木は自著である「アントニオ猪木自伝」の中でカール・ゴッチ流のレスリング技術の攻防を見せるスタイルと力道山流のケンカに近いプロレスの凄みを見せるスタイルを融合させたものが猪木流の「ストロングスタイル」であると述べている。ゴッチは努力の積み重ねによって強さを身に付け、力道山のプロレスは喧嘩で物凄い怒りを込めた怨念のプロレスと評して、その遺伝子を継承していると自認している。また、黒いショートタイツと黒いリングシューズ、肘、膝のサポーターなしの組み合わせをもって「ストロングスタイルの象徴」とされており、新日本では多くのプロレスラーがこの組み合わせの姿から出発する。
【ストロングスタイル/wikipedia】

時代が変わり、価値観が多様化し、さまざまなスタイルの集合体となった新日本プロレス。それでもストロングスタイルを追い求める男達がいた。

"キング・オブ・ストロングスタイル"中邑真輔


2002年に新日本でデビューした中邑真輔は、過去に例を見ないスーパールーキーだった。青山学院大学レスリング部出身で総合格闘技の経験を持つ彼は新日本が強さを持つ次代のエースとして猛プッシュされることになる。デビューから1年後の2003年12月には史上最年少23歳9ヶ月でIWGPヘビー級王座を獲得。新人レスラーがいきなりメジャー団体最高峰の王者となる…それはプロレス史に残る大事件だった。

その後、中邑は棚橋弘至とともに新日本を支える二大エースであり続けた。棚橋が真っ赤に燃える太陽なら、中邑は闇に光る月のようだった。

IWGPヘビー級王座3度戴冠、G1CLIMAX2011優勝、IWGPインターコンチネンタル王座5度戴冠など新日本だけではなく、プロレス界で燦然と輝く実績とさまざまな対戦相手との名勝負を残してきたのが中邑である。人は彼を「キング・オブ・ストロングスタイル」と呼ぶ。

"ザ・レスラー"柴田勝頼


1999年にデビューした柴田勝頼は、己の新日本プロレスを貫くために、行動をし続けてきた信念の男。かつてアントニオ猪木のタッグパートナーを務め、長年レフェリーとして活躍した柴田勝久を父に持つ親子鷹であり、アントニオ猪木、前田日明、藤原喜明、高田延彦、船木誠勝、橋本真也に引き継がれて「新日本・強さの系譜」に継ごうとしたのが柴田である。

新日本プロレスが好きだからこそ、新日本プロレスを退団してまで、己の信念を貫いたこともあった。総合格闘技の舞台に挑んだのも、強さを追い求めようとする男の本懐だった。

2012年9月に桜庭和志と新日本に参戦した柴田は、己の生き様をリングで爆発させ、好勝負を展開し今の新日本ファンの心をガッチリと掴んだ。いつ何時誰の挑戦を受け、誰にも挑もうとする柴田。人は彼を「ザ・レスラー」と呼んだ。

ゼロ年代に誕生した二人のストロングスタイル求道者


実はこの二人は同世代であり、同学年である。(柴田は1979年11月17日生まれ、中邑は1980年2月24日生まれ)

プロレスラーとして、格闘技の世界にも足を踏み入れたりと何かと共通項が多い二人だったが、若手時代は犬猿の仲で、互いが互いを毛嫌いしていたという。

2005年に柴田が新日本を退団したことにより、二人は別々の道を辿ることになった。もう二度と交わることはないと思われていたが、柴田の新日本再上陸によって、事態は急変する。

そして2014年7月24日札幌・北海きたえーる大会のG1CLIMAX2014Aブロック公式戦で遂に二人は10年ぶりに再会を果たす。緊張感溢れる攻防の末、柴田が勝利を収めた。

この一戦を受けて実現したのが今回取り上げる2014年11月8日の新日本プロレス・大阪ボディーメーカーコロシアム(現・エディオンアリーナ大阪)で行われた中邑VS柴田のIWGPインターコンチネンタル戦である。激しい前哨戦を経て二人は決戦当日を迎える。

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