プロレス実況の王道・平川健太郎アナウンサーの冷静と情熱の間に

日本テレビとプロレス



1954年2月19日 蔵前国技館にて日本初の国際試合「力道山&木村政彦VSシャープ兄弟」が実現した。この試合をNHKと共に日本全国に生中継で届けたのが日本テレビである。

1953年に日本初の地上波放送局として誕生した日本テレビ開局時からの高視聴率が獲得できる看板コンテンツはプロ野球とプロレス中継だった。日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアと放映する団体、放送時間や枠が変更になっても、50年以上に渡り、日本テレビはお茶の間にプロレスを届けてきた。

プロレス中継に貢献してきたのが、試合をナビゲートする実況アナウンサーの存在である。佐土一正さんに始まり、越智正典さん、清水一郎さん、徳光和夫さん、倉持隆夫さん、松永二三男さん、若林健治さん、福澤朗さんといった名実況アナウンサーを輩出してきた。日本テレビとプロレスはどんなに放映枠が遅くなろうとも放映時間が短くなろうが、切っても切り離せない関係だった。

50年以上の蜜月に終止符…その臨終に立ち会い涙した男



だが2009年3月。
日本テレビは視聴率低下を理由に当時放映していたプロレスリング・ノア中継を打ち切ることを発表。これによって55年に及ぶ日本テレビとプロレス中継の歴史に幕を下ろすことになった。

その最後のビッグマッチとなった同年3月1日の日本武道館大会。メインイベントで佐々木健介を破り、3度目のGHCヘビー級王座戴冠を果たした秋山準の勝利者インタビューの舞台で、涙を浮かべながら聞き手を務めた男がいた。当時日本テレビプロレス班チーフであり、長年プロレス中継の実況で活躍してきた平川健太郎さんである。プロレスだけではなく、プロ野球、箱根駅伝、レスリング、格闘技などさまざまなスポーツで名実況を我々に提供してきた「スポーツ実況の名人」。

そんな平川さんにとってプロレス実況はアナウンサーになる前からの目標だった。


プロレス実況がしたくて、日本テレビに入社したスポーツ実況の名人



1992年に日本テレビに入社した平川さんがプロレス実況に携わったのはその4年後の1996年。

当時は全日本プロレス中継で活躍した若林健治さんが放送席から離れた時期で、日本テレビの実況陣はやや迷走していた。メイン実況の福沢さんはプロレス実況以外も仕事が多忙で、若手がカバーしていたが、そのレベルは幾多の実況アナの域までには達していなかった。そんな中、プロレス班に配属されたのが平川さんだった。

彼は配属直後の同年7月24日の日本武道館大会でいきなり川田利明VSゲーリー・オブライトの実況担当となる。そこで我々が耳にしたのは、川田VSオブライトのややシュートスタイル(UWF)な試合に対応し、的確に実況した平川さんの冷静沈着な実況だった。プロレスというジャンルが好きなのか、仕事として実況しているのかは一度でもその実況者の声を聞けば大体は判別できるのがプロレスファンである。

平川さんは紛れもなくプロレスファンだった。少年時代からのプロレスファンで、若林さん同様にプロレス実況がしたいがために日本テレビに入社したのだ。

平川さんはその後、実力を開花し、メインイベントの実況を任されることが多くなる。あの三沢光晴VS小橋健太の三冠戦の実況も担当した。あのジャイアント馬場さんが放送席で涙を流した時も、となりには平川さんがいた。

彼の実況スタイルは堅実で落ち着いた実況。また、非常に間をとった絶妙な実況は視聴者の受けもよく、解説者の話が生きるスタイルである。日本テレビが全日本プロレスからプロレスリング・ノアに中継枠が移行しても平川さんはメイン実況として活躍する。

伝説の実況・三沢VS川田


そんな平川さんの実況における最高傑作と言えるのは2005年7月18日プロレスリング・ノア東京ドーム大会のメインイベント・三沢光晴VS川田利明の運命の再会マッチである。冷静沈着に二人の人生を描写する平川実況は、我々の心に深く刻んだ。

「その背中に5年間守り抜いた全日本の看板はもうありません。今はただその目に焼き付けた三沢光晴の姿を思い浮かべます。長い花道の向こうに三沢との再会の場が見えた!川田利明!たった一言、運命という言葉のみが川田をノアのリングへと足を向かわせます。そして、たった一言では片付けられない26年に及ぶ歴史の最後の扉が開きます。足利工大付属高校の丸いマットで出会ってから始まった三沢を追い求める川田の闘い。坊主頭の15の春から川田の前には常に三沢の背中がありました。そして、今。川田の目の前にあるのは緑色の三沢の創ったノアのリング。ノアのリングに川田利明登場!」

「聞いたことのないピアノの旋律が川田の耳に流れます。今、川田には三沢のどんな表情が浮かんだか。そして今、5年の時を経て、川田にとって聞き慣れた三沢コールのシャワーを浴びます。これまで何度も三沢コールをエネルギーに変えてきました。あの時が帰ってきた!川田が永遠に追い求める男、三沢光晴!5年前、二人の別れは突然やってきました。理想を求めた三沢。信念を曲げなかった川田。出会ってから初めて違う道を進んだ2人が今宵、運命という名の同じ花道を歩みます。誰よりも川田をかわいがったからこそ、リング上では徹底的に川田を叩き潰しました。命を削り合った闘いだからこそ二人にもう次はありません!三沢と川田、この二人が同じリングに立ちました」

「看板は捨てた!しかし歩むのは俺だけの王道!川田利明!」

「区切りでも節目でもない。これは男のけじめの闘い!三沢光晴!」

「馬場さんのプロレスを守るためにノアを立ち上げた三沢。馬場さんが築いた城を守るために全日本に残った川田。どちらが偉いとか、尊いとか、かっこいいとか、そんなことは問題ではありません!これは二人の男の生き様です!」

「男の生き様です。そして26年に及ぶ二人の闘いにけじめをつける一戦。我々はもう三沢対川田を二度と見ることはできないかもしれない…」


そして「目に焼き付けろ!三沢対川田を!」と言った後に平川さんは驚きの実況に打って出る。二人の激しい打撃戦を敢えて一切言葉を発さず、無言で実況して見せた。二人の息使い、打撃音、叫び声、ファンの歓声… その声をダイレクトに伝えることにより、この一戦は他の闘いとの違いを表現し、一区切りした瞬間に「これが三沢対川田!」と発した。

試合中、実況アナが数十秒も無音でいることがいかに特別かつ勇気がいることか…
間のあけすぎはラジオとかでは放送事故と取られる。
それを恐れず平川アナは二人の攻防を無音で伝えて、最後に「これが三沢対川田!」と締めたのだ!

これは平川さんにしかできない感動的な超絶実況だった。

試合は三沢が勝利した後にも平川実況は冴えわたる。


「まるで仲のいい兄弟のように二人が仰向けにこのリングに倒れています」

「過去20回、シングルマッチを闘いました。追いかける立場の川田は、常に三沢の背中を追う立場でありました。しかし、空白の5年間、二人はお互いの信念を曲げることはありませんでした。これまで5年間の長きに渡って二人が離れていたことはありませんでした。しかし、それぞれが信じる道を歩むとき、自ずと道は分かれていきました。ただ二人が同じリングに立ったとき、ぶつけ合う気持ちは26年の時を経ても、空白の5年間があっても変わることはありませんでした」


そして平川さんは最後にこう締めた。


「我々はこの闘いがいつ最後になってもいいよう激しい闘いを見ました。三沢は川田を、川田は三沢を常に追いかけます」


そしてこの試合が三沢VS川田のラストマッチとなった。まるで二人のその後を予見するような美しい実況でのエピローグだった。

英雄・三沢光晴の急死に捧ぐ悲しみと感謝の名実況


2009年3月にプロレスリング・ノア中継は地上波打ち切りとなり、日本テレビ系のCSテレビ局「ジータス」のノア中継で実況の舞台に立ち続けた平川さんに、さらなる悲しみが襲う。

プロレスリング・ノア創始者であり、日本プロレス界の英雄と呼ばれた三沢光晴のリング渦による急死だった。

2009年6月22日。三沢急死後の後楽園大会。全試合終了後に三沢のテーマ曲のスパルタンXが流れる。自然と三沢コールに包まれる会場。その中で実況したのもやはり平川さんだった。その時の彼の実況は伝説となった。

「その姿は目に見えなくてもファンが叫び続ける中大歓声の中で三沢光晴は生き続けます!花道を歩いてセカンドロープをスルッと飛び越える瞬間を思い出しているでしょうか?」

「或いはリングに上がって大歓声を受ける姿が目に浮かぶでしょうか?選手コールを受けて右腕を上げる姿でしょうか?試合序盤に出すエルボーでしょうか?試合終盤に出す額の汗を指で弾く姿でしょうか?」

「いろんな姿が皆さんの瞼に浮かんでいると思います。後楽園ホールのグリーンのマットにこれまでのプロレスの歴史の中でも数えきれないくらいほどの紙テープが投げ込まれています。そして誰もが三沢コールです」

「後楽園に埋め尽くしたファンの皆さんだけではありません。全国のファン、ノアファン、三沢ファンの中に恐らく三沢コールが響いていることでしょう。あの曲を聴けば三沢光晴が蘇ります」

「ノアはこの年(2009年)旗揚げ10年目を迎えます。自らの信念のもとにこの緑のマットを作り上げました。三沢光晴はプロレスの宝、そして俺達の誇りです!」

「まだ三沢コールが聞こえてきます。誰も辞めたくありません、このコール。恐らく三沢本人は照れているでしょう。どこかニヤッと笑う三沢のそんな表情が見えます」

「もう試合は終盤です。左右のエルボーが入ったでしょうか?ローリングエルボーか、ランニングエルボーか、やはり最後も右ひじでした。今日も三沢が勝ちました…」


これほど愛と尊敬に満ちた実況を聞いたことがない…。三沢の死は当然長年彼の試合を中継してきた日本テレビ関係者にもショックを与えた。

平川さんも同様である。三沢の数々の名勝負には彼の実況があった。見えない天国の三沢の雄姿を見事に描写した彼の実況を忘れない…。

2015年6月13日の平川健太郎


2015年6月13日にジータスで放映された「三沢光晴七回忌メモリアルナイト弔辞~リングに捧ぐ鎮魂歌~」という番組があった。そこでは三沢に関係したレスラー仲間やスタッフや友人が集まり、生前の三沢との思い出について語り合った。その中で参加者一人一人が天国の三沢に向かって弔辞を述べることになっていた。番組が中盤になったところで平川さんの出番となった。

「豊洲駅から電車に乗って有明に来ました。(※弔辞の収録場所が当時有明にあったノア道場)」

「毎年、この時期に電車に乗りますと6年前のお別れの会を思い出します。電車にして二駅から三駅ほどでしょうか。大変長い列があの暑い日の中、できあがっていました。ファンの皆さんが大変長い列をつくっているその光景を見ていて、三沢さんが亡くなったという事実は大変悲しいことではありましたけれど、その列を見ている我々はどこか嬉しいような、誇らしいような気分になったことを思い出します」

「一ファンとして、一実況アナとして何百試合もの三沢さんの試合を見てきました。馬場さんや鶴田さんのプロレスを受け継いだ、まさに王道プロレスの継承者が三沢さんだったと思います」

「三沢さんの実況をしていたなかで一つ心残りがあります。それは『世界の巨人』(ジャイアント馬場)、『若大将』(ジャンボ鶴田)、『仮面貴族』(ミル・マスカラス)、『不沈艦』(スタン・ハンセン)…。じゃあ三沢さんは何だったのでしょうか…。確かに色々なキャッチコピーや肩書があったと思います。でも大変生意気な言い方をさせていただきますとどれも違うかと思っていました」

「じゃあ自分で考えようと自分なりに三沢さんの実況をするときに、さまざまなキャッチコピーや肩書、どんな言葉が三沢さんに合うのだろうということを考えながら実況していました。ただ大変申し訳なかったのですが、最後の最後までその言葉を見つけることができませんでした。これが本当に心残りであり、後悔です。三沢さんが亡くなったので、三沢さんの試合のなかでその言葉を探すことはできませんが、僕がアナウンサーを続けている以上、この言葉探しの旅は続くんだろうなと思っています。おかしなことかと思われるかもしれませんが、今でもほぼ毎日、三沢さんに合うキャッチコピー、肩書は何だろうと考えています。アナウンサーでいる限りずっと考え続けて、いつか心の中でご報告させていただきたいと思います」

最後に平川さんは弔辞をこう締めくくった。

「三沢光晴はプロレスの宝、私達の誇りです。ありがとうございました」

そして同日に広島グリーンアリーナ大会で開催された「三沢光晴メモリアルナイト2015」のメインイベントと全試合終了後の追悼セレモニーを実況したのが、平川さんだった。

「あの日の試合後、ベルトを巻いて聞くはずだった三沢コールを聞くために三沢光晴が広島に帰ってきました。三沢コールを叫ぶとき、その人達の目は輝き力一杯の手拍子を贈ります。でもあの日を境に枯れるほど叫んでも、いつの間にか目が潤むようになりました。悲しいだけじゃない、寂しいだけじゃない。忘れたくないから、忘れてはいけないから、そして忘れるわけがないから、みんな必死で三沢の名を叫びます。大きな男でした。強い男でした。あの時の広島で勝ってベルトを巻いてもう一度三沢コールを浴びながらリングを下りるはずでした。そのリングで忘れていたリングシューズが広島のリングに届きました。もう一度シューズのひもを結び直して、三沢光晴リングインです」

「四天王が揃いました。リングシューズを履いたベルトを巻いた三沢さんを中心に今、四人が揃っています」

※その後、10カウントゴングが鳴り響き、「三沢光晴」のコールとともリング上は緑色の紙テープに包まれる中で平川アナの実況は続く。

「あの日から六年経ちました。齋藤(彰俊)の目には何が映っているのでしょうか!?見上げたその視線の先に見つめる三沢さんはどんな表情をしているのでしょうか。齋藤の目には三沢さんがどう見えているのでしょうか。2009年6月13日から満6年です。齋藤にとって今日、広島でバックドロップ(三沢がリング渦に巻き込まれた際に決めた最後の技)を出した…。一つ本人のなかで節目となるそんな思いでリングに上がっていたことかと思います」

「リングには三沢さんの色でもあります緑色の紙テープに埋めつくされています。まだ場内の皆さんは立ち上がったまま、スパルタンX(三沢さんのテーマ曲)を聞きながら三沢さんの入場、あるいは勝ち名乗りを受ける姿を思い浮かべているのかもしれません…」



平川アナウンサーがこの日のメインと追悼セレモニーを実況。齋藤が三沢さん最後のリングとなった広島の地に立ち、10カウント終了後に平川アナウンサーが最後に齋藤について触れることで、何かしらの一区切りがついたような気がした。

三沢光晴への追悼の気持ちは変わらない。しかし、それぞれの目指す未来に向けて歩んでいかないといけない。

「悲しむより、明日に向かって頑張ってほしい!」

天国から三沢にそう言われているような気がしたそんな2015年6月13日の平川健太郎アナウンサーの名調子だった。

プロレス実況20年を越えたある日、名調子は突然消えた…。



2015年からは日本テレビ編成局アナウンスセンターアナウンス部専門副部長兼チーフアナウンサーとなり、 さらにプロレス実況20年を越えた平川さんだったが、2017年を最後にプロレス実況の舞台から姿を消した。理由は公にはされていないが、プロレスリング・ノアを中継するジータスの方針なのか、平川さんが去った後に実況しているのは日本テレビのアナウンサーではなく、フリーのアナウンサー達である。個人的な想いを述べるなら、誠に残念である。


だが、プロレスが今後なんからの形で日本テレビに復活した際には、平川さんの名調子が聞けることを心待ちにしたい。

平川さんは、日本テレビアナウンスルームのホームページで尊敬する人物としてあげたのはやはり三沢だった。

「試合中にリング上で亡くなって今年で10年。ひとりの男としての器の大きさ、信念を曲げない頑固さ、そして周りを包み込む優しさ、当時もいまも、その背中を追っています」

思えば平川さんが実況した団体・全日本プロレスは王道を掲げてきた。そして平川さんはプロレス実況の王道を長年歩んできたのではないだろうか。どんな時でもプロレスのために、プロレス実況に冷静と情熱を注いできて、名実況を残してきた。

そして平川さんが残してきた名実況は、我々プロレス者に心にある「プロレスの教科書」にしっかり刻まれているのである。


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