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PSYCHO-PASSサイコパス3〈A〉【50P以上試し読み】


『PSYCHO-PASSサイコパス3〈A〉』の冒頭部分の試し読みを公開いたします。

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あらすじ

魂を数値化する巨大監視ネットワーク・シビュラシステムが人々の治安を維持している近未来。変わりゆく世界で、犯罪に関する数値〈犯罪係数〉を測定する銃〈ドミネーター〉を持つ刑事たちは、犯罪を犯す前の〈潜在犯〉を追う。 2012年にスタートしたオリジナルTVアニメーション作『PSYCHO-PASS サイコパス』の第三期シリーズとなる本作は、ふたりの新人監視官の物語。慎導灼と炯・ミハイル・イグナトフは、厚生省公安局の刑事となり、変わりゆく世界で真実を求めていく。


この作品は集英社文庫から刊行されたTVアニメ『PSYCHO-PASS3』のノベライズです。
1~2話のエピソードを、脚本を担当した吉上亮先生が自ら小説化しました。
本編をより深く理解し、楽しむためには絶対に外せない小説です!! 

劇場版もまもなく公開しますし、この際是非読んでみてください!!
続きは今春発売予定です!!

ところで集英社文庫から刊行したのに、なんでJブックスのnoteで?ということなのですが、それは編集しているのがJブックス編集部だからです。

企画次第では最近は編集部やレーベルの垣根をこえることもあって、いろいろやったりしてます。

それでは物語をお楽しみください。


PSYCHO-PASS3

 まず最初に何を記すべきか。もうずいぶんと長く悩んでいた。何事においても始まりが肝心だから。
 自らの知り得た真実を正しく他者に伝えなければならなかった。忘れられてはならない真実の告発のために。真実に殉じた数多の命に報いるために。語るべき言葉を探し求めていた。ただ一人、さながら暗い夜の荒野を歩むように。
 正直に告白すれば、迷いもした。そもそも自分に真実を語る資格があるのかどうかさえ定かではないから。けれど、誰かに命じられたわけでもなく、求められたわけでもなく、あるとき、ふいに胸の裡に問いが去来したのだ。
 なぜ罪は裁かれ、罰せられなければならないのか?
 なぜ罪を裁くために、法と正義が必要なのか? 
 そして自分たちがその生のすべてのよりどころとしてきた精神色相とは──そう、すべての人間が有する魂とは、果たして何なのか?
 一度は答えを手にしたと思った。だからこそ行動を選んだ。刑事として為すべきを選択し、そして事を成した。その代償に多くのものを失ったとしても。
 だというのに、あれから長い時間を経た今でも、幾度となく問いが繰り返されている。
 その答えは容易く言い表せるものではなかったし、そもそも自分の答えが正しいとも思わない。けれど間違っているともけっして思っていない。
 そうやって答えのない問いかけに辛抱強く向き合っていくうちに、やがて何かを書かなければならないという切実な想いが芽生え、日に日に重みを増していった。
 どれほどの時間がかかるだろう。そもそも最後まで辿り着けるのかも分からない。
 しかし、最初の一文を打鍵したとき、次なる文章が自然と生まれていた。何事にも結末はある。始まりのない終わりはなく、終わりのない始まりもまたない。
 長く果てのない旅の相棒は、古めかしい非電源式のタイプライターだ。データ流出や改竄を防ぐために要求し設置させたもの。使い慣れたホロキーボードと違って、打鍵ひとつひとつに物理的な重みがあり、強い力が必要だった。
 人並以上に体力はあるつもりだったが、文字通り言葉を打つために、多くの力を必要とした。一度の作業で書ける文章の長さはひどく短いから一言一句を吟味しなければならなかった。打つべき文字を誤れば、最初からやり直しになってしまうから。
 文字を打ち込む作業は、ひどくアナログだ。一から十まですべてが正しい手順を経なければ正しい結果はもたらされない。
 打鍵するたび、タイプライターを構成する無数の細かな部品たちが緻密に連動し、言葉を文字に変えていった。始まりから終わりまでの動作すべてが連関する機構。
 いつしか、自らもまた機械の一部になる感覚が訪れた。あるいは接続された機械こそが拡張された自らの身体の一部なのかもしれなかった。
 連想されたのは、かつて出会った男たちの記憶だ。誰も彼もがタフ極まりなく頑固なまでに強く揺るぎない意志を持ち、己の果たすべき責務をまっとうしようとする者ばかりだった。そんな彼らの手には、必ずと言っていいほど銃が携えられていた。
 銃こそが人間の生み出したアナログの究極的到達点のひとつだった。引き金を介して指と接続された銃の撃発機構はシンプルで、そのくせ途方もない破壊をもたらす。正義も悪も問うことなく、その一撃をもって、銃を手にしたものが世界に対して示すと誓った答えを──この上なく雄弁に。
 自分も彼らと同じく銃を手に取る選択をした。出さなければならなかった答えを社会に対して突きつけるために。正義のために殉じたものすべてに報いるために。
 そして、ひとつの結果がもたらされた。自分が今この場所にいる理由だった。
 ふいに訪れる理解。自らが今、書くべきもの。
 そう、これは報告書だ。
 この社会においてはもはや失われて久しいが長い人類の歴史において何度も消えかけ、しかしけっして絶えずに受け継がれた正義という火への祈りを胸に秘めた者が社会に向けて届けるべき──少数者の報告。
 打鍵は慎重に、それでいて恐れはない。もしも打ち損じがあればまた最初からやり直せばいい。これは許された失敗だ。目指した真実へ辿り着くため、歩んだ先の道が間違っていたとしたら、来た道を戻ればいい。
 少しずつ、正しい道を見つけてゆく。遅々としてじれったくも着実な一歩を積み上げていく。真実へ至ろうとする意志の灯火が消えない限り、その前進は止まらない。
 幸いにも、自分には多くの時間と自由があった。どちらもかつては持て余すほどあったはずなのに、刑事となって以来、いつのまにか失われてしまっていたもの。そして今取り戻されたもの。他人からすれば、今の自分から奪われているとされるもの。
 恐れはない。自分は何も奪われておらず、失われてもいなかった。
 たとえ肉体は囚われの身にあったとしても、精神を縛ることはいかなる鎖にもできない。安寧と引き換えに自由を誰かに譲り渡すことをけっしてよしとせず、何者にも隷属しない意志を手放さない限り、人間の魂は自由で在り続けるのだ。
 自由と引き換えに得た場所はぶ厚い壁に囲まれている。監獄の一室──かつて正義と法が人の手に委ねられていた古い時代、罪を犯した者が下されるべき裁きの瞬間を待つために収監される場所──によく似ていたし、実際、そのような機能を果たしていた。
 打鍵する手を止める。まだ出だしの文章は、わずかしかなかったが、歯車がカチリと嵌まるような明確な感覚があった。

 私たちの社会は、人の心理や精神状態の計測に成功した。
 魂の数値化──サイコパスに基づき、人々は罪を犯す前に裁かれる。
 審判を下すのは、厚生省の巨大監視ネットワーク、〈シビュラシステム〉。
 このシステムと長い鎖国政策により、日本は世界紛争の悲劇を免れ、ゆいいつ平和な国となった。
 だがそのために私たちは何を犠牲にし、そして忘れ去ったのだろうか。
 答えは深い闇の中にある。この社会にひそむ本当の罪とともに──。

第一章 ライラプスの召命

 日本上空、高度三三〇〇〇フィートを飛翔する大型輸送ドローンが、今しも着陸に向けた降下シークエンスを開始した。機体各所の機構が連動し巨大な翼部が波打つたび、巡航高度から進入高度へ段階的に降下していく。
 AN三三〇便大型輸送ドローン。九州北部の群島地帯に造成された難民特別居留地──通称〈出島〉と東京を極短時間で結び、多くの乗客物資を輸送する定期便。
 元来は、東京─出島航路において無人輸送機を弾道軌道で打ち出し、大量の貨物物資を送り届ける無人輸送システム。
 物資輸送の効率化を限界まで推し進め、無人運用が前提となった大型輸送ドローンに何の装備もなく人間が搭乗すれば、離陸とともに苛烈なGや急激な気圧低下に晒される。血は逆流し、意識は吹き飛び、そのまま永眠しかねない。効率の対価に多大な負担を強いる危険極まりないしろもの。
 客の九割方を占める入国者たちは、貨物室を改造し、専用の寝台が隙間なく収められたキャビンに物資同然に詰め込まれていた。機内の安全な区画はファーストクラスとして、政府関係者や企業重役といった一部の上客に占有されているからだ。
 入国者──難民出身の外国人たる彼らは輸送ドローンに搭乗している間、投薬と光学的催眠を組み合わせた睡眠導入によって深い眠りに落ちている。乗客の生命を保障するのは、各寝台に取りつけられた気密ハッチだけだったが、測定される精神色相はリラックス状態が維持され、微塵もストレスは観測されない。
 人類は長い歴史の営みにおいて自らの生活圏から危険を取り除く試みを幾度となく繰り返したが、完全に排除できた例はない。とはいえ、人間の意識を危険から遠ざけてしまうことはそう困難なことではなかった。
 投薬と催眠。認識のコントロール。自分は完全に安全な場所におり、あらゆる危険が自分を害することはない。その錯覚さえ得られれば、人間は容易に安全を錯誤し、精神的に完璧な安らぎを獲得できる。危険に気づかなければ心は安らかなままでいられる。
 そして、寝台のハッチがひとつだけ、開いたままになっていた。
 無人の寝台。ハッチが抉じ開けられた内部には、まだ人の温もりが残っている。
 乗客の痕跡があった。枕元に転がるVRヘッドセット。黄色い蒸気を噴霧するディフューザー。寝台の奥に散らばる大量の錠剤。強い混乱と拒絶のあらわれ。
 この寝台の乗客は、どういうわけか、完全気密の寝台を飛び出し、キャビンに転び出てしまっていた。苛烈なGと減圧によって生存が脅かされる危険地帯へ。
 しかし、キャビンに人影はない。降下シークエンスに移り、給仕用ドローンも所定の位置に格納されている。
 あるのは、ひとつの異常だった。通路の奥の貨物カーゴへ通じる扉。気密維持のため厳重にロックされるべき隔壁が、どういうわけか開いていた。
 膨大な量の物資が積み上げられた貨物カーゴは照明ひとつなく真っ暗だったが、ネットで覆われ堆く積まれた貨物の山と山の間に、ぼうっと携帯端末の光が灯った。
 ホログラフィックが造形する美しい女性の容貌にひれ伏すように、男がうずくまって震えている。極度のストレスに晒され、すっかり怯えていた。
「……すまない、アーディレ」
 男はまるで今生の別れを口にするように、女性の名を呟いた。
 その双眸から涙が溢れた。明晰極まりない頭脳は、自分の身に降りかかった不運の行き着く先を予測していた。手にしたデバイスが色相の急激な悪化を警告している。
 ああ、神様──顔を上げて天に祈った。故郷にいた頃、命の危機に瀕したとき、いつも同じことをした。神様、私を飛び交う銃弾からお守りください。神様、愛する家族が空から降る爆弾に焼かれぬようにお守りください。
 ふいに神が男の想いに応えたかのように、貨物搬出入用のカーゴ隔壁がいきなり開いた。
 気圧差による猛烈な突風が生じた。巨大な鯨が底なしの胃袋へ餌を吸い込もうとするように、男は容赦なく身体を引っ張られた。その手から離れた携帯端末が床を転がった。
 男の身体は貨物区画の床を滑り、固定装置が外れた他の貨物とともに搬出入口へ押し流された。暗黒の空へぽっかり開かれた巨大な穴へ──ぐんぐんと近づいていった。
 悲鳴を上げた。溢れる涙は猛風に吹き散らされる。それでも生き残るために足掻き続けた。最後の一瞬まで生き延びることを諦めなかった。
 それは男やこの大型輸送ドローンに搭乗し眠り続ける数多の入国者──難民たち全員に共通する本能のようなものだった。その意志が命を失わせずにここまで繋いできた。
 その執念を、今度こそ神が聞き届けたかのように、男が必死に伸ばした指先が、かろうじて床板の断面に引っかかった。身体は半ば以上がすでに機外に露出し、風に煽られている。最後の瀬戸際、危機を脱するチャンス。男は指先に全神経を集中させた。
 直後、貨物搬出入口が開いたことで生じた気圧の変化によって機体が大きく傾いだ。貨物区画の暗闇の奥で何かが動いた。続いて、バキンッと金属が破断する不吉な音が響いた。貨物固定バンドが千切れ、大型貨物のひとつが滑り出してくる。
 声にならない悲鳴が漏れた。次の瞬間には貨物が目前まで迫っている。巨大な質量との衝突がもたらす激痛さえ感じる間もなく、その身体は機外に押し出された。
 大型輸送ドローンの巨体はあっという間に遠ざかった。かと思いきや、ふいに挙動を乱して高度を急激に下げていく。墜落するかの如く。
 そして、何もない暗黒の空へ放り出された男は見た。鈍色の闇のなかに燦然と輝く、神殿のような偉容の美しい都市を。
 日本・東京。二一二〇年現在、包括的生涯福祉支援システム〈シビュラシステム〉によって、地球上で数少ない、法と正義の秩序を保ち、繁栄を享受する輝ける新世界の姿を。
 男は手を伸ばした。多くの犠牲の果てに辿り着いたはずの約束の地へ。愛する者が自分の帰りを待っているはずの場所、新たな故郷となるはずだった光のなかへ──そして二度と帰りつくことなく、その意識を果てしない暗黒が覆い尽くした。

「──あっ、来ましたよ!」
 歓声が上がった。有明に造成された空港の展望台に陣取った航空機マニアたちは、夜空に輸送機の光が瞬くや否や、一斉に夜間撮影用のカメラを向けて撮影を開始する。
 日本政府が開国政策に舵を切ったことで国内の物資輸送量はかつてなく増加した。九州の〈出島〉から東京へ向けて弾道ミサイルのようにひっきりなしに打ち出される、世界最大級の大型貨物輸送ドローンの姿を一枚でも多く、少しでも勇壮に撮影しようと腐心している。まるで子供だ。誰もが夢中になって飛行機のことしか見ていない。
 最前列に陣取る彼らの少し後ろの位置に、その男は立っている。標準よりやや高い身長。均整の取れた身体つき。綺麗に撫でつけられた髪。壮年の紳士そのものといった横顔には、飛行機撮影にはしゃぐマニアたちを愛児のように慈しむ微笑みが浮かんでいる。
 優雅な仕草で動画撮影用の望遠カメラを構えていた。男の位置からでは機体の細部まで撮影することはできないが、代わりに着陸態勢に入った大型貨物輸送ドローンの飛行コースを最初から最後まで堪能できる。
 周りのマニアたちが機能性重視のアウトドアファッションに身を包んでいるというのに、男は一人だけ紳士然とした上等に仕立てた三つ揃えのスーツを着ていた。そのくせ富を誇示するような下卑たところが少しもなかった。むしろ、誰よりも生き生きとした稚気を発していた。まるでいたずらの成功を心待ちにする子供のように。
 そのときだった。降下ルートを辿っていた輸送機の挙動がガクンと乱れた。急激に高度を落とし、所定の着陸コースを大きく逸れていく。間もなく海上へと着水。激しい飛沫を上げ、高濃度汚染水の只中で輸送ドローンの巨体が静止する。
「落ちたぞ!」
 マニアたちは驚きつつも撮影を続けている。本当に馬鹿だな。何が起きているのか分からなければ、彼らはどんな出来事にも無関心でいられる。彼らは都合のいい事実だけを楽しみ続け、その色相は濁らない。そう、何も知らなければ。
 男が立っているのは墜落した機体を撮影するのにちょうどいい位置だったから、マニアたちが我先にと殺到してくる。男は優雅な仕草で場所を譲った。すでに用事は済んでいる。
「芸術だなあ」
 満足げに頷いた。予定通り。完璧な事故。カメラを片付けると、ポケットから旧式の携帯端末を取り出した。遠くの輸送ドローンと自分を同フレームに収めると、笑みを浮かべて自撮りしようとする。そういえば、こういうとき、昔の人間は、笑顔になるためにいろいろなフレーズを口にしたものだ。
 1+1は? セイ・チーズ──しかし本当の笑顔になるのは、本当に幸せなときだ。
 なら、答えはひとつ。
「アイム、ハッピー♪」
 男は満面の笑顔でシャッターを切った。

 雨が降っている。
 耀きのない夜。陽の光が一度も射したことのない洞窟のような暗闇を車が走っている。前後に延びる舗装道路に始まりはなく終わりもない。左右の景色もまた無辺の漆黒。
 どこにも繋がらずどこかに繋がっている道を走行する車は、自動車という機械が所有者の洗練された美意識を反映していた古い時代の優雅なフォルムをしている。煌々としたヘッドライトが前方の闇を切り裂くが間もなく再び真っ黒な夜が車体をぴったりと覆い尽くす。並走する車も後ろについてくる車もない孤独なドライブ。
 運転席に黒く不明瞭な輪郭の影が落ちている。誰もいない。ハンドルもギアも誰に操作されるわけでもなくひとりでに動いていた。
 あたかも自ら意志を持っているかのように走行し、乗客を運ぶ自動車。その後部座席に少年がいる。運転席で父親がハンドルを握る車に息子の彼が座っていた頃、彼はまだ少年だった。遠い昔の記憶。もう二度と繰り返されることはない日々。
 少年は、手に古いポータブルラジオを宝物のように握り、ザーザーとノイズを発するイヤホンを片耳に挿している。
 疑問が浮かぶ──この車はどこへ向かっているのだろう──眠りから目覚めたばかりのように頭がぼんやりとしている。窓ガラスに飛沫く雨粒の音が心地よい。雨音はイヤホンのノイズと混じって暗い夜の海辺で波が打ち寄せているかのようだった──この車はどこへ向かっているのだろう。
 今日から仕事なんだ。
 少年は顔を上げて運転席に座る影に話しかけた。外は暗く車のなかもやはり真っ暗だというのに運転席に父親が座っていることは間違いなく分かった。父親は少年をいつも見ていた。父親は返事をしなかったが、少年は気にする様子もなく話を続けた。
 公安局刑事課。知ってるだろ。適性、ようやく出たんだ。
 話をしているうちに少年は成長し大人になっていた。黒い上下のスーツ。糊のきいた白いシャツ。首に締めた皺ひとつないネクタイ。靴はぴったりとした革の感触。新たな門出に相応しい何もかもが真新しい格好。
 ちょっと時間がかかったけど。やっと始まるよ、父さん。
 自ら望んだ仕事に就けたことを晴れ晴れとした口調で報告する。
 ……サイコパス……すべては……お前を守る……。
 運転席の父親の返答は簡素だった。雑音はますますひどくなっていてよく聞こえない。運転席に座る影から血が零れ出し黒々とした染みでシートを浸していた。
 公安局……事件……現行犯逮捕……元監視官……サイコパスを非公表……。
 再び声がしたがそれは影ではなくつけっぱなしのカーステレオから漏れ聞こえたものだった。どこかで起きた事件を伝えるニュース。雑音がひどい。ボリュームを上げるために腰を浮かそうとすると、とん、とん、という足音が聞こえた。耳を直接ノックされたかのように。イヤホンのノイズを貫いて。はっと音のするほうを向いた。
 べとり、べとり、と窓に動物の足跡の血糊が貼りついている──狐だ──なぜかそう直感する──窓を歩いていく狐の足跡をじいっと見つめる──姿なき透明な狐はこちらの視線に気づく様子もなく足跡だけを残してどこかへ歩み去っていく──ゆっくりとした足音は雨音に掻き消されていく。この狐は何者だろう──正体を知らなければ──ふいに強烈な使命感が芽生えた──なぜそうしなければいけないのか分からないままに。
 そして気づいた。運転席に狐がいた。仮面をつけた男。焰に焼かれる獣を象ったような異様な相貌の仮面。黒い装束。精緻な造りの腕時計を手首に巻いている。高い品位を身に着けていることが伝わってくる。
 仮面の男はゆっくりと振り向こうとする──後部座席に座る息子の呼びかけに父親が応じるように──その顔を見てはいけない──高まる雨音とラジオのノイズに混じって強烈な警告が雷火のように瞬いた──この仮面の男に、お前は顔を見られてはいけない──なぜ? おれの父親なのに──なぜ? これはおれの父親ではないのに──仮面の男が完全に振り返った──しかしその顔を見ることはなかった。
 暗闇の到来。瞼は閉じられる。猛烈な眠気。意識が眠りよりもさらに深い場所へと沈んでいく──誰かの声が聞こえる──灼──誰かを呼んでいる──おれの名前──おれの声におれでない誰かの声が重なる──まるで岩肌に打ちつけるピッケルみたいな鋭く硬い声色──おい、灼──船から海に降ろされた錨のように心の深いところに到達する縄を見つける──互いに命を預け合い、互いの命を守り合うと誓った──精神的ザイルパートナーのあかし──手を伸ばす──がしっとザイルを握る──誰かに力強く手を握り返される感触──ああ、そうだよな、うん。分かってる。もう大丈夫だ。
 そして、慎導灼(しんどうあらた)は、夢のなかで夢から目覚める。
 自然と声が口から漏れていた。
 必ず見つけるよ。真実を。
 今は亡き父親へ。今度こそ本当の報告を。
 目を開くと、もう運転席には誰もいない。窓に足跡もない。
 車は暗闇を走り続けている。
 雨が降っている。

 東京湾の再開発埋め立て地域に造成された有明空港へ向かう道路を、一台のクラシックカーが湾岸部へ向けて走行している。
 行き交う車両の数もまばらだ。埠頭に面して建ち並ぶ倉庫街を出入りする貨物輸送用の無人トラック以外に、真夜中の沿岸部に用事がある人間はほとんどいない。
 道を外れてしまえば都内最大の廃棄区画たる湾岸廃棄区画に出くわすし、東京湾の海水も化学薬品によってひどく汚染されている。それに今夜は雨が強い。色相を濁らせる要因は多岐にわたっており、厚生省推奨チャンネルのニュースでも夜間の湾岸部への立ち入りを控えるように伝えている。
 そんな場所に、これから仕事で向かっている。
「灼。──おい、灼」
 炯(けい)・ミハイル・イグナトフは運転席でハンドルを握りながら、後部座席で微かに寝息を立てている相棒の名を呼んだ。お決まりのパターン。いつも自分が前に座り、こいつは後ろの席に収まっている。相棒は後ろで子供みたいに寝入っているか、もしくは人懐っこい犬みたいにシート越しによく話しかけてくる。
 だがそんなやり取りも、きっと今夜までだ。炯の白皙の面には、険しい皺が刻まれている。緊張を感じる。これから仕事が始まる。この日のためにすべてを擲ち、必要な訓練を積んできた。互いに共有したひとつの目的のために。
 刑事の仕事が始まる。この車の向かうその先で。
「──起きろ、じきに到着だ」
 だというのに、緊張もせずに寝ている相棒の器の大きさには感心してしまう。
 バックミラーで後部座席の様子を窺っていたが、一向に起きる様子はない。炯は片手を後ろに回し、灼の膝を叩いた。炯の手足は長く、大きく振り返らなくても後ろに座る灼に手が届く。
 炯は難民出身の帰化日本人だ。一八〇センチを優に超える高い身長に日本人離れした透明感のある白い肌、酷薄な眼差しに覗く碧眼は、東欧の出身であることを一目で他人に理解させる。本来は金色の髪を日本の暮らしに馴染むように黒く染めている。長い手足はよく鍛えられて引き締まっており、黒いスーツを軍服のように隙なく着用している。
「……ん」
 ふああ、と大あくびをしながら灼が目を覚まし、何気なく窓を見た。自分でもどうして見たのか分からないというふうだった。
 また夢を見ていたのだ。何を見たと聞いても答えてはくれない。のらりくらりとはぐらかされているうちに曖昧になるのだ。こちらの問いも、そして灼自身が見た夢の記憶も。とはいえ、灼が眠りに落ちていたわずかな時間、その表情は安らかなものに見えた。こいつが少しでも落ち着ける夢だったらいい、と思った。
 渦を巻くような癖っ毛。琥珀色の爛々とした大きな瞳。炯と比べてやや小柄で細く華奢な体型のせいで、実年齢よりも幼くみられることが多かった。多分、いつもニコニコとしている笑顔のせいだ。少し緩くスーツを着ているために学生のような柔らかい雰囲気がある。
 慎導灼──自分の幼馴染。けっして切れない絆で結ばれた唯一無二の親友。何も知らない他人が見れば、灼が、炯と同じ職務を遂行するための適性があるとは思わないだろう。
 だが、どちらも〈シビュラシステム〉の解析に基づく職務適性において、同一の職業で同等の適性判定が出ていた。極めて狭き門を肩を並べて突破した。
 炯と灼は、今日から同じ職場/階級/職務──ともに刑事の職に就く。
「しゃっきりしろ。今日から潜在犯を部下にするんだぞ」
「人間だよ、普通の」
 生真面目な口調に炯の緊張を悟ったのか、灼はしれっとした態度で返事をする。
「このひとたちが、おれたちが一緒に事件を捜査する仲間……」
 灼は腕時計型の監視官デバイスを起動する。ホログラフィックで浮かび上がるのは、四名の男女の顔写真つき身分証だ。どれも剣呑な顔つきばかりで、はっきり言って現行犯逮捕された犯罪者の記録写真を思わせる。
「彼らは執行官だ。全員が高い犯罪係数を持つ連中だ。何かあったらすぐに呼べ」
 炯は日本の警察──公安局固有の階級表現を口にした。世界的にも類を見ない独特の人員運用システム。〈シビュラシステム〉の心理診断により、犯罪係数が隔離境界の一〇〇を超え、社会から隔離されるべきと判定された人々──それが潜在犯だった。潜在犯認定された人間は隔離施設に収容される。望むと望まざるとにかかわらず。
 しかし一部の潜在犯は犯罪者に近い心理を持つがゆえに犯罪捜査に有効と見做され、制限つきの自由を与えられて執行官の職務に就く。犯罪者を狩るための犯罪者。
 監視官は、そんな犯罪者同然の執行官に首輪を嵌めて制御し、事件捜査に使役する。
「心配ないよ、炯。潜在犯だからって、実際に罪を犯したわけじゃない」
 これから出会う人間たちが何者であれ、恐れもせず警戒も必要ないという態度。どんな相手の心理も理解できる卓越した才能を持つ者ゆえの平静さ。それが灼という幼い頃からのパートナーの生来の気質だが、誰にでも理解してもらえるわけでもなかった。
「そんなこと、上官の前で口にするなよ」
「はーいはい」灼があくびまじりに応えた。「というか、上司、でいいんじゃない。俺たち軍人になるってわけじゃないだろ?」
「む」言われてみれば確かにそうだった。「……だが、監視官の仕事は、むしろ軍人的だ」
「もう、すぐそうやって屁理屈言う」
「言ってない。もうすぐ現場到着だ。無駄話は終わりだ」
 強引に会話を打ち切った。気づくと会話のリードを奪われてしまう。話術ではけっして敵わない相手。もっとも、そんなことで競うつもりもなかったが。
 炯はフロントガラス越しに埠頭の様子を確認する。人気の途絶えた湾岸地区に騒々しい気配があった。赤色灯を明滅させる公安局のドローンが規制線を敷いている。
 すると、フロントミラー越しに後部座席の灼が再び大きくあくびをしたのが見えた。
「……また症状が出たのか?」
「ベッドで寝ようとしたけど、駄目だった」
「もっとメンタルケアに金をかけろ」
 前言を撤回する。先ほどの夢は灼にとって心休まるものではなかった。それも仕方のないことだった。互いに、あの日から、本当に心が安らぐ日はなかったと言ってもいい。かけがえのないものが失われた。二度と取り戻せないものが失われた。
 あのとき、あの瞬間から、自分たちの胸の裡に火が生じた。途方もない空白に生じた焔の焦熱は、いついかなるときでも絶えることがなく互いの心をじりじりと焼いた。その痛みは無視しようとすれば無視できたとしても、けっして忘れることはできなかった。
「それで済むなら今日こうしてない。──だろ?」
 だから、その焔を自らの人生を前進させるための推進力に変えるすべを探した。互いに同じ熱と痛みを共有する相棒として。消えない痛みを別の何かに変えるために。
 必要なのは真実だ。俺たちは真実を求めている。俺たちから永遠に奪われてしまったものに報いるために。
「……ああ、これが最初の一歩だ」
 炯はゆっくりと頷いた。まさしく、ここからすべてが始まるのだ。
 雨が降っている。強く、とても強く。
 しかし、それでさえも消せない熱を携えて、慎導灼と炯・ミハイル・イグナトフ──二人は今日、公安局刑事課一係の新たな監視官となる。

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「開国政策で人の輸送が急務となり、貨物機を人間用に急ごしらえしたせいだ……と、ドローン管理局が言い立てているよ」
 まるで些細なことで騒ぎ立てる迷惑な隣人に苦笑するような口調──公安局局長・細呂木は前局長と比べ、温和な容姿ゆえに穏健派と思われがちだったが、彼女もまた日本国内の刑事事案を取り仕切る公安局局長に相応しい雄弁な決断力の持ち主だった。
 数時間前、有明空港に到着予定だった九州発AN三三〇便大型輸送ドローンが、着陸シークエンスに失敗し、東京湾上に墜落した。
 機体は高濃度汚染水海域に着水した。乗客の単独脱出は不可能であり、水上移動が可能な貨物運搬ドローンが救命艇として緊急動員された。機内に取り残された乗客たちを湾岸埠頭に造営した臨時キャンプへ避難させる救出作業が夜を徹して行われている。
「鎖国主義者らしい言い訳ついでに通報ですか」
 冴え冴えとした声色と冷徹な態度──公安局刑事課課長・霜月美佳(しもつきみか)。二十代にして厚生省で最も過酷とされる公安局刑事課を統御する、尊大さを虚勢ではなく実力と実績によって証明してきた刑事課のエースたる指揮官。
 霜月は避難キャンプに設置された指揮テントで、ひっきりなしに入ってくる各所からの事態報告を処理し、公安権限に基づき、横断的な対処指示を各部署に伝達している。
「何でも乗客が暴動を起こす恐れがあるとね」
「まだ入国者にそんなイメージを抱いているんですか。旧時代の官僚じゃあるまいし」
「いかにも、彼らは優秀な官僚だよ。それ以上でも以下でもないがね」
 交通管制部門を所轄するドローン管理局は、当初、事故の性質から、自局および上位組織となる国土交通省の所管であると主張していたが、墜落したAN三三〇便に搭乗していた乗客の大半が入国者であったことが判明した途端、事故発生による二次災害の恐れがあるとして、態度を一転、公安局の出動を要請したのだ。
「ときに、君は開国主義者かね?」
「鎖国であれ開国であれ、重要なのは、システムにとって理想的か否かです」
「至言だな」
「入国者は、九州の〈出島〉におけるチェックを経て、精神色相に問題がないことを〈シビュラシステム〉によって証明されています。そんな彼らを汚染者扱いするなんて、完璧なシステムを否定するに等しい。愚かとしか言いようがありません」
 臨時キャンプは人で溢れている。数百人規模の避難者の群れだ。誰もが濡れている。風雨に晒されている。医療ドローンが支給するアルミ製の防寒シートを身体に巻きつけ、白い息を吐いている。市街地への移送を許可するための精神色相のチェックは、対処すべき人数の多さもあって遅々として進んでいない。
「──その点で、我々の出動は疑問です」
「ほう」
 霜月は都市部側に展開する規制線を見やる。ずらりと並んだ円筒型の公安局刑事ドローンの横で、巨大な棺桶を思わせる大型護送車両が停まっており、漆黒の車体を静かに雨に打たせていた。その内部には、公安局刑事課の捜査人員──執行官が待機している。
「刑事課の出動は、かえって入国者たちの思考汚染を招きかねません」
「頃合いを見てドローン管理局に引き継がせればいい。あちらに貸しひとつだ」
 駆け引きを楽しめと言わんばかりの細呂木の態度に、霜月は小さく肩を竦める。ルールを解さずこちらの足を引っ張ることに腐心するしかない連中と同じ卓について対等なゲームができるとは思わなかった。
「……外務省の連中、来てませんね」
 口にするのも忌々しい連中だが、彼らは数少ない対等なゲームを戦える相手だった。
「彼らに出動要請は出ていない。気になるか?」
 霜月は細呂木の問いかけに答えず、ただ小さく首を振った。
 勝負に必要な手札は、けっして満足いくものではなかった。過去になされた多くの選択が今の状況をもたらしたが、その決断をした者といえば、誰も彼もが今や霜月のいる卓を離れて久しかった。それでも自らが席を退くことはしなかった。雌伏のときはもうすぐ終わる。今日から事態が大きく動き出す。その予感がある。
 やがて規制線の一角が割れ、一台の車が現場に到着した。

6

 埠頭を歩くと、雨の匂いの向こうにかすかな刺激臭を捉えた。
 海が近い。炯の脳裏に従軍していた頃の船着き場の光景が過った。重い装備を背負っていながらも整然と列を作った若い兵士たちが舟艇に乗り込んでいく。誰もが若くまだ戦場を知らない志願兵ばかりだった。自分もその一人だった。
 炯と灼は、杖に巻きついた蛇を象った厚生省のエンブレムを掲げる医療テントへ歩み寄る。二人の女性が待ち構えている。公安局局長と刑事課課長。自分たちの上官。
「本日より着任、慎導灼監視官です」
「同じく。炯・ミハイル・イグナトフ監視官」
 頭から浴びる雨を気にすることなく、きびきびとした動作で敬礼する。
「うむ。期待しているよ」着任の挨拶に老齢の婦人のほうが小さく頷いた。彼女はついで視線を横の妙齢の女性に投げかける。「後は頼む、霜月課長」
「はい、細呂木局長」
 課長と呼ばれた女性──霜月が応答すると、細呂木の姿がすっと消えた。ホログラフィックによる再現。消えるまで本当にそこにいると錯覚するほどの投影精度に、炯は思わず目を瞠った。自分の故国と日本では、些細な部分でも技術レベルが隔絶している。
 隣の灼は驚く素振りも見せずに直立不動を維持しているが、炯は細呂木の横に立っていた霜月を一瞥した。公安局の幹部級となれば政府要人に等しかった。事件現場に直接赴くことなど珍しい。だとすれば、刑事課課長である彼女も──
「私はホロじゃないわよ」
 ふふんと小さく鼻を鳴らすように冗談めかしつつ、この程度のことで驚くなというふうに釘を刺すようでもあった。
「公安局刑事課統括課長、霜月美佳よ。刑事課一係へようこそ」
 霜月が手を差し出す。炯は握手に応じた。細く小さな手。しかし自分とさほど変わらない年齢で刑事課を指揮する才媛らしく、その立ち居振る舞いには自信が漲っている。
「ではさっそく、事故の初期調査、乗客のメンタルケア、その他、事態の収拾……といったあたりの監督をお願いするわ」
 急かすわけでもなく、しかし必要最低限の効率的な言葉選びで霜月は指示を下した。習うより慣れろと示す態度。そして最後に、いっそう重要な命令を付け加えた。
「──それと、ドミネーターを携行」
 炯は自然と身体が強張り、訊くつもりのなかった質問を返してしまう。
「……武装せよと?」
「ドミネーター。鎮圧執行システムよ」武器ではないことを断定する返答だった。「他局の要請に基づき、入国者が暴動を起こした場合の速やかな鎮圧を命じます」
 思ったよりも武闘派の組織か──職務のためであれば武器の使用を躊躇わない。長く続いた鎖国体制によって、日本人は生まれたときから武器を手にすることなく暮らすことができる平和な社会を築いてきた。そこで刑事という仕事は例外的に武力行使を前提とする治安維持を担う。むしろ、それは炯にとって従軍時代に身近にあったものだ。
 だが、霜月の態度に反感を覚えたのも事実だった。彼女の命令は言い方を変えれば、暴動が起きないように武器をちらつかせ、怯える入国者たちを脅して黙らせろというようなものだ。完全に納得できるものではない。
「……了解しました」
 炯はわずかに眉をひそめるが、反論は口にせず、うなずいた。上官の命令は絶対だ。それは軍隊であっても警察組織でも変わらない。
 霜月はこちらの反感に気づいても追及する素振りは見せず、冷厳と指示を下した。
「慎導監視官はメンタリストとしての技能を、イグナトフ監視官は軍事経験を活かし、円滑な職務の遂行を期待します。私は空港の管理者と話をするので現場は任せるわね」
 互いの果たすべき役割を示し、ついで以降の現場を任せると告げることで、お前たち新人の勝手な行動は許さないと戒めるかのようだった。
「はい、霜月課長」
 敬礼する。必ずしも共感できるとは言い難い人物──だが、いい指揮官だった。対処すべき事態に対して必要な規律をもって行動する。大いに学ぶべき相手。
 霜月が到着した迎えの車両に乗り込む。炯は車が走り去るまで敬礼を続けた。
 そして、きりっとしたまま棒立ちしている灼を、肘で小突く。
「……目を開けたまま寝るな」
 それを合図に、はっと表情を元に戻した灼は、大きくあくびをして、
「ふわーい」
 着任の挨拶後、こちらが霜月課長とやり取りしている間、灼はずっと立ったまま寝ていたのだ。まったくタフな相棒だった。
「行くぞ。部下とご対面だ」
 そして共に背後を振り返った。停車中の大型護送車両の後部カーゴが、今しも展開しつつあった。明滅する赤色灯。あたかも猛獣たちを檻から出すかのような剣呑さ。事実、そこから現れようとする者たちは獣に等しかった。

7

 護送車の隔壁が開く。薄暗い車内に冷たい夜気が忍び込んでくる。出口側の座席に座っていた刑事課一係執行官──雛河翔(ひなかわしょう)は肌を這う寒気にぶるりと身体を震わせる。
 現着後、待機が続いていた。墜落した大型輸送機の乗客を救助するのはドローンの仕事で、刑事課に仕事が回ってくるのはその後だ。
 執行官は、単独で外を歩き回ることができない。全員が一〇〇以上の犯罪係数を計測している重篤な潜在犯だからだ。護送車は文字通り、搭乗している執行官を外部と隔離するための設備として機能する。その扉が開いた。現場に監視官が到着したのだ。猟犬を御する狩人。あるいは猟犬を率いる法の猟犬。
 隔壁が完全展開し、外の景色が見えた。視界を覆い尽くす赤色灯。大量の人間が忙しく動き回っていることが伝わってくる周囲のざわめき。誰も彼もが雛河たち執行官に目をくれようとしなかった。本当に気づいていない者もいれば、あえて無視している者もいる。大半は後者だ。執行官は潜在犯。一般人ならできる限り近づきたくない。
 二人のスーツ姿の若い男が、こちらに近づいてくるのが見える。片方はとても身長が高く、もう一方はやや小柄だ。
「新任の監視官……」
 ぼそりと雛河は呟いた。両眼を隠すほどの長い赤髪の巻き毛。いつも午睡のなかにある羊のように胡乱な目つきのせいで、同僚からも何を考えているか分からないとよく言われる。今や一係最古参の執行官となった雛河は、湿った外気で膨らむ髪を両手でぐしぐし整える。雨は苦手だ。かといって快晴はそれはそれで世界が眩しすぎて苦手だ。
「一人は移民ってマジか?」
 奥の席から、こちらに身を乗り出してくる気配とともに遠慮のない大声がした。断りも入れず、ぶ厚い手で雛河の肩をぐいっと掴み、外を見るための支えにする。
 いかにも反骨無頼といった雰囲気の初老の執行官──廿六木天馬(とどろきてんま)。ゆったりとしたシルエットのスーツを着た天馬は、近づいてくる新任監視官のうち、背が高く日本人離れした体型の男のほうを物珍しそうにしげしげと見やる。
「流行りの入国者枠ってやつでしょ。公安局のポスト買うのにいくら払ったんだか」
 壁に寄りかかり、皮肉げな態度で外を見下ろすのは、サイドを短く刈り込んだ髪型に、顎髭を蓄え、スーツを着崩した派手な格好の男──入江一途(いりえかずみち)。同じく刑事課一係執行官。
「金持ちの外人がボスぅ?」天馬が不満も露わに鼻を鳴らした。「ふざけてるぜ」
「──お金でシビュラの適性診断は買えないでしょ」
 自分の座席から微塵も動く素振りも見せない女が、彼らのやり取りを心底どうでもいいというふうに眺めている。鋭利さと冷ややかさが入り混じった声。しなやかな肉食獣のような美貌。如月真緒(きさらぎまお)──一係ゆいいつの女性執行官。
「へえ、真緒ちゃん的には、あの監視官たちはアリってわけ?」
「仕事ができるなら何でもいい。──というか、名前で呼ばないで」
 如月が不快感をまるで隠さずに言い返すと、入江がおどけた仕草で応じた。天馬は、ああだこうだ、と監視官への持論を騒々しくがなっている。
 ……彼らが、彼女たちがそれぞれ推薦した監視官。
 執行官たちが好き勝手なことを言うなか、雛河は、新たな監視官たちを観察し続けた。
 彼らに対する自分の態度は、まだ何ひとつとして定まっていなかったが、その眼差しは静かに、いつまでも二人の監視官から離れない。
 降車命令とともに、あるじなき四人の執行官は、新たな飼い主のもとへ向かった。

8

「──執行官の諸君。本日より我々が君たちを監督する。我々の命令が絶対であり、原則として質問は受け付けない」
 炯はあえて高圧的な口調を意識していた。場の主導権を握るために。野良犬を猟犬に躾けるための第一のステップ──互いの上下関係をはっきりとさせること。従軍時代に軍隊で自らに叩き込まれたやり方を執行官の調教に応用していた。
「はいはい。んなこたあ、分かってますよ」
「絶対的指示ってやつをください、監視官」
 案の定、食いついた。二人の執行官。くたびれた格好の初老の男。ギャング風の派手な格好の男。彼らの、挑発も露わな態度と視線を炯が引き受けている間、執行官たちの反応を観察するのが、灼の役割だった。
 一人目。廿六木天馬。東京本局採用の後、公安局の各地方支局を渡り歩いたすえ、再び東京に戻る。殉職率が極めて高い刑事課の現場を強かに生き延びてきたもはや戦歴とさえ称すべき経歴を持つ生粋の執行官。
 二人目。入江一途。執行官歴は短いが、生まれ育った湾岸廃棄区画で培った、闇の人脈/物資/金の流れ──アンダーグラウンドへ通じるあらゆる情報に通暁する無頼漢。特記事項──執行官への推薦人は、何とあの霜月美佳・刑事課課長・統括監視官。
 灼は、脳内に構築された記憶の宮殿を参照する。メンタリスト技能のひとつ。記憶の整理と整頓。一度でも眼を通した情報はすべてタグ付けされ、必要なときに必要なだけの情報を引き出せる情報の金庫と呼ぶべき領域に格納されている。
 天馬や入江の、いかにも執行官風のガラの悪い態度は、新人監視官を試すための演技が多分に含まれていた。もっとも彼らの地の性格も大いに影響している。
 それに比べて、残りの二人は感情を制御するすべに長けていた。ともに無表情を貫いている。炯の高圧的な態度に逆らう様子は微塵もなかった。敵意はなく好意もない。彼らもまた、こちらを観察しているような素振りを匂わせている。
 三人目。如月真緒。最も一般人に近い印象。安定した色相。格闘技経験者らしく自らの精神を律することに長け、孤独を好む性格傾向。元企業アスリート。特定の相手と親しく付き合わず、淡々と業務を遂行してきた女性執行官。つまり情報不足。
 四人目。雛河翔。刑事課一係最古参の執行官。かつて、公安局刑事課の人員が刷新されるほどの大きな事件が起きた。そんな津波の如き苦境を耐え抜いた経歴を感じさせない透明な雰囲気の人物。薬学知識、ホロ技術に造詣が深く、解析技能に優れる。
 結論。全員が極めて優秀かつ厄介な性格の持ち主。監視官になりたての新人が御しやすいとは到底言えない共闘容易ならざる食えない猟犬ばかり。
「──では、ドミネーターを起動してください」
 灼は一歩前に出た。炯から役割をバトンタッチするように。相手を識るためには、もっとコミュニケーションが必要だった。
「必要ですか?」如月が柳眉をピクリと動かす。「事故の調査でしょう?」
 命令の意味を測りかねるというふうな態度で質問が繰り返された。反抗ではなく当惑の態度に、こちらへの微かな不信も感じ取れた。着任したばかりの監視官が積極的にドミネーターを握ろうとする行為を咎める気配。
 この女性は正しいひとだな──ふいにそう思った。どう扱っても破壊的な結果をもたらすからこそ、武力を携帯した人間には慎重さが不可欠であることを心得ているのだ。
「質問はなしと言った」
 炯は、あえて高圧的な態度を貫いた。
「他局からの要請です。必要ないことを祈りましょう」
 灼も、あえてさらっと流した。
 灼の朗らかな呼びかけに対し、獰猛な笑み/皮肉げ/無表情/しかめっつら──四者四様の反応──いずれも反論なし──猟犬に対する調教第一ステップの通過。
 執行官護送車両の車体下部から棺のような形状の運搬ドローンが分離する。自走し、灼たちの前で停止した運搬ドローンの表面が亀裂が入るように展開する。格納用のフレームが露わになり、続いて六つの銃把が迫り出した。
 二人と四人が漆黒の銃器に手を伸ばし、その銃把を握った。生体認証の実行──指向音声によって脳に直接響いてくる祝詞のごとき機械音声。
『携帯型心理診断・鎮圧執行システム・ドミネーター・起動しました・ユーザー認証』
『監視官──慎導灼/炯・ミハイル・イグナトフ』
『執行官──廿六木天馬/入江一途/如月真緒/雛河翔』
 あたかも召命のごとく次々と名前が呼ばれ、そして六つの機械音声が等しく告げた。
『公安局刑事課所属・使用許諾確認・適正ユーザーです』
 みなが一斉に漆黒の執行兵装を引き抜いた。どっしりと重い感触。銃口のない拳銃というべき特異な外見。しかし黒鉄の装甲の内側には凶悪極まりない牙が秘められており、緑燐光が獣の呼吸のように明滅している。
 これがドミネーター。支配や制圧を意味する名を冠した、刑事が携える最大の武力そのもの。公安局の監視官と執行官の職務は、ドミネーターによって計測された犯罪係数に基づき、対象を処分することだ。それが刑事の仕事だと新人研修では教育された。
 しかし、それだけが本当の刑事の職務でないことを灼と炯はすでに知っていた。
 真実に辿り着くために、そのために真実を追う刑事となった。
 灼たちは腰のホルスターにドミネーターを収め、夜の海へ向かって歩き出す。
 すると、天馬と入江が互いにちらと目を見交わし、にやりとするのが見えた。分かりやすい悪だくみの気配。灼は炯の傍にそっと歩み寄る。
「強面ぶってる二人が邪魔する気だ。女性と痩せてる方は俺たちの出方を見てる」
 小さな声で囁いた。あえて名前ではなく第一印象で執行官たちを呼ぶことで、大まかな分析結果を炯と共有する。
「廿六木と入江か……」炯は思ったとおりだという態度でうなずいた。「分かった。危ないのは任せろ。入国者のテントは俺が見る」
「了解。じゃ、おれは如月さんと雛河さんで墜落した機体の調査だ」
「頼む」
 そして互いの持ち場へ向かった。その手に銃を、背中に部下を引き連れて。

9

 雨の埠頭に数多の星が揺らめくようだった。各所に設置された照光装置の灯りが入国者たちが身体に巻きつけた防寒用の断熱フィルムに反射している。
 救助された乗客たちは上陸こそ許されたものの、その大半が雨ざらしになっていた。
 墜落事故による過度なストレス状況が乗客たちの色相を著しく悪化させていた。メンタルケアをせず、彼らをそのまま市街に向かわせることはできない。
 市街と埠頭を区切るようにずらりと並んだ厚生省の大型医療テントには、それぞれ長蛇の列が出来ている。まるで感染症が拡がった難民キャンプを隔離するため、緊急の防疫検査が実施されたような有様だった。
 炯は執行官を伴い、大型テントへ向かった。周囲を警戒する公安局のドローンにホロ投影の警察手帳を翳して認証を行う。
 テント内は、医療ドローンによる簡易色相チェックを受けるため、さらなる待機列が伸び、人の熱気と汗の臭いで空気が淀んでいる。乗客たちは律儀に並んでいたが、避難や順番待ちで疲れ果て、地面に座り込む者が続出し、些細なことで口論が起きていた。ストレスがストレスを呼ぶ悪循環に陥りつつある。
 救助された乗客の大半は〈入国者〉だった。日本での居留を許可されているが、国籍は付与されていない難民出身の移民たち。一方、日本人の乗客はすでにメンタルケアを済ませて市街へ移送されている。国籍の有無や人種の違いがもたらす格差が、巨大な行政システムの連鎖で増幅され、有り得ないほどの待遇隔絶を生み出していた。
「みんな列に並んでください。割り込まないで」
 炯は、そんな入国者の合間を縫うように移動しながら、医療スタッフとともに英語で案内を呼びかけてゆく。執行官たちは離れたところで列を眺めているだけで、列の整理を手伝う素振りひとつ見せていないが、あえて無視した。
 執行官は色相が悪化した潜在犯だ。本来なら隔離施設に収監されるべき対象であり、無闇に市民と接触することは推奨されない。かといって挑発めいた露骨なサボタージュに苛立ちが募ることもまた事実だった。
「Ketika Anda mengambil lakukan sampai baik」
 すると、ふいに耳慣れない言語で呼び止められた。振り返ると、褐色の肌をした彫りの深い顔立ちの女性が、不安そうに顔を歪めてこちらを見上げている。
「Silahkan peduli kami」
 強い語気。切迫した表情。咄嗟に彼女の声に耳を傾けたが、その意味を聞き取れなかった。炯は公用語の日本語と英語に加え、母語のロシア語を話す。だが、女性の言語はそのいずれの語系とも異なっていた。
 炯は監視官デバイスを操作し、補助AIによる言語の解析と翻訳を実行させる。
『いつまでかかるんですか。私たちをケアしてください』
 マレーシア語が翻訳され、日本語で音声再生された。
「すぐに行いますから、列に並んで」
 デバイスの同時通訳機能を使って話しかけた。もう大丈夫だと笑みを浮かべた。険しい顔をしていた女性が、ようやくほっとしたように頬を緩めた。ここはもう空から降る爆弾に怯える必要のない場所だ。平和な社会。そのはずだった。
「──なぜ我々だけサイコパスの色相チェックを行う! 入国審査時の犯罪係数に問題はなかったはずだ」
『順番をお待ちください──』
 怒声が響いた。入国者の男二人が列に割り込み、ドローンに詰め寄っている。
「日本人だけチェックなしか。我々だって……永住権を取得してるんだぞ」
 父親らしき年配の男が哀願するように言った。長期にわたる難民生活で物同然に扱われ、人間以下の存在として差別されることが当たり前になってしまった者たちの哀しみ。
 次第に彼らに同調する者たちが列から生じた。風雨が彼らの全身をぐっしょりと濡らすように、誰もが己の尊厳が損なわれることで、心がすっかり摩耗していた。
「ねえ、ちゃんと検査してくださいよ。入国者の対応は厚生省の管轄でしょう。変なの入国させて、こっちの責任になっちゃたまんないよ」
 事故調査に立ち会っているドローン管理局職員たちが、これ見よがしに大きな声で言った。あえて日本語で話していた。翻訳デバイスを介さなければ、ほとんどの入国者たちには理解できないことを承知したうえでの言語選択。
 露骨な態度に、炯の肌が粟立った。強いて感情を自制するように努める。
「……それでは、彼らの通訳デバイスとメンタルケア・ドローンを空港から回してください。厚生省公安局から各省庁へ協力要請が出ているはずです」
 入国者たちが被るストレスの多くは、意思疎通もできず自らの存在を軽く扱われていることへの不満だった。話を聞くだけでも状況は大きく改善する。
「なんでうちが? 私の話聞いてました?」すると相手は何かに合点したかのようにわざとらしい溜息をついた。「なるほどね。あなた新人でしょ。もしかして入国者? だったら話分かる日本人を連れてきてよ」
 すっかり会話をする気がなくなったというふうに会話を一方的に打ち切られた。入国者への対応にいっさい関知する気はなく、お前が勝手にやれと言わんばかりだった。
 ──これが公職に就く人間の態度か?
 公安局刑事課は、他部署に優越する巨大な権限を持つがゆえに敵意を向けられやすいということは承知していたが、事故に遭遇した乗客たちのメンタルケアが最優先されるべき状況で、これほど露骨なセクショナリズムを見せつけられるとは思わなかった。
 これ以上、相手をしても無駄だ。独自判断で動き、強引にでも状況の支配権を獲得しなければならない。炯は、なおも口論を続ける入国者の男たちのもとへ急いだ。
 だが、天馬と入江が率先して動いていた。彼らの妙な目配せと歪んだ口元──そこには入国者たちの不満を聞いてやろうという雰囲気は微塵も感じられない。
 嫌な予感がした。
「銃を向けたぞ!」
 そして的中した。あろうことか、二人の執行官はドミネーターを抜き放ち、これみよがしに周囲に見せつけたのだ。入国者たちのざわめきが俄に増した。恐怖と警戒の増幅。整然と並んでいた入国者たちの列が大きく崩れた。当然だった。公衆のど真ん中でいきなり銃を抜いたに等しい蛮行。
「何をしているッ!」
 炯はその場で誰よりも大きな怒号を発した。
「これでチェックすりゃ早いでしょ」
「潜在犯はいねえかあ。執行しちまうぞ」
 にやにやと笑いながら、炯の行く手を阻む天馬の背後で、入江がおどけた口調で手にしたドミネーターを入国者に向けていた。先ほど炯が列に案内した女性だ。
「貴様……っ」
 騒動を起こした若い入国者の男が身を挺して彼女を庇おうとした。咄嗟に手を出し、ドミネーターの銃口を掴んで照準を逸らそうとする。
「おおっと──」
 だが、入江は悠々と男の突進を避ける。執行官は護身術や格闘技を学んでいる。素人を容易く翻弄できる。勢い余ってたたらを踏んだ男が顔を上げた途端、その眼前に入江はドミネーターを突きつけている。
『犯罪係数・オーバー一〇〇・執行モード・ノンリーサル・パラライザー・慎重に照準を定め・対象を制圧してください』
 瞬く間に測定が行われた。男の犯罪係数は、隔離境界たる一〇〇の数値を超えた。
「ほら、悪いのがいた」
 つまり、このシビュラ社会において隔離すべき対象と認定されたのだ。入江は躊躇いなく引き金を引こうとする。職務を遂行するというより、武器を使うことそれ自体の快楽に身を委ねるように。神経麻痺電銃形態。すでにトリガーは解除されている。
 だが、ふいに若い入国者が短い悲鳴を上げ、全身を竦ませて地面に崩れ落ちた。
 入江は引き金に指をかけたまま、ぽかんとしている。一瞬、雨音以外の音がすべて消え、周囲に静寂が訪れた。
「……全員動くな!」
 炯の鋭い叫びが響き渡った。その手に握るドミネーターで入江より先に入国者を撃ったのだ。強硬な対処に周りの入国者たちが悲鳴を上げた。急激なストレス悪化の兆候。
 炯は、ドミネーターを次なる標的に向ける。
「──勝手な真似はするな。次はお前たちから執行する」
 入国者ではなく、二人の執行官に。
「たんまたんま、監視官」
「そうそう。俺たちゃ仕事をしようとしただけですって」
 入江と天馬はドミネーターのトリガーから指を離し、頭上に掲げる。悪党が観念したように両手を挙げるが、にやついた口元は相変わらずだった。監視官は執行官に対し、必要であればドミネーターで処分することが法的に許可されている。
 だが、炯がドミネーターの引き金を引くことはなかった。銃を持った自分の感情を制御すること──軍役において何よりも最初に身につけるべき兵士の基本だった。
 しかし、怒りが生じないわけではなかった。執行官たちの蛮行。いたずらに混乱を引き起こし、集団ストレスの悪化を招くなど言語道断だった。しかも、こいつらは自分を挑発し、試すためにわざと混乱を引き起こしたのだ。いささかの躊躇もなく。
 もはや出方を窺う段階は過ぎていた。飼い主の気を引くために守るべき羊たちに平気で牙を剥く野良犬同然の振る舞いに対し、こちらも相応の態度で臨む用意があった。
『メンタルハザードの可能性が上昇。速やかにケアを行ってください』
 炯の顔の横に、デフォルメされた外見のホロ・アバターが表示された。刑事の職務全般をサポートする補助AI──コミッサ・アバターが起動し、警告を発した。
 公安局刑事課が事態を鎮静化するどころか、色相を悪化させる騒動を起こした。ドローン管理局員たちが再び厭味と警告を口にしようと近づいてきたが、炯は先んじて振り返り、睨みつけるように相手を視界に捉え、強い口調で命じた。
「公安権限で要請します。メンタルケア用ドローンをあるだけ回すように。いいですね」
 有無を言わせぬ命令だった。この場において、もう使うつもりもないドミネーターをあえて掲げ、脅すように命じた。
「は、はい」 
 意表を突かれた管理局員は、唯々諾々というふうに首を縦に振った。炯の振る舞いにすっかり怯えている。武力を用いた制圧。それは状況を支配するために最も効率的だったが、恐怖を武器に相手を屈服させるやり方が、執行官連中が入国者に対する行為と何ひとつ変わらないことに気づき、炯は強く歯噛みした。結局、俺も同じことをやっている。雨音に混じり、誰かが口笛を吹くのが聞こえた気がした。



読んでいただきありがとうございました。


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