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【試し読み】一ノ瀬ユウナが浮いている

11月26日に『一ノ瀬ユウナが浮いている』が発売となります。
こちらに先駆けて本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。

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あらすじ

幼馴染みの一ノ瀬ユウナが、宙に浮いている。十七歳の時、水難事故で死んだはずのユウナは、当時の姿のまま、俺の目の前にいる。不思議なことだが、ユウナのお気に入りの線香花火を灯すと、俺にしか見えない彼女が姿を現すのだ。ユウナに会うため、伝えていない気持ちを抱えながら俺は何度も線香花火に火をつける。しかし、彼女を呼び出すことができる線香花火は、だんだんと減っていく――。

乙一が映画『サマーゴースト』の姉妹作として『花火と幽霊』をモチーフに執筆したオリジナル恋愛小説。10月29日発売の『サマーゴースト』ノベライズも必読!!


それでは、物語をお楽しみください。


『一ノ瀬ユウナが浮いている』乙一

———1———

 浮いている彼女を見つけたのは、捜索隊の一人だった。

 二十一世紀の最初の年に生まれた俺たちは、東北で震災の起きた年に知り合った。テレビから流れてきた津波の映像は、子どもながらに覚えている。ある日、突然、何万人もの方が亡くなった。その事実を、当時の大人たちは、どうやって受け入れたのだろう。
 小学四年生の夏休み。例の大地震から数ヶ月が経ち、世間は落ち着きを取り戻そうとしていた。十歳の俺は、子ども会の行事に参加していた。大人たちがマイクロバスを借りて、近所の子どもたちを乗せ、地元民に有名な滝の見える公園へと遠足に出かけたのだ。
 同い年でよく一緒に遊ぶ幼馴染が何人かいるのだが、たまたまその日はみんな用事があったみたいで、俺は一人でバスの座席に座っていた。はしゃいでいる子もいれば、乗り物酔いをして今にも吐きそうな顔の子もいる。
 一人、知らない女の子がまじっていた。彼女は静かに窓の外を見ている。色白で線が細くて、小綺麗な服を着ていた。公園の駐車場に到着して外に出ると、遠足に参加していた大人が、彼女の手を引っ張ってきて俺に言った。
「この子、ユウナっていうの。最近、あんたんちの近所に引っ越してきたのよ。大地だいち、一緒に行動してあげて」
 ユウナと呼ばれた子は、恥ずかしそうにうつむいていた。名字は一ノ瀬いちのせ。年齢は俺と同い年だという。滝の見える公園で俺たちは行動を共にすることになった。
遠藤えんどう大地だ。よろしく」
「……よろしく」
 自然の中へ出かけておもしろがっているのは大人たちだけだ。正直、子どもたちは退屈していた。駐車場から滝の見える広場まで、岩場の斜面を延々と歩かされる身になってほしい。俺とユウナはつかず離れずの距離感で行動した。最初のうち会話ははずまなかったが、広場で弁当を食べた後、リュックに隠し持っていた『週刊少年ジャンプ』を取り出すと、ユウナの目の色が変わった。
「それ、今週の?」
「うん」
 気にせず読んでいると視線を感じる。彼女は食べるのが遅く、俺が食べ終わっても弁当が半分くらいしか減っていなかった。箸を持ったまま、じっと俺の方を見ていた。
「読みたい?」
「読みたい」
「女子なのに?」
『週刊少年ジャンプ』を読むのは男子だけだと俺は思い込んでいた。
「女子も読むよ」
「じゃあ、俺が読んだら、貸してやるよ」
「ありがとう!」
 彼女が笑った瞬間、ぱっと周囲が明るくなった気がした。
 彼女は漫画が好きだった。前の家では、近所に漫画好きの高校生の従姉が住んでいて、様々な名作漫画を貸してくれたという。『週刊少年ジャンプ』も従姉が購読しており、毎週、読み終えた後におさがりをもらっていたそうだ。そんな彼女の最近の悩みは、引っ越して以降、従姉から『ジャンプ』のおさがりをもらえなくなったこと。最新号を親に買ってもらうお願いをすべきか悩んでいたそうだ。
「自分の小遣いで買えば?」
「だって、お小遣い制じゃないんだもん」
「そういう教育方針ね」
「欲しいものがあったら、お母さんに言って、お金を出してもらうシステムなの」
 俺は『ジャンプ』を読み終えて背伸びをする。
「ほら、読んでいいぞ」
 しかしユウナは、「え、信じられない」という顔で俺を見る。
「もういいの?」
「読みたいのは読んだ」
「全部、読まないの?」
「好きな漫画だけ読んでる」
 連載されている漫画のうち、目を通しているのは半分くらいだ。しかし彼女は、毎週、すべての連載作品に目を通すタイプだったらしい。というか、すべての『ジャンプ』読者がそうだと思っていたようだ。
「じゃあ、目次も読まないの?」
「目次って?」
「漫画家さんが近況を書いてるでしょう? 短い日記みたいなのを」
「ああ、そういえば、そうだな」
 それまで特に気にしたことはなかったが、目次にならんでいる連載作品のタイトルの横に、漫画家たちが短い文字数で近況を載せている。
「これって、読んでる奴、いるの?」
「読むよ! 私、いつも読んでる!」
 その日、一番の大きな声だった。
「こんなの読んで、おもしろいの?」
「おもしろいよ。好きな漫画家さんの言葉ってだけでテンション上がっちゃうよ。最終回の漫画の時なんか、切なくて泣いちゃうし。編集者の人のコメントもあるんだよ。ほら、これ」
 ユウナは箸を置いて、目次の隅っこのあたりを指差す。言われるまで気づかなかったが、そこにも小さな文字がならんでいる。『ジャンプ』を作った人たちのコメントなのだそうだ。編集者という職業があることも、それまで知らなかった。
 ユウナが目をきらきらさせている。さっきまで、おどおどした様子で肩身が狭そうに遠足に参加していたのに、いつのまにか普通に俺たちは言葉を交わしていた。一冊の『ジャンプ』を二人で覗き込んでいるから、結構、顔が近い。
「おまえって、変な奴だな」
 俺は思わずそう言ってしまう。ユウナは、はっとして距離をとった。急に恥ずかしくなったのか、静かに弁当の続きを食べはじめる。
 滝の見える公園には、ひんやりとしたやさしい風が吹いていた。流れ落ちた水が地面に衝突し、目に見えないほどの小さな水の破片になって、風の中に溶けていたのかもしれない。天気もよく、青空の中に白い雲が浮かんでいた。
 それから俺たちは、漫画以外のことも話をするようになった。ユウナが前に住んでいた町のことや、父親の職業のことを聞く。彼女の父親は隣の市に建設された大型商業施設で働いているらしい。五歳下の弟がいるのだが、今日は熱を出して参加できなかったとのことだ。
 遠足が終わってバスで地元に帰り着いた後、別れ際に彼女に『ジャンプ』をあげた。目的の漫画を読み終えた俺にとって、必要のないものだった。
「ありがとう! 大地君!」
 ユウナはそれを大切に抱きしめて、うれしそうにしていた。

 彼女のことを思い出す時、俺はいつも【ユウナ】という字面を頭に思い浮かべている。自分の名前に使用されている漢字を、彼女自身がきらっていたからだ。
 一ノ瀬ユウナの戸籍謄本や住民票に記載されている正式な名前は【夕七】である。七夕みたいな字面で綺麗じゃないかと思うのだが。
「私の名字、一ノ瀬だよね。【夕七】って名前に、【一】を載せたら、どうなると思う?」
 いつだったか彼女は説明してくれた。
【夕】と【七】を横にならべて、その上に【一】を載せると、【死】という文字ができる。名前をつけた両親もこれは想定していなかったらしい。
 そういうわけで彼女はできるだけ自分の名前を書く時は【ユウナ】とカタカナで記述していた。小学校を卒業する記念に、幼馴染の五人で森にタイムカプセルを埋めたのだが、その時も彼女は自分の宝物を入れた缶にマジックで【ユウナ】と書いていた。縁起が悪く、死神に魅入られたくないという思いから、そうしていたのだろう。
 結局、彼女は十七歳で死んでしまったけれど。

 俺たちの暮らしていた町は、東京から新幹線と私鉄を乗り継いで五時間ほどの距離にある。山裾の平野部に水田が広がり、夏には一面が緑色の景色になる。山の斜面でフルーツを栽培する農家も多く、秋になると近所の方から、食べきれないほどのおすそ分けをいただいた。
 都会のように家が密集しておらず、すこし離れた友人の家へ遊びに行く時は、自転車に乗って田園地帯を越えなくてはならない。稲の緑色の葉先が海のように波打っている中を、一人乗りのボートで旅するみたいに、自転車で俺たちは移動する。
 俺とユウナ、笹山秀ささやましゅう三森満男みつもりみつお、そして戸田塔子とだとうこの五人で遊ぶことが多かった。ユウナ以外は保育園時代からの顔なじみだったが、神社にあつまって鬼ごっこをしたり、缶けりをしたり、携帯ゲーム機の無線通信でポケモンの交換をしたりするうちにすっかり仲良くなった。
 エアコンの効いた室内でゲームをしたい日は秀の家に行くのが定番だ。彼は眼鏡をかけた秀才タイプの少年で、所有するゲームソフトの数はクラスメイトで一番だ。宿題を写させてほしい時も、彼にお願いするのが良いとされていた。
 満男の家はお菓子の卸売業者である。腹が空いた日は彼の家にあつまるのが賢い選択だ。満男はふくよかな少年だったが、両親も同じような体型だった。おなかを空かせた俺たちがあつまると、業務用の大袋のお菓子を開けて好きなだけ食べさせてくれる。
 塔子は活発なスポーツ少女だ。父親が野球チームのコーチをしており、彼女の家に行けばバットやグローブを貸してくれた。中古のピッチングマシーンまで所有しており、彼女の父親にお願いすれば、バッティングの練習をさせてもらえた。
 朝になれば五人で登校し、夕方になれば五人で家路につく。途中、それぞれ好き勝手なことを話しながら歩いた。
「今、桃鉄ももてつでコンピューター同士を戦わせて遊んでるんだ。僕は何もせずに見ているだけなんだけど。コンピューターの設定を変えて勝率のデータを収集してるよ」
「大阪に出張したお父さんが、おいしい肉まんを買ってきてくれたんだ。みんなにも食べさせてあげたかったなあ」
「誕生日に野球のスパイクを買ってもらうの。すごくいいやつ。今、カタログで選んでるところ」
 秀と満男と塔子の後ろで、俺とユウナは漫画の話をする。といっても、俺は彼女ほどには漫画のことを知らない。彼女が楽しそうに話すのを、ただ聞いていることが多かった。
「大地君は『コロコロ』も読んでた?」
「ああ、読んでたぜ。『でんぢゃらすじーさん』が好きだったな」
「私も大好きだった。でも、下品だからって、コミックスを親に買ってもらえなかったんだ」
「うちの場合、本は比較的、何でも買ってくれるぜ。たとえギャグ漫画でもな。何も読まないよりはましだろうって思われてるみたいだ。でも、『ジャンプ』を買うようになって、『コロコロ』を買う余裕はなくなっちまった。満男が今も買ってるから、あいつの家で読めばいいかって思ってる。ちなみに過去の『ファミ通』のクロスレビューが気になる時は秀の家に行けばいい」
「秀君の部屋の本棚、ゲーム雑誌がたくさんあったもんね」
 各自、家の近くまで来ると集団から離脱する。「また明日!」と手を振って家に入っていく。俺とユウナは小学校から一番遠い地区に家があった。一人ずつ家に消えていくのを見送って、最後に二人でならんで夕日の中を歩くことになる。
 読み終えた『ジャンプ』がある日は、家の前ですこしだけ待ってもらった。我が家は木造の二階建てだ。兼業農家なので、祖父が畑仕事に使うトラクターが車庫にある。俺は家に入るとランドセルを投げ捨てて、『ジャンプ』を部屋から持ってくる。ユウナに渡すと、彼女は表紙を見て「わぁ!」と顔をかがやかせる。その場で立ったまま読もうとするので、俺は彼女の背中を押し、自宅のある方角に向かって進ませる。
「歩きながら読むなよ! 事故にあっても知らないぞ!」
「うん! いつもありがとう、大地君!」
 彼女は感謝していたが、俺にとってみれば、捨てる手間がはぶけたようなものだ。俺の家から彼女の家までは数百メートルほど離れている。滅多に車の通らない、のんびりとした農道を、『ジャンプ』を抱きしめてユウナが遠ざかる。
 同い年のいつものメンバーで、一年の行事を楽しんだ。だれかの家で開催されるクリスマス会やプレゼント交換。年始の挨拶をかねた餅つき大会。春になると五人で自転車に乗り、桜の名所まで遠出をした。
 夏の夜、全員で待ち合わせをして神社のお祭りへと向かう。浴衣を着たユウナと塔子が金魚すくいをした。がさつな塔子は、金魚をすくうための【ポイ】を一瞬でだめにしてしまう。ちなみにうちの地元のお祭りでは、和紙を針金に張った【ポイ】ではなく、針金にモナカの皮を刺したタイプの【ポイ】が使われていた。濡れてだめになった【ポイ】のモナカが、金魚の水槽に浮かんでいた。食いしん坊の満男がそれをすくって食べようとするので、秀が頭をはたいて止めさせる。
 夏には怖い話の大会をした。だれかの家にあつまって、心霊体験の話を披露するのだが、女子よりも秀の怯え方がひどかった。彼は怪談話に免疫がないらしく、子どもの頭でかんがえた噓くさい話でも、ギャーギャーと怖がってうるさかった。
 ちなみに、俺の披露する心霊エピソードは怖すぎると仲間内で評判だった。リアリティがあり、本当に起こりそうな不気味さがあるという。当然だ。俺が語った怖い話は、すべて曾祖母の実体験なのだから。
 曾祖母には霊感があったらしい。祖父の母親にあたる人物で、俺が生まれるよりも前に亡くなっていたが、仏間に遺影が飾られているので顔は知っている。
 彼女には頻繁に死者の姿が見えていたそうだ。死者に足をつかまれた話や、死んだはずの知り合いが枕元に立っていた話などを、息子である祖父によく聞かせていたという。
 夏の行事で外せないものと言えば、花火だ。小学六年生の夏の夜、俺たちは親に内緒で子どもだけで花火を楽しんだ。
 手持ち花火の詰め合わせセットや、地面に置くタイプの噴出花火、打ち上げ花火や、パラシュートになって落ちてくるタイプの花火など、それぞれが店で買ったものを持ち寄る。夕暮れ時に河川敷にあつまり、家からくすねてきたライターで蠟燭に火を点した。地面に転がっている大きくて平らな石の上に蠟燭を立てて、手持ち花火の先端を火で炙った。
 火薬に引火すると噴水のように、赤や青、ピンクや緑の光の粒が出てくる。火薬が燃えるという、ただそれだけの現象に俺たちのテンションは際限なく上がった。煙が河川敷に立ち込め、独特のつんとしたにおいにむせる。俺と満男と塔子は手持ち花火を振り回し、常識派のユウナに叱られる。秀は火の点いた花火を河川敷の水たまりに突っ込んで、ぶくぶくと水中でも火薬が燃え続ける様子を観察していた。
 一時間ほどで花火がなくなってしまう。ひとしきり楽しんで満足した俺たちは解散することにした。ゴミをかきあつめ、河川敷にとめていた自転車にまたがり、秀と満男と塔子が先に帰っていった。三人は家が遠いから、帰宅をいそいでいたのだ。三人の自転車のライトが遠くなっても、ユウナは懐中電灯の光を地面に向けて最後までゴミ拾いをしていた。
「ユウナ、みんなもう行っちゃったぞ。俺も帰るからな」
「あ、待って」
 ゴミの入った袋を持って歩き出そうとしたが、彼女は不意に足を止めた。地面に落ちていた何かを見つけた様子だった。
 ユウナは屈んでそれを拾う。線香花火だ。十本程度が寄りあつまって束になっている。駄菓子屋でむき出しに売られている商品だ。だれかが買ってきたものの、存在感が薄くて忘れさられていたらしい。
「これ、まだ新品だよ」
「せっかくだし、やるか」
 俺たちは河川敷で中腰になり、指で線香花火をつまんだ。紙縒こよりの先端に火薬を包んでふくらんでいる部分がある。そこにライターの火を近づけた。
 先端が燃えはじめる。しばらくすると、命が宿ったかのような、赤色の火の玉がふくらんだ。やがてその火球はオレンジ色の火花を発する。ぱちぱちと爆ぜる火花の数は、次第に多くなり、勢いを増してかがやく。それが落ち着くと、細い火花が一本ずつ散って、最後には火球そのものが、力尽きたように落下する。
 最初は地味かと思ったが、予想外におもしろかった。独特の味わい深さがある。次の線香花火に火を点し、俺たちは火花を見つめる。すぐそばにゆったりとした川の流れがあり、水の音がしていた。
「みんなでやるタイプの花火じゃないな。何も言わずにじっと見つめているのがいい。まるで本でも読むみたいに」
 俺がそう言うと、ユウナがすこしおどろいた顔をする。
「私も同じことかんがえてた」
「噓つけ」
「本当だよ」
 俺たちはのこりの線香花火にも火を点す。
 火花が弾けるように生まれ、オレンジ色の光の残像が闇の中に咲く。やがて勢いを失い、呼吸を止めるみたいに沈黙する。
 最後、火球が線香花火の先端から外れて落ちると、あたりは暗く、静かになる。死の世界が訪れたかのように。
「本当に、同じこと、かんがえてたんだよ」
 真っ暗な道を帰りながら、ユウナは言った。

 ユウナは時々、空想の世界で遊んでいる。ぼんやりと雲を見上げたまま、何十分も心が地上に戻ってこないことがある。
 小学校から帰る途中、彼女が空を見ながらふらふらと赤信号の横断歩道を渡ろうとするものだから、赤いランドセルをつかんで引っ張り戻してやった。俺たちが住んでいるのは地方の田舎だから、交通量もすくないため、そのまま道路に出てしまっても轢かれなかったかもしれないが。
「そのうち事故にあっても知らないぞ」
「私が道を外れて水路に落ちたら、大地君、助けてくれる?」
 通学路の農道に沿って深めの水路がある。
「俺がその場にいたら助けるけどさ、いつも俺がいるとは限らないだろ」
 俺はいつからかユウナに対して特別な感情を抱くようになっていた。それはいわゆる恋愛感情的なものだったが、どのように発生し、胸の内に宿ったのか、自分でもわからない。
 自覚したのは六年生の時だ。その頃、彼女は漫画の模写にはまっており、授業中にもノートに四コマギャグ漫画を描いては教師に怒られていた。
 休憩時間、みんなから離れた場所で、彼女は一人、教室の窓辺に佇んでいた。近づいてみると、彼女はなぜか鼻の下に消しゴムをあてて、真剣な表情をしていた。
「おまえ、何してるんだ?」
 声をかけると、消しゴムの位置を指で保持したまま俺を振り返る。
「この消しゴムの匂い、好き」
「そうか、良かったな」
 休憩時間が終わるまで、彼女はずっと窓辺で消しゴムの匂いを嗅いでいた。真剣な表情で。
 変な奴だ。そう思うと同時に気づかされる。彼女をなぜか目で追いかけてしまうことに。
 当時、彼女が熱中していた漫画は『週刊少年ジャンプ』で連載中の『HUNTER ×HUNTER』だ。主人公の少年が世界を冒険するという内容だが、緻密に練り上げられた物語展開と、壮絶なバトルシーンに俺たちは魅了されていた。登場人物たちは、念能力と呼ばれる不思議な力を駆使して戦闘を行うのだが、その息詰まる駆け引きがたまらない。その年、『HUNTER × HUNTER』は長期の休載に入っていたが、読者の熱量はすこしも衰えなかった。
 ある日、ユウナが至極真面目な顔をして俺に打ち明けた。
「私ね、水見式みずみしきをしようと思ってるんだけど、大地君にも一緒につきあってほしい」
 水見式というのは『HUNTER × HUNTER』に登場する用語である。念能力には六つの系統があり、「強化系」「放出系」「変化系」「操作系」「具現化系」「特質系」に分けられる。登場人物たちは水見式と呼ばれる方法を用いて、自分がどの系統の念能力を持っているのかを判定するのだ。
 ……あくまでも、漫画の中の話である。実際に念能力を使えるという人間を見たことはない。はっきり言って、実際に水見式をしようなんて思いつくのは馬鹿げている。フィクションと現実を混同している。
 しかし、俺はユウナの誘いに乗った。
「いいぜ。自分の中に眠っている念能力がどの系統なのか、俺も気になっていたところだしな」
 学校から一度帰宅して、彼女が俺の家に来た。集合場所を一ノ瀬家にしなかったのは、彼女の弟の一郎いちろうが邪魔をするに決まっているからだ。一郎はシスコン気味なのか、ユウナと俺が一緒に遊んでいるのを嫌がる。水見式には精神の集中を必要とするため、一郎のいない我が家の方がいい。
 ユウナが訪ねてくると、祖母がうれしそうな顔をしてお菓子を出してくれる。二階の俺の部屋にユウナを案内し、さっそく水見式の準備をした。
 必要なものは、コップに注いだ水と、一枚の葉っぱだ。水の表面に葉っぱを浮かべて両手をかざし、体内のオーラを練り上げて手にあつめるのだ。成功すれば、コップの水や浮かんでいる葉っぱに何らかの変化が生じる。それを観察することで、その人の資質が判定できるというわけだ。漫画の中でそう語られている。
 例えば、水の量がふえてコップから溢れ出したなら、その人は「強化系」の念能力の才能を持っている。水に浮かべた葉っぱが、風もないのに動き出せば、「操作系」の念能力の保持者だ。
 実際には念能力なんて存在しない。頭ではわかっている。だけど、もしかしたら自分にも何か不思議な能力が眠っているんじゃないか、という淡い期待も一方では抱いていた。
「私には、どんな念能力があるんだろう……」
 不安そうにユウナが言って、コップに注がれた水を見つめる。庭の木から採取してきた葉っぱを浮かべていた。窓は閉めている。もしも葉っぱがゆれた時、風のせいではないことを示さねばならないからだ。
「先に大地君、お願い」
「わかった。やってみる」
 俺は緊張しながらコップに両手をかざす。
 俺たちは『HUNTER × HUNTER』ごっこをしているにすぎない。だけど、もし、本当に特別な力があったとしたら? 俺は体内のオーラをかきあつめて手を覆うようにイメージする。コップの水の色が無色透明ではなくなり、何らかの色に染まったら、俺は「放出系」の才能を持っている。水の中に不純物が生じたなら「具現化系」。葉っぱが急に枯れたり、水が沸き立って悪臭を放ったりすれば「特質系」だ。
 目を閉じて念じ続けた。
 しかし、コップの水に変化はない。
 五分ほどがんばってみたが、最後にはあきらめて、手を下ろす。
「だめだ……」
「待って。念のため」
 ユウナがコップを手に取り、水を一口、飲んだ。
 水の味が変化していれば「変化系」の念能力保持者だ。
「どうだ?」
「……ただの水」
「そうか」
 何の変化も起きなかった。俺は念能力者ではなかったというわけだ。わかっていたはずなのに、すこし寂しい。
「元気を出して」
 ユウナが俺をいたわるような表情で声をかける。
「今度はおまえの番だ」
「うん。がんばる」
 すこし休憩をはさんで、精神統一をした後、彼女も水見式をはじめた。コップに両手をかざし、まぶたを半分ほど下ろして、念じるような表情になる。額にうっすらと汗を浮かべていた。
 わかっていたことだが、彼女の水見式も俺と同様の結果となった。コップの水にも、葉っぱにも変化は生じない。彼女はがっくりとうなだれて、心底、悔しそうにしていた。俺よりも真剣に信じていたのだろう。特別な能力が自分の中にもあるのだと。
「どうやら俺たち、二人とも念能力者ではなかったみたいだな」
「うん。残念だけど、そうみたい」
 ユウナが、すこし泣きそうな目をしていたので、俺は動揺してしまう。目が赤かったし、すん、と鼻をすすっていた。
「ありがとう、水見式につきあってくれて」
「どういたしまして」
 その時、ふと、俺は思った。
 ユウナは、自分の中に眠っているかもしれない才能と、念と呼ばれる概念とを、重ねて見ているのかもしれない。
 彼女は、漫画家になることを夢見ていた。絵の練習をしていたし、彼女の部屋の本棚に『漫画の描き方』というテキストがあったし、勉強机にインクを落とした染みのようなものがあった。
 その夢をかなえるため、自分の中に特別な力が眠っていてほしいと切望していたのだろう。ユウナにとって、漫画家といった人種は、物語を絵で具現化するタイプの念能力者に見えているのかもしれない。
「あきらめるなよ」
 俺は思わず、そんな言葉を口にしていた。
 ユウナは、おどろいた顔で俺を見た後、泣きそうな顔を見られまいとそっぽを向いた。

 コップに注がれた透明な水。
 清らかな水の上に横たわる葉っぱ。
 それを中心に広がる波紋。
 ユウナと水見式ごっこをした日の記憶は、大人になっても鮮烈に覚えていた。当時はかんがえもしなかったが、宗教的な儀式に近い印象を受けたのかもしれない。時折、テレビや映画で、キリスト教の洗礼をする様子が登場する。神父様が信者の額に水を注いだり、信者の体を水に沈めたりする。それを見ると、俺はユウナとの水見式のことを思い出す。

 中学生になっても俺たちの関係は基本的には変わらなかった。いつもの五人で試験前にあつまって猛勉強する。成績の良かった秀が俺たちの脳みそをきたえてくれた。中学校は俺たちの自宅からすこし遠い場所にあったので、自転車で通学をしなくてはならない。男女でならんで自転車をこいでいると、他の生徒たちから冷やかしの目で見られた。
 ユウナは顔立ちが良かったので、男子生徒から視線を向けられることが多くなる。どんな男子生徒に対しても分け隔てなく接してくれるところも人気なのだろう。
 満男は心無い女子からはキモデブ扱いをされるようになったし、秀はキモオタ呼ばわりされていた。表面上、女子が取り繕って普通に接していても、内心でそう思っている雰囲気は伝わってくる。しかしユウナの場合はそんな内面の曇りがなかった。ユウナと塔子の場合、小学生時代に仲良く遊んだおかげで偏見がないのだろう。
 ちなみに俺は、幼少期から塔子のキャッチボールやその他の特訓につきあわされたせいか、それなりに運動ができた。運動ができる男子に対し女子は寛容だったので、キモい扱いを受けることはなかったが、幼馴染の男子二名が悪く言われていると、いい気はしない。
 中学生になり、俺たちは異性というものを意識しはじめる。クラスの中に男女交際をはじめる者たちが出現し、その事実に驚愕させられた。
 俺はユウナに対する感情を自覚していたが、彼女の方はどう思っているのだろう。休み時間、学校の廊下でユウナに遭遇すると、彼女はぱっと明るい表情になり駆け寄ってきてくれる。それから休み時間が終わるまでの間、テレビの話や、本の話や、弟がはまっている漫画の話をする。
 ユウナの中に、俺への否定的な感情はない、と思いたい。だが、しかし、好意を打ち明けるというのは話が別だ。それをしたことで今の関係が崩れてしまうことが嫌だ。告白だなんてとんでもない。
 中学で顔見知りになった男子が、ユウナに一目惚れして告白したらしい。ユウナは断ったそうだが、それを知って安堵する自分がいた。
 三年間、自転車で中学校に通う日々を過ごす。
 そして、俺たちは高校生になった。


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