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【試し読み】アンデッドアンラック 不揃いなユニオンの日常

『アンデッドアンラック 不揃いなユニオンの日常』発売を記念して、本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。

あらすじ

組織の新メンバーとなったばかりの風子に課されたはじめての仕事。それはアンディとの死闘の末、帰らぬ人となったジーナの部屋を片付けることだった。彼女を慕っていたタチアナを誘い、部屋に入ると、そこには...!?


それでは物語をお楽しみください。

Ep.001 おば様がいなくなって……

 整理整頓の基本は、物を少なくすること。
 出雲いずも風子ふうこは、そう考えている。
 物が少なければ、整理をするのも、掃除をするのも苦にはならない。
 なにより、彼女の否定能力――不運【UNLUCK】――は、触れた相手に不運を招くので、同居する祖父にうっかり触れたりしてしまったときに、被害が想定の範囲内で収まるよう、物を減らしておくことは重要だった。
 なので、風子の私物はいつも必要最低限で、ユニオンに来てからも部屋は常に片付けられ、掃除も隅々まで行き届いていた。
 そんな風子だからこそ、この仕事に最適と選ばれたのだろう。
 課題クエストUMAユーマスポイルの捕獲』前に、ユニオンで課された、はじめての仕事。
 それは『ジーナの部屋の片付け』であった。

 準備を整えた風子が静かな気合いと共に自室の扉を開けて外に出ると、そこには鉄球が浮かんでいた。
 組織ユニオンが独自開発したBMブラツクメタル装甲の専用アーマー「スフィア」をまとう不可触【UNTOUCHABLE】ことタチアナである。
「わっ、風子!?」
 まさか扉が開くとは思わなかったのだろう。タチアナのロボットアームがあわてたようにガチャガチャと動き、ぽとりとなにかを落とした。
「ん? それって……」
「なんでもないわっ」
 風子が拾うよりもはやく、タチアナがゆかに落ちたもの――トランプのケースをかっさらうように拾い上げ、背中に隠す。
「タチアナちゃん、もしかして遊びに来てくれたの? うれしいな~」
「ち、ちが!」
「え、違った!? ごめん、うれしくてつい……」
 風子が照れつつ謝る。するとタチアナは動揺したらしく、ロボットアームの指先をかくかくとあらぬ方向へ大きく動かし、やがて小さな声で「違わないけど……」と言った。
「……でも、風子はこれから用事があるんでしょ?」
「うん。実は、そうなんだよね」
 風子は手に持っている、ほうきやはたきといった掃除道具を見つめた。
「これからジーナさんの部屋を掃除しに行くんだ」
「ジーナおば様の……」
 つぶやくように言い、黒い鉄球が沈黙する。
 鉄球の中にいるタチアナの表情をうかがい知ることはできない。
 けれど、風子には目の前の心優しい少女の考えていることが、簡単に想像できた。
 ジーナのための掃除を自分も手伝いたい。けれど、それを言い出すのが、まだ恥ずかしいのだ。
「タチアナちゃんにも掃除、手伝ってほしいな」
「いいの!?」
 はじかれたように返ってきたかろやかな返事に、風子は「もちろん!」と返す。
 ふたりは連れだってジーナの部屋へと向かった。
「ありがとね、遊びに来てくれて」
「え!? あ、うん……」
 言葉は少なくてもうれしそうなタチアナの声に、風子はにっこりと微笑ほほえむ。
「私、日本にいたときは誰とも関わらないようにしてたから、誰かが遊びに来てくれるの、すっごくうれしい! そうだ、掃除終わって時間があったら、トランプしようよ!」
「風子……」
 タチアナは、隠していたトランプケースをそっと取り出した。
 新品のそれは、ビリーと相談して用意したものだという。
「私も……ユニオンに来て、お友達のお部屋に行くの、はじめてだった。でも、どうやって声をかければいいか、わからなくて……ずっと部屋の前にいたの」
「そうだったんだ……。ごめんね、気づけなくて」
「ううん! だって、勇気が出せかったのは私のせいだもん。……誰とも触れ合わないできたから、どう声をかければいいか……どうしたら仲良くなれるのか、わからなくて」
 言葉を句切くぎると、タチアナは移動を止めた。
 どうしたのだろう、と風子も足を止め、タチアナと向き合う。
 タチアナはなにも言わない。ロボットアームだけが、そわそわと動き、やがて意を決したかのように、きゅっと握り込まれた。
「……でもね、変わりたいって思うんだ」
「変わる?」
「ずっとね、自分の能力で誰かを傷つけるのが怖かった。だから、ジーナおば様がいつも優しく声をかけてくれても、できるだけ離れるようにしてたの。……だけど、おば様がいなくなって……すごく後悔してる。もっと、もっとたくさんお話しすればよかった。話しかけてくれたこと、うれしいって私も言えばよかった。でもっ、もう伝わらない……」
「タチアナちゃん……」
「風子と出会って、少しだけど能力の制御せいぎょに自信がついたんだ。だから今度こそ、後悔しないように、もっと女の子たちと仲良くなって、お友達になりたいの」
 タチアナの声には緊張とやる気が満ちていた。
 風子は胸が熱くなり、ロボットアームを包むように両手で握る。
「うん! すっごくいいと思う! 私もタチアナちゃんともっと仲良くなりたい! 他のみんなもそうだと思うよ!」
「そう、かな……? いまさら、仲良くなりたいなんて言って、あきれたりしない? 図々しいとか、なに言ってるんだこいつとか、自分の都合ばっかりとか、お高くとまりやがってとか、それから、それから……!」
「お、落ち着いて、タチアナちゃん!」
 早口でまくしたてるタチアナに、風子は慌ててストップをかけた。
 とはいえ、タチアナの不安は風子にもよくわかる。
 理由があるとはいえ、いままでそっけない態度を取ってきた相手にいざ向き合おうとするのは、勇気がいることだ。
 しかも、ずっと人との関わりを極力避けてきたのだから、そもそものコミュニケーション能力が低い。いや、低すぎる。
 とぼしい経験値で挑む新たな一歩は、なかなかにハードルの高いものだった。
(たとえるなら、一目惚ひとめぼれしてすぐに告白するようなものだよね? 『きみつたわれ』でも、そんなシーンあったけど……失敗してた)
 風子はつい自分の大好きな漫画のシーンを思い出したが、いまは失敗例をあげても意味はない。必要なのは成功する手順や解決方法だ。
 とはいえ、風子自身もコミュニケーション能力が高いとはお世辞にも言えない。タチアナに有効なアドバイスはできそうになかった。
「誰か、コミュニケーション能力高い人に相談してみる? あ、そうだ! アンディ……」
却下きゃっか
「即答!?」
「あんなデリカシーのない男に、教わるものなんてない」
 ぷいっとそっぽを向くタチアナに、風子は「あー……」と同意ともため息とも取れる声を出す。
 たしかにアンディは誰とでも打ち解けることはできる。しかしそれは自分のペースに相手を乗せてしまうからだ。
 自分の興味があることにとことん前のめりで、突っ走る。それがアンディだ。
 おかげで、アンディに対する風子の第一印象は最悪だった。
 タチアナも、最初のバトルでいろいろありすぎたせいで印象は最悪なのだろう。
「教わるなら、風子からがいい」
「ええ、私!? えーっとえーっと……!」
 タチアナのレンズに見つめられ、風子は必死に考えた。けれど、やはり経験不足である風子に、画期的な解決方法は思いつかない。
「やっぱり……素直に話しかけることから始めるしか、ないんじゃないかな……?」
 たっぷり一分間考えて出した風子のアドバイスに、タチアナは「やっぱり、そうよね」と神妙な声で答えた。
「話しかけて……嫌われないといいな」
「大丈夫だよ! ……そうだ! だったら、話しかけるとき私も一緒に行くのはどうかな? ひとりだと不安だけど、ふたりなら!」
「いいの!? ありがとう!」
「ううん! 一緒にがんばろう!」
 風子とタチアナはぎゅっと握手をして笑い合い、改めてジーナの部屋へと向かった。

 ジーナの部屋を見た風子は、静かな闘志に燃えた。
「これは……整理のしがいがあるっ!」
「そういうものなの……?」
 燃えている風子の隣で、タチアナがたじろいだ声をらす。
 ふたりの眼前に広がるのは、あふれんばかりの趣味の品々だ。
 ウォークインクローゼットに入りきらないブレザー、セーラー服、チェックスカート、プリーツスカートといった洋服のたぐいが、壁をくすようにられている。
 ライトがたくさん付いているドレッサー上には化粧品類が隊列をなしており、隣の棚には美容器具がぎっしりと詰まっている。
 その他にも雑誌があちこちに並び、それを支えるようにアクセサリースタンドが置かれ、当然ながらそのスタンドには大量のアクセサリーが飾られていた。
 物は棚だけに収まらず、床にも散らばって落ちている――もしかしたら、置いているつもりかもしれないが、もはやわからない状態だ。
 とにもかくにも、さまざまな物が溢れていた。
「どこから手をつけようかな!」
 風子がうきうきと悩んでいると、
「失礼します」
 控えめなノックの後に扉が開き、少女がひとり入ってくる。
 中華服を身につけ、髪を二つのおだんごにまとめた少女は、シェンの部下であるムイだ。
「お掃除すると聞き、お手伝いにまいりました」
 ペコッとお辞儀するムイも、手にはエプロンを持っていた。
「ありがとう! 助かるよ、ムイちゃん!」
「とんでもございません。ジーナ様は、私にも優しくしてくださいました。ですから、私もジーナ様のために、なにかしたいと思っていたんです」
「そうだったんだ……。じゃあ、三人で一緒にがんばろう!」
「はいっ!」
「う、うん」
 かすれた声で返事をしたタチアナに、風子はすーっと近づくと小声で話しかけた。
「チャンスだよ、タチアナちゃん! 一緒に掃除をしていれば、ムイちゃんとも会話のきっかけができるよ。きっと仲良くなれる!」
「そ、そうね……。やってみる……!」
「うん、応援してる!」
 するとすぐさまタチアナはすーっと、ムイのほうへ進んだ。
(え、もう!? いきなりすぎない!?)
 風子は心配した。けれど、やる気になっているタチアナに水をさすのはよくないと思い直し、心の中でエールを送ってふたりを見守る。
「どうされました、タチアナ様?」
 エプロンのリボンを結び終えたムイが、タチアナに優しく微笑んだ。
「な……」
 タチアナが裏返った声で言う。
「な?」
 律儀りちぎなムイが不思議そうにかえす。
「な、なか……」
「ななか?」
「なか……ょ……!」
「あ、『なか』ですね?」
「なっ……! な、なんでもない!」
 と言うと、タチアナはピューッと部屋の奥へ逃げた。
 本当はそのまま奥にあるウォークインクローゼットの中へ隠れたかったのだろうが、入り口はタチアナが入るには狭く、壁にドンッとぶつかり、コロンと転がった。
「タチアナちゃん、大丈夫!?」
 風子とムイが慌てて駆け寄ると、タチアナはぽんっとねるように飛び起きた。
「なんでもない! なんでもないの!」
 恥じらうようにレンズをロボットアームで隠し、風子たちに背を向ける。
 黒光りする鉄球が、心なしか恥じらいで赤くなっているように風子には見えた。
(やっぱり急には、「仲良くしてね」って言うのは難しいよね……。そもそも急に言いすぎだったし……)
 風子はタチアナをはげますように、そっと鉄球をでた。
 タチアナがうかがうように、チラリとレンズを風子に向けてきたので、風子は力強くうなずき返す。
 チャンスはまだある。
 なにしろ、風子の見積もりでは、部屋を掃除するのにたっぷり一日はかかるはずだ。それだけの時間を一緒にいれば、仲良くなる機会はまだまだあるに決まっている。
 だからいまは落ち込むのではなく、やるべきことをするべきなのだ。
「さぁ、掃除をはじめよう!」
 風子は元気よく宣言した。

 風子の指示のもと、三人は室内の物を大まかに分けてから、片付けることにした。
 ジーナの持ち物で圧倒的に多い衣類を一か所に集め、その次に多い化粧品、アクセサリーもそれぞれ集める。残りのものは「その他」としてやはり一か所に集めるルールだ。
「オシャレな人って、モノが多くなるんだなぁ~」
 衣類の山を見あげて、風子は感心する。
「美容にも大変気をつけてらしたようですね。これ、もう八個目です」
 ムイが棚の奥で見つけた美顔器を、化粧品のそばに下ろした。
「……ねぇ、これは『その他』でいいの?」
 そう言って、タチアナが運んできた段ボール箱を風子に見せる。
 段ボール箱の中には、手のひらサイズの小瓶こびんが整然と並んでいた。
 風子はそのひとつを手に取り、瓶のラベルを読んだ。幸運なことに説明書きは日本語だった。
「これ、サプリだよ。軟骨成分豊富だって」
 タチアナによると、同じサプリが入った段ボール箱が、収納庫にあと五箱はあるそうだ。
「……ひざ用でしょうか」
「膝だろうね」
 ムイと風子が神妙な顔で頷き合う。
 ジーナの実年齢を考えると、やはりアンチエイジングには相当気をつかっていたのだろう。
「じゃあ、こういうサプリ系は『化粧品』と一緒にまとめようか」
「わかった。私、運んでくる」
「タチアナ様、私もお手伝いします」
「え……」
 ムイの申し出に、タチアナが固まる。
(チャンスだよ、タチアナちゃん!)
 風子は心の中でエールを送った。
 まさにタチアナにとっては千載一遇せんざいいちぐうのチャンスと言えた。
 相手から話しかけてきてくれたのだから、こちらは答えるだけでいい。
 しかも、一緒に荷物を運べば、きっと――
『重い?』
『大丈夫です』
『……よかったら、一緒に持つ?』
『ありがとうございます! タチアナ様、優しいんですね(好感度アップ)』
 ――ということだって夢ではない。
 少女漫画でつちかわれた風子のセンスが、「時は来た!」と告げている。
 風子の熱いエールのまなざしの先で、硬化が解けたタチアナが無意味にロボットアームをガチャガチャ動かしながら、言った。
「い、いい! ひとりでできるわ!」
「あっ、失礼しましたっ」
 ムイが慌てて頭を下げる。どうやら、タチアナのプライドを傷つけたと思ったようだ。
「ち、ちがっ……!」
 タチアナはあせって訂正しようとするが、なにを言うべきかがわからないようで、ロボットアームがせわしなくわちゃわちゃと動くだけだ。やがてロボットアームの指先が、しゅん……と力なくたれた。
「荷物、運んでくるわ……」
 タチアナはそう言うと、収納庫のほうへ去って行った。
 さびしげな鋼鉄の背中を見ていると、風子の胸は締めつけられた。
 仲良くなりたいと思う気持ちと、勇気が出せない気持ち。その両方が痛いほどわかる。
 せめて、誤解だけは解こうと風子はムイに声をかけた。
「ムイちゃん、タチアナちゃんね、少し緊張しているみたいで……」
「わかっております。きっと、私のことも許せないんですよね」
「え?」
 想定外の言葉に思わず風子はムイを見つめた。
 重ねた両手を体の前でそろえてたたずむ彼女は、どこか寂しげな表情だった。
「許せないって、なにが?」
「……ジーナ様を倒し、ユニオンの席を手に入れるよう、風子様たちに教えたのはシェン様ですから」
 風子は息をんだ。言われてはじめて気づいた。
 ユニオン側から見てみれば、シェンもまた『仲間殺し』を容認し、うながした人物なのだ。
 言葉をなくす風子に、ムイは少しだけ視線を落とした。
「タチアナ様はジーナ様のことをおもい、アンディ様に決闘まで申し込まれたそうですね。ならば、その発端となったシェン様……ひいては私のことを許せないのは当たり前です。あからさまに敵意を向けてこられないのは、きっとタチアナ様の優しさですね」
「そんなことないよ! タチアナちゃんは……!」
 ムイちゃんと仲良くなりたいんだよ。その一言が、言えなかった。
 タチアナの想いを勝手に代弁してはいけない、と心にストップがかかったのだ。
 風子は迷い、くちびるみしめる。
 そして、ためらいつつも、手袋をした手でそっとムイの手を包んだ。
「ムイちゃんも、つらかったんだね……」
「! 風子様……」
 ムイの瞳が大きく見開かれる。その瞳に、薄い涙の膜が広がるのを見て、風子は慌てて手を放した。
「ご、ごめんね! 怖がらせちゃったね! でも、手袋越しだから不幸は起こらないと思う! あ、でも怖いよね、ごめんね、ムイちゃん!」
「いいえ、違うんです!」
 慌てる風子の手を、今度はムイがそっと手で包んだ。
うれしかったんです、風子様のお気持ちが……」
「ムイちゃん……」
 風子は胸が痛くなる。
 ムイはさきほど、「ジーナには優しくしてもらった」と話していた。
 彼女の遺品を片付けるのを手伝いたいと思うほどに、ジーナと交流があったのだろう。
 それほどにしたった相手の死んだきっかけが、自分の大事な上司の提案だとしたら、その心はどれほど複雑だろうか。
「ごめんね、ムイちゃんが苦しんでいることに気づかなくて」
「いいえ、風子様が謝る必要はありません! これは私が……私が勝手にいだいている想いですから……」
「その想い、聞いてもいい……?」
「え?」
「ムイちゃんがジーナさんのことで悲しんでるなら、一緒に悲しみたい。ムイちゃんの話をもっと聞きたい。それぐらいしかできないけど……とても大切なことだと思うから」
 アンディと出会ってから、話をすること――相手を知ることの重要さを、身をもって知った。
 だからこそ、ムイの想いもきちんと知り、受け止めたかったのだ。
 風子の願いに、ムイは迷うように視線を彷徨さまよわせ、微笑んだ。
「でしたら、少し話を聞いていただいてもよろしいでしょうか。私の想いと、シェン様の想いを……」
 風子がこくこくと頷くと、ムイはゆっくりと話しはじめた。

 ジーナの敗北を知ったとき、ムイはすぐには信じられなかった。
 なぜならジーナは歴戦の戦士であり、強力な否定者でもあったからだ。
 敬愛するシェンが不死アンデッドたちに期待していると知っても、ボイドに続いてユニオンメンバーの交代は、どこか現実味がなかった。
 だから現実になってはじめて、それが意味する喪失そうしつに打ちのめされたのだ。
(私はなんておろかで、甘いのでしょう……)
 廊下を歩いていた足を止め、ムイは後悔がにじんだ息を漏らす。
 ジーナの訃報ふほうを聞いてから数日たつというのに、彼女にもう一度会いたいと思う気持ちは薄れない。
 いつだって帰ってくると思っていたから、「いってらっしゃい」の挨拶あいさつもしなかったことを、こんなに悔やむなんて。
 そしてなにより、ムイの心を占めている想いは――。
「ムイちゃん、どうかした?」
 シェンの声に、ムイははっと顔をあげた。
 廊下の端でたたずむ姿を、通りかかったシェンに見られてしまったようだ。
「な、なんでもありません!」
「そう? なんだか元気ないみたいだけど?」
無問題だいじょうぶです! ちょっと考え事をしていただけですので」
「んー……。でも、それで泣いたりする?」
「え!?」
 ムイは慌てて目元に手で触れる。れている感触に、自分が泣いていたことにようやく気づいた。
「もしかして……なんかまたボクのせいで、面倒な書類増えた? ごめんね?」
 申し訳なさそうに言うシェンの優しさに、ムイは泣きたくなる。
 喉元のどもとまで出かかっている言葉を、必死に吞み込んだ。
「い、いえ……そんなことは……! ジーナ様が亡くなって、シェン様は悲しくないのですか!?」
 吞み込もうとしていた言葉が、口から飛び出し、ムイは慌てて口を手でおさえた。
 不真実【UNTRUTH】――シェンの否定能力が発動したのだ。
「シェン様、違うんです! 私、そんなこと言うつもりじゃ……!」
 慌てるムイに、シェンは首を振った。
「ごめん。いきなり能力を使って。でも、ムイちゃんには無理してほしくないんだよね」
「無理、ですか……?」
「うん。言いたいことを言わずに吞みこむとか、してほしくない。いや、しないでほしい。間違ってることは『間違ってる』ってちゃんと言ってほしいんだ。ほら、ボクって狂ってるとこ、あるしさ」
「狂ってるって、どこがですか!? シェン様はいつでもお優しいです!」
「そうかな。仲間を見殺しにしてでも、強い相手に出会いたいと思うのは、普通はクレイジーって言うよ。それこそ、ジーナさんが言ってた『戦闘狂バトルマニア』ってのは、的を射ていると思うんだよねー」
 屈託くったくのない表情で言うシェンに、ムイはかける言葉が見つからない。
 ムイの葛藤かっとうに気づいたのか、シェンは励ますように、ムイの頭を軽くポンポンと撫でた。
「ボクに気をつかう必要はないよ。むしろ、ムイちゃんはボクの狂気かんがえに流されずに、正しいと思うものを大切にしてよ」
 ね、と念を押したシェンは、とても晴れやかで優しい顔をしていた。
 それが、彼の真実だとわかるほどに。


読んでいただきありがとうございました。
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