尻焼温泉

群馬県吾妻郡の六合村にある尻焼温泉はこれまで5回訪れた。一度目は2012年に季刊誌の初めての取材で中之条町と六合村を訪ねた時。2回目はその翌年の夏に、ひとり自転車で中之条町役場から、暮れ坂峠を越えて野反湖まで登り、その帰り道に立ち寄った。真夏のとても暑い日だったので、温泉に入らなくても河原の石は触れないほど熱かったが、たくさんの子ども連れの家族で尻焼温泉は賑わっていた。川の石が大きく丸みを帯びていて、それで川の水に触れている下半分が赤くなっていたので鉄分が多く含まれているのだろうと思った。


そして2018年と2019年にはエロイカジャパンにエントリーした際に、そのコース上にある尻焼温泉を通ることになった。”エロイカ”だけに、この先どんな難関コースや試練が待ち受けているのだろうかとの緊張感の中で、カーブの先に現れたエイドステーションに気持ちがほころんだ。吾妻の中でも最も深い自然の中で、尻焼温泉の川を望みながら、イタリア人や台湾人のライダーたちと共にするひとときの時間は素晴らしかった(そしてエイドをスタートした直後には激坂が待っているのだ)。


エロイカのコース上に数カ所設けられているエイドステーションのなかでここだけは、家族的な温かさが伝わってくる場所で、とてもエロイカらしいスーパーローカルな演出だと思った。地区のみなさんがボランタリーに振る舞ってくれていることは、海外のライダーにも積極的に話しかけているお母さんたちの姿から見てとれた。そこが星ヶ岡山荘だった。


その翌年の2020年の2月に星ヶ岡山荘を訪ねた。尻焼温泉はすでに馴染みのある場所になっていたが、温泉に入るのはこの時が初めてだった。
星ヶ岡山荘の周りには濃い自然があって、そのかけがえの無い美しさを十分に理解しているつもりの私だったが、翌日、女将さんのお話しを聞くとさらにここ六合村の貴重な自然と文化に惹き込まれた。この場所の価値を誰よりも理解している人が、最も美しい村の持続のために奮闘している。穏やかな語り口調ではあるけれど、この土地と未来への情熱と愛情を感じずにはいられない。そんな伝播力で伝わってきた。エロイカのエイドへの思いも語っていただき、私もなんとか力になりたいと心に留めて星ヶ岡山荘を後にした。5月のエロイカでまた再訪できる日が楽しみだった。

その直後から新型コロナウィルスの流行により、緊急事態宣言により移動の制限がかかり、エロイカジャパンは中止となった。
そして先日、佐野洋子さんのエッセイ(MUJI BOOKS)を読んでいると「尻焼温泉」の文字が目に飛び込んできた。

近くに「尻焼温泉」という、いやに具体的な名前の温泉がある。名前だけは知っていて、一度聞いたら忘れない名前である。

という書き出しで始まる。
近くに「尻焼温泉」??? という地理関係を理解するのに最初手間取ったが、佐野さんは軽井沢にお住まいであった。そして近くの「尻焼温泉」までのしかし、エベレスト登頂にも劣らぬ冒険談が詳細に綴られている。
「尻焼温泉」を俄であれ、わりと知っている私はその冒険の場面ごとに、「真っ暗な山道の様子」や「コンクリートの小屋」や「佐野さんが落ちたのはあの辺りの崖だろうか?」とか、かなりの再現力で想像しながら読み進めることが出来た。そうしてたまたまなのに、縁のある場所がどんどん色濃くなっていく。

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