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どこの大学に行くかなんてどうでもいい

 本記事では、博士課程の大学院生の視点で、タイトルにあるように、どこの大学に入学するかなど、いかに些細な問題かについて書き連ねたいと思います。そろそろ高校生や浪人生、あるいはその保護者にとって受験が気になる季節だと思うので、気休めになれば幸いです。とはいってもこの記事での内容は私の立場では芯を食ったことだと思っていただければなによりです。決して東大に行けなかったことへのやっかみではありません^^


そもそも大学に入るだけでは何の意味もない

 そもそも大学に入るだけでは何の意味もありません。・・・日本に住んでいると、某有名大学に通う学生さんをやたらと持ち上げたメディアの報道が度々目に入りますが、その大学にいることはほぼ何の価値もありません。もちろん、そこに入学するに足るだけの学術を身に付けたこと、そのための努力をしたことは学生にとっての一生の財産であろうと思います。しかし、大学は卒業して学位を取得して初めて価値が生まれます。学位を取得すること、それはあなたが特定の学術分野に関して一定の専門知識を身に付け、その分野にまつわる社会の諸問題に対する責任を持ち、解決策を提言できるような人材であることを指します。余談になりますが、この学位が学士、修士、博士と段階を追うごとに専門性、社会への波及、責任などなどが、より深くより重くなります。私は理工系の人間ですので、私の立場から言わせていただくのであれば、この世で最も大切な学位は博士です。さて話はそれましたが、私がここで言いたいのは大学に入学するというのは始まりに過ぎないということです。私のいた大学でも入学してからまるでダメになった人もいましたが、それでは入学金と学費をどぶに捨てたも同然です。大学に入ることは人生の始まりに過ぎず、そこから何を学ぶかによってその後に人生の在り方が大きく変わります。

試験でいい成績を残すことと社会で役立つ力をつけることは全く別の話

 次に話すべきは、試験でどれだけ優れた成績を残そうと、それが社会で求められる人材である保証にはならないという点であろうかと思います。私は試験でいい成績を取れるタイプの学生ではありませんでした。高校の成績も中の中でしたので、模試で成績のいい同級生がうらやましかったが、今となってみれば心底どうでもいい話だと思います。社会で求められる人材とは、一概に明言できるわけではありませんが、私の大学が学生に求める人材の特徴を少し意訳してみると、以下のような能力が高い人材かと思われます:
・論理的思考力
・主体的な学習姿勢
・情報処理力
・コミュニケーション力
・異文化理解力 etc.
 これらの能力は学校の授業だけ受けていても身につくものではありません。様々な人とのかかわりを持ち、多様な価値観に触れ、ご自身の社会の中での在り方を考える中で少しずつ身に付けていくものです。そして大学という比較的解放された空間はそれらの能力を養うために適した場所であるといえます。大学では基本的には何をするのも学生の自由です。すなわち一人一人の学生には何か行動を起こす選択肢が与えられ、いつどこでどの選択肢を行使するのかという戦略を学生自身で立てる必要があります。こうした経験を積むことによって、社会に対する責任を持ち、自律した人物が育成されることを概ね大学は求めていると思います。
 さらに、卒業論文を書くという経験がこれらの能力を向上させるために大きな意味を持ちます。卒業論文を書くためには、指導教員の助言のもと、研究計画を立て、その計画に従い、先行研究を調べ、入手した様々な情報を整理して研究テーマを確立し、実験・調査を行い、その結果を論理的・多面的に考察し、論文にまとめるという流れが必要になります。ここで、「指導教員の助言のもと」と記しましたが、実際には学生が主体的に行うことが求められます。指導教員から助言が得られるのは、学生が何かを考え、それを他人が理解できる形にし、質問を具体的にした場合のみです。「どういう研究をすればいいですか?」のような曖昧な質問では指導教員も「それはあなたが考えることです」としか答えようがありません。なぜなら研究の本質とは世の中でまだ解決されていない問題に関する知見を提供することだからです。曖昧な質問で具体的な答えが出るようならば、それはすでに研究する価値を失っています。この段落をまとめますと、卒業論文を書くということは主体的に学習しなければできないことで、その経験の中で論理的な思考力や情報処理力を養う必要があるということになります。

鶏頭となるも牛後となるなかれ

 大学に入るうえで心得ておくべきことは、この故事成語に集約されていると思います。ここで、私が大学に入学してからの経歴の一部を僭越ながら少しご紹介したいと思います。
・成績優秀学生として表彰(学部2年)
・給付型奨学金により交換留学を経験(学部3年)
・日本学生支援機構の奨学金返還免除(修士)
・次世代研究者挑戦的プログラムへの採用(博士1年)
 以上の項目に共通しているのは、「大学内部での競争を経て選抜され、金銭面での援助を受けた」ということです。カギとなるのは【大学内部】での競争を経たという点です。要するに、もし私がいわゆる優秀な大学にいた場合、内部での競争が激しく、こういった援助が受けられなかった可能性があります。これらの援助は今の大学にいたからこそ受けられたもので、このような成功経験は私に自信を与え、学習に対する意欲を促進する効果がありました。そして今では大学外での競争でも少しずつ結果を出せるようになってきました。若手のサッカー選手が大きなクラブでベンチを温めるよりも、小規模なクラブで試合経験を積んだほうがより成長できるという話を聞いたことがありますが、それと似たようなことだと思います。

国際社会ではなおのこと大学の名前など気にならない

 本記事の主題は大学の名前にこだわることには意味がないということでしたが、それは国際的な場に目を移すとより顕著になります。学会やウェビナーなど博士課程の学生として、海外の研究者や学生と交流する機会はこれまで多くありました。その中で私の大学の名前に食いついた方は一人もいませんでした。それは恐らく、私がThe University of Tokyoと言おうが、Tokyo Institute of Technologyと言おうが、Tokyo Metrpolitan Universityと言おうが興味は持たれなかったと思います。なぜなら私は研究者とし彼らと話していたため、彼らの中の私の評価指標は、どのような論文を発表してきたか、あるいはどのような学会発表をしてきたかなどであったからです。逆の立場で考えてみると、私がこれまで素晴らしい研究をしていると思った方はたくさんいましたが、彼らの出身校が気になったことは一度もありませんし、聞いたところで知らない大学だったと思います。要するに価値観の異なる人々にいる社会では大学の名前など飾りに過ぎないということです。

終わりに

 以上、大学の名前を気にすることが、私の価値観の中ではいかにどうでもよいかということを経験も踏まえながら書き連ねました。今まさに受験や就活で悩んでいるという方には反感を覚えるような内容だったかもしれませんが、きっと年を重ねれば理解していただけるものと思っております。受験生の皆さんの人生はまだまだこれから長いので、大学入学は社会に出るためのスタートに過ぎないと思われていることを知っていただければ幸いです。

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