【小説】ダーツとフリースロー 3.『へえ、あんたも大地っていうんだ』

 転校するのは三浦大地にとってはじめてではなかったが、久しぶりのことだった。

 人生で2度目の経験である。前回の転校は小学5年生に上がったタイミングでのことで、当時は世界のすべてが根本から変わるような、きわめて重要なことであるように思われた。

 それまでに培ってきた友人関係がすべてリセットされたのだ。幼馴染は駆逐され、やがてそれでもできた小学校の友達も、じきに中学受験などでほとんどが散り散りになっていった。 家庭環境も大きく変わり、少年三浦大地にとってその日はまさに生まれ変わったようなものだったと言えるだろう。

「あの時に比べれば、今回の転校はそれほど大きな変化じゃないね」

 当時のことを思い出しながら、高校2年生の三浦大地は転校初日を登校している。見慣れない道の見慣れない風景だ。9月1日の日差しは強く、ワイシャツを第一ボタンまで留めて指定のネクタイをきちんと締めた首元が汗ばんでいる。

 しかし、彼の心拍数が平常と比べて少しばかり高いのは、まんざら気温のせいだけではないだろう。少しの不安と少しの興奮。それを両足で踏み固めるようにして彼は通学路を歩いている。

 はっきり言って田舎道だ。空が広い。空模様は快晴で、川沿いの道をてくてくと歩く時間は決して悪いものではなかった。

「あの子は同じ学校かなあ。あれはたぶん違うだろうな。う~ん、よくわからない」

 眺める景色の中に制服姿が散りばめられている。いくつもの学校がそれなりに近い距離に建っているため、いくつもの種類の制服が存在するのだ。微妙に似ている制服や異性のものともなると、同じ学校の生徒かどうか、まったく大地にはわからなくなる。

 そんな中に、ひときわ目を引く女子がいた。

「何だろう。姿勢がいいのかな?」

 何とも不思議なことだった。

 彼女は特別背が高いわけでも低いわけでもないし、観察してみると歩き方も至って普通だ。バレエダンサーを思わせる姿勢の良さでしゃなりと歩いているわけはない。しかし大地の視線は磁石で釘が引っ張られるようにその女の子へと向けられてしまうのだった。

 すらりとした細身だ。顔は見えない。制服は校則通りに着こなされているのだろう。飾り気のないひとつ結びが涼やかで、それはかえって洗練された印象を彼に与える。

 背中に垂れ下がった艶やかな黒髪を小さく揺らし、少女は滑らかに歩いていた。

 今朝の大地は担任教師に転校の挨拶をするために特別早く家を出ている。部活の朝練があるわけでもなければ、彼女の登校時間はかなり早いと言っていいだろう。

「こんな時間に登校する優等生にはきっと早起きの習慣があるに違いない」

 少年はそのように考えた。そして現在時刻の写った画面をスクリーンショットで保存した。彼女が毎朝決まってこの時間に登校するというなら少しばかりの早起きの習慣を自分が作ってやるにやぶさかではないというものである。

 通常の登校をしていてはきっと巡り会わなかったであろう女の子に今日に限って遭遇したのだ。激しく思い込むことが許されるなら、そこに運命的なものを感じることもできるだろう。

「これ、ストーカーじみてないかな?」

 彼女の写真を撮るのだけは止めておこうと自分を律し、尾行しているように見えないための工夫は何かないだろうかと考える。

 そんなものはどこにもなかった。

〇〇〇

「それじゃあこの後朝礼で紹介するから、俺が呼んだら入ってきなよ」

 担任教師は大地にそう言い、彼をドアの向こうでしばらく待たせた。

 どの世界においても新入りには挨拶が必要なのだ。大地は転校の挨拶をまったく考えてきていなかったため、このわずかな時間で何を言おうかと頭を悩ませることになった。

「皆の前で何かを言うのは苦手なんだよなぁ」

 なんでこんなイベントをこなさなければならないのだろう、と脳内で呟くことで時間を潰す。つまり彼はそもそも考えたくないのであった。

 それでも課せられた義務は待ってはくれない。

「自分の名前と、これまでどこにいたかと、趣味のひとつでも言えばいいか」

 ため息をつきながら何とか考えをまとめていると、担任教師に名前を呼ばれた。緊張の瞬間である。

 ドアを開けるとまず教壇に立つ担任教師が目に入る。正面にいるからだ。促されるまま小さな段差を上ると、クラス全体が見渡せる。

「こいつがその転校生だ。皆よろしくな」
「え~と、はじめまして。三浦大地ですこんにちは」

 自分に集められる視線に居心地の悪さを感じながら、三浦大地は口を開いてそう言った。机についた生徒が整然と並ぶ光景の中に空席があるのが目につく。それは窓際の最後列で、ひょっとしたらあそこが自分の席になるのかもしれないな、と大地は思う。そして気づいた。

 今朝見たあの娘がこのクラスにいる。

 登校中に正面から見ることはできなかったが間違いない。何よりその涼しげで洗練された雰囲気が同一人物だと言っていた。

 その女の子は背筋を伸ばしてまっすぐ座り、やはり涼しげな視線を壇上の大地へ向けていた。その口元に小さく浮かべられた微笑みが好意的な印象を少年に与える。

 勝手な思い込みかもしれないが、それは童貞の心拍数を急上昇させるのに十分な衝撃だった。

 三浦大地はその後自分がどのような自己紹介をしたのか覚えていない。元々台本など用意していないのだ。何か適当に思いついたことをいくつか話し、気づけば担任教師に転校生紹介イベントを締めくくられていた。

「それじゃあ皆よろしくな。で、三浦の席なんだけど、どうしようかな。ちょうど2学期もはじまることだし、席替えするか?」

 席替えの提案に教室内がにわかにざわつく。しかし元々予定されてもいたのだろう、その動揺は大きくはならなかった。時間の経過が三浦大地にも落ち着きを与える。

 しかし、その平穏も、長く続きはしなかった。

「それじゃあ後は委員長に任せよう。月島、いいか?」

 担任教師がそう言うと、委員長なのだろう女子が涼しい声で返事をし、滑らかに椅子から立ち上がった。大地の視線はその動作に引き寄せられる。

 立ち上がったことで月島と呼ばれた少女の全身が視界に入る。校則通りに着こなされているのだろう制服がいかにも彼女に似合っている。 飾り気のないひとつ結びがかえって洗練された印象を与える。

 それはまさに登校中から三浦大地の目を引いていた女の子だったのである。

 このクラスの学級委員長である月島美夜はゆっくりと机を離れ、三浦大地と担任教師の立つ教壇へと足を進めた。一歩、また一歩と気になるあの娘が歩み寄ってくる様は、少年の心臓の鼓動を力強く加速させた。

 じっとりと手の平に汗がにじんでいる。担任教師に教卓前の議長席とでも言うべき場所を譲られた月島美夜は、三浦大地を見つめてにっこりと微笑んだ。

「私はこのクラスで学級委員長をしている月島美夜。よろしくね、三浦くん」
「よ、よろしく。三浦大地です」
「それは知ってる。一応私は委員長だから、何かわからないことがあって、誰に訊いたらいいかもわからなかったら私に訊いてね」
「あ、ありがとう」

 カラカラに乾いた喉からどもった言葉が溢れてくるのを何とか止めようとしてみたが、それは不可能なことだった。自分の体が耳まで熱くなっているのを痛切に感じる。大地が美夜の視線に耐えられなくなるより先に、彼女は担任教師へと向き直った。

「先生、とりあえず三浦くんをどこかに座らせてあげたらどうですか? 机って新しいのが来るんですか?」
「その筈だ。というか、今朝には着いてる筈だったんだけどな、ちょっと確認しておこう。お前らが席替えしている間にやっとくよ。それまで三浦は――川口の席にでも座らせとくか?」
「それは止めておきましょう、席替えしている間に大地が来たら面倒です。すぐに解決するなら、私はどうせここにいるわけだから、私の席に座らせましょう」
「それもそうだな。それじゃあ早速行ってくるから、あとは頼んだ」
「いってらっしゃい」

 いかにも頼りになりそうな学級委員はひらひらと手を振って担任教師をどこかへ行かせた。物怖じせずに大人と渡り合い、あまつさえ指示を出すようなことを言ってしまう同級生の女の子。「そういえば、三浦くんも大地だね」と彼女がクスクス笑ったときに鼻に寄る皺を少年はぽかんと見つめた。

「あそこ、空席じゃないんだ?」
「あそこはね、川口大地ってやつの席なの。だいたい朝は遅れてくるけど気にしないで。一応学校公認みたいなもんだから」

 学校公認の遅刻常習犯ときたものだ。法治国家日本における公立高校の在り方としていかがなものかと三浦大地は思ったが、その湧いた不満を隣に立つ学級委員長にぶつけたりはしなかった。

 それより彼女が彼を語る際の、仲良さげな口ぶりが気になるのが思春期の童貞というものである。努めて平静に納得の表情を浮かべ、三浦大地は促されるまま月島美夜の席へと向かった。

 机の上には1時間目の授業である数学の教科書やノートが整然と積まれていた。開いた筆箱の口から筆記用具が見えている。ブックカバーに覆われた、おそらく何かの文庫本が教科書の上にちょこんと積まれている。小説だろうか、そのタイトルは何だろうと気になったが、無作法に触れる気にはならなかった。

「それじゃあささっとやっちゃおう。オル、手伝って」
「はぁい」
「クジでいいかな。嫌だって人は今すぐに手を挙げて」
「いないよ。おれが作ろうか?」
「じゃあお願い。オルは武田がクジを作ってる間に座席表を黒板に描いて、適当に数字を埋めていって」
「わお、あたしが決めていいの?」
「どうせクジでバラバラになるしね。右上から順番にでもいいんだけど、この方が面白くていいんじゃない?」
「賛成!」

 学級委員長の指示に従いテキパキと席替えの準備が整えられていく。リーダーシップを発揮する少女の有能な様を三浦大地はぼんやりと眺め続けた。

 やがてクジ引きがはじまった。ざっくりとクラス分の数のクジが入った箱をオルと呼ばれた女の子が持って回ってクジを引かせる。流れの中で三浦大地もクジを引いた。

 段取りを終えた学級委員長は教卓で手持ち無沙汰に立っている。そのぼんやりと漂う視線の先には何があるんだろうかと考えながら、三浦大地もまた見るともなしに彼女の周囲をぼんやり見ていた。

 周辺視野でクジの配布が終了しているのがわかる。一番端、最前列の生徒がクジを引き、オルと呼ばれた少女が空になった箱をひっくり返して見せたからだ。

「終わったよ、ヨル。すぐに移動開始する?」

 三浦大地が自分の分の折られた紙を広げると、そこには『24』と書かれていた。黒板に描かれた座席表でその番号を探す。

 最後列だ。悪くない。

 自分の引きの強さに頷きながら、しかし『24』の隣に空白の席が置かれているのが気にかかる。その空欄は窓際の最後列で、空白である意味が三浦大地にはわからなかった。

「よいしょっと、ああ重たい。席替えはもう終わったか?」

 後ろのドアが開いて入ってきたのは一組の机と椅子を抱えた担任教師だった。学級委員長である月島美夜が返事をする。

「概ね終わったつもりでしたが、たった今問題があることがわかりました」
「問題? ねえヨル、問題って何?」
「席がひとつ足りないってことよ、オル。三浦くんの分を先生が持ってきてくれたでしょ? それがこの座席表には載ってない。私も今気づいたの」
「でも、数は描くときちゃんと確認したぜ。合ってるはずだ」

 武田と呼ばれた座席表を描いた生徒が口を尖らせる。月島美夜は肩をすくめた。

「足りないわ。だって、私の分のクジがないもの」
「あ!」

 ひらひらと月島美夜は空の手を振って見せる。武田とオルはバツが悪そうに顔を見合わせた。

「クジも机もひとつずつ足りなかったから、突合させたとき気づかなかったってわけね。以後気をつけましょう」
「はぁい。ごめんね、ヨル」
「おれもすまんかった。イゴキオします」
「イゴキオって何よ?」
「“以後気をつけます”の略だ。今作った」
「何それ馬鹿みたい。それじゃあイゴキオしてね」
「気に入ったなら月島も使ってもいいぜ」
「はいはい。――さてと、私の席はどうしようかな。やり直すのも面倒だし、大地の席をひとつずらして私がそこに座ろうかしら。先生はどう思われます?」
「俺は何でも構わんさ」
「他のやり方がいい人はいる?」
「月島のやることに文句を言うやつはここにはいないよ」

 武田はニヤニヤと笑いながらそう言った。実際異を唱える者は現れず、月島美夜は肩をすくめてチョークを手に取り、空白の席に“月”と書き入れた。

「じゃあ私の席はここね。移動するとしましょうか」
「は~い」

 クラス中が一斉に荷物をまとめて移動をはじめた。月島美夜も教壇を降り、三浦大地の座る彼女の席へと移動する。リーダーシップをいかんなく発揮した同級生が自分に向かって歩いてくるのを不思議な気持ちで眺めながら、三浦大地は移動するため立ち上がって自分の鞄を手に取った。

「三浦くんは何番だったの?」
「24番だよ」
「素晴らしい。コービー・ブライアントの席ね」
「誰だって?」
「知らないの? 神戸牛が美味しすぎるせいで冗談みたいな名前を付けられたバスケットボールプレイヤーよ」
「知らないよ。それ本当?」
「嘘みたいな話でしょ」

 目を引かれる女子と談笑しながら行う移動は三浦大地にとって素晴らしい時間となった。そうした幸せな時間は往々にしてすぐに終わってしまうものだが、彼らの場合は移動した先でも隣同士になるわけである。

 これは、ひょっとしたら運命の出会いのようなものなのかもしれない。

 高校2年生の童貞がそのように考えるのは至極当然なことだろう。彼はルンルン気分で席に座った。

 すると、教室のドアが音を立てて開けられた。

 反射的に三浦大地が視線を向けると、そこにはひとりの男が立っていた。

 ――でかい。

 というのが彼の第一印象だった。そしてすぐに、でかいというよりは長いといった方が的確かもしれないな、と三浦大地は男を眺めた。

 身長にして180センチ以上はあるだろう。ひと目でわかるほどに手足が長い。長身の男はゆっくりと教室に入り、当然の顔で歩みを進めた。

「先生おはようございます」

 その道すがらに挨拶を済ます。彼がこの教室の生徒であるというなら完全な遅刻となるが、それを咎める者はどこにもいない。

 ――学校公認の遅刻。本当にそんなものがあるというのか。

 担任教師は、やはり咎めるようなことはせずに「はいおはよう」と彼に挨拶を穏やかに返した。

「席替えだ。もう決まって移動しているところだな」
「見ればわかりますよ。おれの席はあそこですか?」
「見ればわかるでしょ? ここよ」
「おう美夜、おはよう。――隣の君はどなたかな?」
「その子は三浦大地くん。今日から入った転校生よ」
「転校生ね。三浦大地。へえ、あんたも大地っていうんだ」
「――よろしく」

 その男の醸し出す圧倒的なホーム感にアウェイの居心地悪さを感じながら、三浦大地は固い笑顔でそう言った。男――川口大地は冗談が通じなかったような顔で肩をすくめた。

「よろしく三浦くん。三浦ってことはあれだな、ミウミウだな。美夜の隣に座るにふさわしい名前なんじゃないか」
「その呼び方はあんたの勝手でしょ。ふざけてないで座ったら?」
「はいはい。川口大地、座りまぁす」

 おどけた態度で席につく長身の男を眺めながら、絶対こいつとは仲良くなれないだろうな、と三浦大地は直感的に強く思う。

 それが彼らの出会いであった。

 

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