【小説】ダーツとフリースロー 2.『憤懣やるかたない』


 三浦大地が父である三浦和也から引っ越しの必要性を告げられたのは7月半ばのことだった。

「――決まったよ。ようやく教授になれそうだ」

 母真理恵と並んだ夕飯の食卓で大地は父からそう聞いた。

「あら~やったわね。おめでとう和也さん」
「おめでとう父さん」
「うんうん、皆、ありがとう」

 妻のお酌したビールをぐびりと飲み、和也は大きくひとつ息を吐いた。「しかし、真由には怒られるかもしれないな」

「姉さんが? なんで?」

 素朴な疑問を口にしながら大地はビールを注ぎ足した。ラベルが上を向くように瓶を持っているのはどこかで読んだ接待マナーだ。かわいい息子に接待を受けた和也は満足そうに深く頷き、貫録をつけるための髭面であると言い訳をして手入れを怠っている無精ひげを手の平で撫でた。

「だって、俺が教授選に通ったのって、筑紫大学なんだもん」
「うええ、じゃあ自分の通ってる大学に親父が赴任してくんの? それは確かに嫌だなあ」
「あらあら、それだと住むところも考えないとねえ」
「そうだな、あいつに与えた一軒家を取り上げる形になるかもしれない。その上同じ学部だからなあ」
「同じ学部――」

 最悪だ。

 大地は素直にそう思った。その素直な感想を口に出さなかったのは、このおめでたい日の父と母に気を遣ってのことである。

「最悪だよなあ」

 しかし、和也はそんな大地の様子を意に介さず、あっけらかんとそう言った。「人生万事塞翁が馬、というやつだな。これを聞いたらめでたく第一志望校に受かることのできた自分の努力を呪ってしまうかもしれない」

「真由ちゃん頑張っていたものね」
「筑紫大学は一番ないと思ってたんだけどな。これが人生というやつだな、やっぱり俺たちは縁があるらしい」
「あらあら、うふふ」

 その後繰り広げられた仲睦まじい夫婦間のきわめてIQの低い会話を聞き流しながら、大地はやがてはじまるであろう新生活に向けて思いを馳せた。あるいは希望すれば自分はこの場に残ってそのまま同じ高校に通い続けることも不可能ではないかもしれないけれど、大地にそうするつもりはあまりなかった。

 大地が熱心に考えていたのは、いつ引っ越しになるのだろうかということだった。彼が今通っている高校は現在期末試験後の補講期間となっており、どちらかというと成績優秀な大地にとっては夏休みの助走期間のようなものだったのだ。

 そしてこの夏休みの期間中、彼はアルバイトに精を出そうと決めていた。特別何か金のかかる目標があるわけではない。趣味のゲームや漫画に心行くまで散財したいという欲望はあるけれど、いたずらに浪費させられるという印象をもってしまうソーシャルゲームや関連グッズの類には彼の食指はまったく動かないのだ。

 時間があってやりたいことがないのだから、ただそれを売って金銭を得ておこうと考えていたのに過ぎない。補講期間中にリサーチを済ませ、どうせなら安くない時給で何か面白そうなバイトをやりたいものだと大地はひとり思っていた。

「――ところで、一応確認したいんだけど、真理恵は付いてきてくれるんだよね?」
「もちろん行くわよ」
「よかった。こっちでの仕事も楽しいみたいだったから、もしかしたらと思ってたんだ」
「確かに今の仕事は楽しいけれど、看護師はどこでも働けますからね。こんなこともあろうかと、役職にも就かないようにして働いてるから、私はどこへでも付いていきますよ」
「素晴らしい。研究者の妻の鑑だね」

 和也はおどけるようにそう言った。仲のよろしいことである。そんな風に考えながら、会話に加わることはせず、我関せずの姿勢をしていた大地をその母真理恵が見つめていた。

「大地、あなたはどうするの?」
「俺? 俺にどんなしようがあるの?」
「仮に大地がそう希望するなら、ここに残って同じ高校に通うというのもいいだろう。そのくらいの金は出してやる」
「――なるほどね。そういう選択肢がありますか」

 意外、といった様子の顔を作って大地は和也にそう言った。「まあでも付いて行きますよ。迷惑じゃないならね」

「迷惑な筈がないだろう。それじゃあ再び一家で暮らすことにしよう」

 和也は嬉しそうにそう言うと、ビールをぐびりと飲み干した。そして息子にお酌を要求し、息子はそれに従った。

 こうして三浦一家は再び一緒に暮らすことになりそうであった。その家族の判断を欠席した家族会議で決められた三浦真由は憤懣やるかたない思いをするかもしれないけれど、欠席者に発言権はないのだ。そして子どもにも最終的な決定権は与えられない。そのいずれにも該当してしまう大学1年生の女の子にとってそれは、なんとも受け入れがたい現実であった。

〇〇〇

「ふんまん! やるかたないね!」

 その晩電話口でぷりぷりと怒る姉の相手をさせられたのは大地だった。

 もちろん父和也から教授就任決定の知らせを受けた当初は真由もお祝いのコメントを寄せていた。しかしその就任先が自分の通う学校の自分の進んだ学部であり、あまつさえ自分が今一人暮らしする希望して与えられた一軒家に皆が移り住んでくると知らされた日には、いかんともしがたい憤怒の念がとめどなく湧き出てきたのだ。

 思ってたのと違う!

 そのやり場のない怒りは愚痴となって、注がれた続けた水がコップから溢れるように、真由のキャパシティを容易く超えた。賢い父はそのタイミングで電話を息子に代わったのだ。

 久しぶりに姉の声が聞けるのを嬉しく思わないと言ったら嘘になるが、大地は正直「勘弁してくれよ」と思いながら、サンドバックが殴られることに対して不平を漏らさないように自分の役割を受け入れた。

 これが面と向かっているのであればよかっただろう。大地は姉の愚痴を聞くのが嫌いではなかった。なぜなら姉がエモーショナルなテンションで何かをまくしたてる、その整った顔が感情に歪んでいるのが嫌いではなかったし、愚痴の聞き役がいくら相手をじろじろ眺めたところでそれを咎めるものはいないからだ。

 その恋人でもない限り、綺麗な女性を近くで遠慮なく見られる機会はそれほど世界に多くない。この、明日には脳みその皺から零れ落ちる姉の不満をそそがれる時間は、大地にとって決して不満ではなかった。

 しかし、電話となると話は別だ。真由の声も嫌いではないけれど、視覚情報が与えられないこの仕事にはあまりに喜びがなさすぎる。メモ帳のようなものに意味不明な迷路のような落書きをしながら話を聞いていた大地は、その時間の中で「憤懣やるかたないって感じだね」と口を挟んだ。そして言われたのだ。

「ふんまん! やるかたないね!」と。

 しかしどれだけ不平不満を並べたところで一家の決定は変わらない。究極的なことを言うなら、義務教育をとっくに終えた成人女性は、自分の意志でその家から出て何らかの方法で自分で生活することが可能だからだ。もちろん家の補助なしで。

 それが現実的に選択不可能であることをわかっている姉には弟に愚痴を固めて投げつけるくらいしかできることがないのである。それもまたわかっている弟はその投げ込みに付き合ってあげている。美しい姉弟関係と言えなくもないけれど、弟の方はやや飽きかけていた。

 そこで大地は話題を変えた。「ところでさ、そっちに何かいいバイトあるか知らない?」

「何あんた働くの? こっちに来てから自分で調べれば?」
「できればそうしたいところなんだけど、できれば夏休みの間に稼ぎたいんだ」
「夏休み? あんたいつこっち来るつもりなのよ」
「父さんたちと一緒にだよ。さっさと行って、そっちで働くつもりなんだ」
「――あんた高校に友達いないの?」
「心配してくれてありがとう。正直、あまり多くはないな」
「真面目に答えられても困るけどさ。ま、それならあたしは知らないけど、知ってそうな友達があたしにはいるから訊いとこうか?」
「姉さんは大学に友達がいるんだね」
「正直、そんなに少なくはないわね。あんたも友達100人作りなさい」
「友達を100人作るためにはいったい何人と知り合わなければならないんだろう? 面倒臭いとしか思えないな」
「ハインリッヒ・トライアングル的に考えましょ。1人の親友がいる人には大抵29人の友人が、300人の知り合いがいる筈よ」
「じゃあ10倍として、1000人と知り合うの? そんなに人の名前を覚えるくらいなら1000個英単語覚えた方が人生に有益なんじゃないの」
「そんな教養ある人間みたいなことを」
「だいたい、その何とかトライアングルって何なのさ」
「そんな無教養な人間みたいなことを。ハインリッヒの法則よ。これ、常識だからね」

 ふふんと笑った真由の声はへそが曲がっているようには聞こえなかった。

 その後ネットでハインリッヒの法則を調べた大地はそれが医療の分野で用いられることのある用語であることを知る。

「絶対大学の講義でたまたま知った知識じゃねーか!」

 何が常識だふざけるな、と少年は声に出さずに叫んだ。

〇〇〇

 さて。

 平等に接して良いとされながらも事実上そのような介入の仕方は許されない関係性のひとつとして医師・薬剤師関係が挙げられる。これはもう彼らが保険診療の範囲内にいる限り避けられないことであり、薬剤師が職務を全うするにはそれ相応のネゴシエイト能力を獲得する必要がある。

 優れた薬剤師はタフ・ネゴシエーター要素を持っているものであり、優れた薬剤師になるべき薬学部生はネゴシエイト能力を研鑽する必要がある。そうした意味では三浦真由は優れた薬学部生としての素質があるのかもしれなかった。

 それは彼女が受験生であった時分に遡る。

 真由は自分の家庭が経済的に恵まれている方であることを自覚していた。

 そこでまず彼女は、自分が望めば都心の私立大学薬学部に進学することも可能であることを親に確認したのだった。

 彼女の両親は私立大学薬学部を卒業するまでに必要な学費を調べては閉口したり、薬剤師の年収を鑑みたその決断のコストパフォーマンスを考えては苦笑いを浮かべたりはしたものだったが、結局のところ、愛する娘の希望をサポートする以外の選択肢は彼らに存在しなかった。

 そうした意見の一致を担保した後、続けて彼女は国立大学への進学を示唆した。もちろん両親は歓迎した。いずれに進学するにしてもできる最大限の助力を惜しまない、と。何しろ国立大学の場合の方がとてもお金がかからないのだ。

 こうして真由は父親が所持し、賃貸物件として扱うことで家賃収入を得ていた一軒家の居住権を得ることに成功した。それは彼女が進学した筑紫大学薬学部へ通学可能な立地に建っており、かねてより虎視眈々と狙っていた物件だったのである。

 豪邸の雄大さをしているわけではないけれど、2階建ての母屋のほかに平屋の離れを有し、それなりに広い庭までついている。真由が子どもの時分には歴史の重みを感じるボロさをしていたが、見かねた父が資金を出して母屋を建て替えてからというもの、当時この家に住んでいた祖父母のところへ遊びに行くのがとても楽しくなった記憶がある。

 しかしながら、やがてその祖父母は逝去した。その後しばらくその家に住んだ期間もあったのだけれど、父和也の仕事の都合で結局引っ越すことになった。そして住む者のいなくなった家を和也は賃貸に出すことにしたのである。空き家は劣化するのが非常に早く、しかし大事な我が家を売却する気にはならなかった父親にとっては至極当然な選択だろう。

 その正しさは真由にも理解できていた。実際、彼女はそのとき文句を言いはしなかった。しかしお気に入りのあの家に他人が住み着き、自由に訪問することもできないという事実は、言いようのない不満感を真由に与えるのであった。

「そんなに長く住んでたわけじゃないし、あたしは別にお爺ちゃんっ子やお婆ちゃんっ子ってわけじゃあなかったんだけどね、不思議なもんねえ」

 その経緯を大地に語る際、真由はそのように口にした。「そんなもんかね」と大地は思った。

 そのようにして得た思い入れのある一軒家での一人暮らしを、しかし彼女は取り上げられることになったのだ。憤懣やるかたないのも致し方ないことだろう。

 しかし、このタフ・ネゴシエーター候補生はただ住まいを明け渡すということはしなかった。対価として自由に離れを扱うことを父に認めさせたのである。

 一定の予算を計上させた真由は離れに簡易なリフォームを施し、離れに生活できる環境を整えたのだ。

 和式の平屋は部屋を区切っている襖を取り除くことによって容易に広大なワンルームになった。プレハブのようなパッケージ化されたトイレや浴室が購入できることを調べてみてはじめて知った。ちょうどそのとき熱中していたダーツの、本格的なボードをちょっぴり改造して設置するのも思ったよりも簡単だった。

 こうして自分なりに工夫を凝らして作り上げた離れは真由にとって特別なものとなった。あるいは和也が建てた母屋よりも思い入れが強いかもしれない。建て替えの対象とならなかった歴史を感じるボロ屋だが、床が抜けているわけでもなければ雨漏りするわけでもないのだ。愛着を持ってしまえばそのボロさがかえって可愛らしく感じられるものである。

 友人である佐藤華子や弟である三浦大地がこの離れに入り浸りはじめるのも時間の問題というものだった。彼らは子どもが秘密基地に対するような態度でこの平屋に接した。それぞれがアルバイトで稼いだ金を出し合ってソファを購入したり、ゲームの画面を壁へ大きく投射するプロジェクターを設置したり、気に入った銘柄の酒を購入できる最大規格で常備したりするのは彼らにとって負担ではなく喜びだった。

 大人になりかけの経済力を子どものようなモチベーションに注いだのだ。その結果は推して知るべしといったところだろう。

 高校生の学校がはじまる9月1日の朝、依然夏休み期間中である大学生の三浦真由は、弟大地が登校する様を、エスプレッソ・マシーンで煎れたカフェラテを啜りながら縁側に座って眺めた。

「青春だねえ」

 ぽかぽかとした朝日を浴びる。庭の一部を挟んで向かい合う形になっている母屋の縁側に、その母真理恵が姿を見せた。

 家族として同じ住所に住みながら、彼女たちが顔を合わせる頻度は驚くほど低い。ネゴシエイト能力を駆使して好き勝手に振る舞う娘を咎めることなく、真理恵はにっこりと微笑んだ。

「おはよう真由ちゃん。朝ごはん食べる?」
「食べるたべる! そっちに行くね」
「早く来ないと片付けちゃうわよ」
「はぁい」

 サンダルをつっかけ飛ぶように庭を横切ると、すぐに母屋に辿りつく。滑らかな動きで縁側に上った真由はポーズを取るようにして真理恵に並んだ。

「ご飯はなぁに?」
「フレンチトースト。学校がはじまるあの子が好きだから」
「やった! 声かけてくれてありがとう」
「ちゃんと手を洗って食べるのよ?」

 真由は大きな笑顔をもって返答とした。母と並んでダイニングまで歩く間に、弟のことは彼女の頭からすっかり消え去ってしまっていた。

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