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男ともだち

 半地下のこの店ははたして何という名前だったのか、最初に飲んだのが何ベースで何色の酒だったのか、さっぱり覚えていない。
 そもそもあんまりお酒が飲めない体質なので、背の高いスツールからずり落ちないようにしながら私は足をぶらぶらさせ、ステージの上でさっきから延々MCをやっているバンドを眺めている。なんていうひとたちだっけ? 見たことがあるようなないような気がするけれど、こんなふわふわの頭で思い出せるはずがない。
 私をここに連れてきた男はフロアのどこかに去ってしまってどこにいるかわからない。とても眠い。カウンターに突っ伏したらたぶん眠ってしまう。だから一生懸命体を起こしている。でも瞼が閉じてきそうだ。水どうぞとバーテンがグラスを差し出す。それを受け取った途端、彼の顔が目に入って私はぎょっとした。眠気が少しの間醒めた。
 そのバーテンは先月死んだ男ともだちにそっくりだった。ともだち――といっても正直そんなに親しかったか? まぁ一応何度か遊んだからギリギリ友達にカウントしても許されるだろうなというくらいの男だった。
 そいつが何のつもりか知らないけど、私に形見を持って行ってほしいと遺族に頼んでいたらしいのだ。彼は自殺したのだった。だからそいつのお姉さんは私に連絡してきた。
 彼女は「あなた、弟の恋人だったんですか?」と開口一番私に聞いた。ともだちかどうか微妙なくらいの親密度の相手だから、まして恋人なわけがない。違いますと答えた。お姉さんは「そうですか」と言った。首を伸ばしてこちらを見るしぐさが死んだ男にとても似ているなと思った。
 部屋に通された。思った以上に片付いてお洒落な部屋だった。なんでも好きなものを形見に持って行ってくださいと言われ、なんでもと言われても困るなと思いながら、私はなんとなくトランプを選んだ。本当に普通のトランプで、ただ机の上にぽつんと置かれていたから目についたのだ。死んだ男ともだちが「これを持っていけ」と言っているみたいだった。
 私が帰ろうとするとお姉さんは私を引き留め、片方しかないピアスをくれた。「弟のだけど、あなたに似合うと思って」と言って。
 似合うと言われてもな、と思った。アクセサリーとか、そんなものもらうような仲じゃなかったのに。ピアスはプラチナで大きなガーネットがはまっていて、本物なら結構するんじゃない? という感じで、でも断れなくて持ち帰った。家に帰ると私は鏡を見ながらピアスを左耳につけた。確かに私の赤みの強い瞳によく似合った。でも、なんでこんなものを私に渡したのかわからない。
 私はそいつの部屋から持ち帰ったトランプをぐちゃぐちゃっと混ぜてスタスタと切った。タロットみたいに並べて一枚ずつめくった。トランプだからなんという意味も読み取れなかったし、そもそも私にはカードに尋ねることなんて何もなかった。
 おい何やってんだと言われて突然腕を引っ張られた。私の腕を掴んでいたのはここに連れてきた男だった。
 私はスツールから落ちかけていて、バンドはもう曲を奏で始めている。うん、ああ、いい曲だねとぼやきながらこんなうるさい中では彼にこの声が届くはずもない。
 改めて見ると横顔のきれいな男だった。どこでどうやって知り合ったのかよく思い出せない。私はどうしてこの人と音楽を聴きに――いや、そもそも音楽を聴きにきたんだっけ? 適当に飲めたらどこでもいいみたいな話じゃなかったっけ。
 そろそろ出るぞと言いながら男は私の手をとって引っ張る。水のグラスがカウンターの上で倒れるのが目の端に映る。ねぇ待ってまだ曲が終わってないよと言いながら私は男に引っ張られて店を出た。
 ドアを閉めると店内の喧噪が一気に遠ざかる。男はよろけた私の腕をひっぱってあぶねーなと言う。眠い。あの時のカードの並びには何か意味があったのだろうか。とても大事な報せだったのかもしれないけれど、今となっては覚えてすらいないし、男ともだちのことはもう話題にものぼらない。
 呼び止めたタクシーの後部座席に放り込まれ、隣に男が乗り込んだ。店に戻ろうよ、バーテンが死んだ友だちにすごく似てたんだよ。そう言うと男は私の頭をやさしくやさしく撫でながら、大丈夫だよ、ほんとは死んでないから。死んでないって百回言ってごらんと言った。
 死んでない、死んでない、死んでない、何度言えたかわからないけど、たぶん百回も唱える前に眠気が勝って、私は男の肩にもたれて眠ってしまった。

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