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あなた

 あなたに出会ったのは十一月四日の午後十一時四十四分、いい感じの数字の並びだったからよく覚えている。アパートの住人が夜間にこっそりゴミを捨てる、そのゴミの中に頭を突っ込んで倒れていた。

 このままでは死んでしまうなと思って、わたしの部屋に連れて帰った。八年前に投身自殺した従姉に似ているなと思った。たぶん彼女は死んでから、でっかい鳥に生まれ変わったんだろう。そう思うくらい似ていた。

 渡り鳥のあなたに名前はなく、だからわたしはずっと「あなた」と呼んでいた。フラミンゴとメンフクロウを足して二で割ったような見た目だった。

 意識を取り戻したあなたはわたしに礼をいい、怪我をして休んでいる間に、仲間に置いていかれたのだと明かした。このままでは寒さで死んでしまうというので、わたしはあなたに、とりあえず春までこの部屋に住むことを許可した。大家さんにも承諾をもらった。

 アトリエにしていた奥の六畳間があなたの部屋になった。イーゼルに立てかけたままの真っ白なキャンバスを見て、あなたは「絵を描くのか」とわたしに尋ねた。わたしは「もう描かない」と言って右腕を見せた。事故で肘から先を失って以来、わたしは死んだように生きていたし、左手や足や口で絵を描くという気にもなれなかった。

 ともかく、こうやってあなたとのふたり暮らしが始まった。あなたは毎日わたしのあげた野菜クズを食べ、決まったところでフンをし、わたしの起床が遅れると南国の歌を歌った。あなたの声はオルガンに似ていた。

 クリスマスケーキをいっしょに食べ、すこしお酒を飲んだ日、わたしはあなたに「どうしてわたしに、こんなによくしてくれるの?」と尋ねた。あなたは「それはわたしのせりふ」と言って笑った。わたしたちは『きよしこの夜』を歌い、いっしょに眠った。

 年が明け、一月が終わり、いっしょに大家さんの家で豆まきをして、梅の花が咲き始めた。わたしはすっかりあなたの歌に起こされるのがくせになってしまい、あなたは時々「せわの焼けるひとだ」とわたしを叱った。

 ある日、あなたが言った。

「暖かくなった。もう高い空を飛んでも大丈夫。そろそろ行かなければ」

 わたしは引きとめた。

「どうして? ずっと日本にいたっていいじゃない。どうせまた夏に戻ってくるんでしょ?」

「いいえ、もう同じ国には来ない。それにこのままでは、わたしは自分が渡り鳥だということを忘れてしまう」

 あなたの目はとてもかなしそうだったけれど、強い意志の光が宿っていた。もうわたしではなく遠い国を夢見ているのだとわかった。

「じゃあ一週間……いえ、三日だけ待って」

 三日間、わたしはイーゼルの前に立ち、左手に直接絵の具をつけて、慣れない手付きで絵を描いた。あなたの絵を。あなたはわたしに言われたとおり、羽を広げたポーズで、彫像のようにぴたりと何時間でも止まっていた。

 絵は三日後に完成した。拙いけれど、今までで一番いいものが描けたと思った。この絵を見せて回ったら、きっと世界中のひとがあなたのことを好きになるだろう。そんな絵だと思った。

 あなたは「これがわたし? とてもうつくしい」と言って喜び、冠羽を一本わたしにくれた。

「ではさようなら、絵を描くあなた。朝はちゃんと自分で起きるように」

 あなたはそう言うと、わたしに嘴をすりつけた。それから「ありがとう」とあのオルガンの鳴るような声で歌い、窓から飛び出した。大きな翼を広げて力強く羽ばたくと、あっという間に青空の彼方へと遠ざかっていった。

 終わってしまえばなにもかもが夢のようで、でもわたしの手には冠羽があり、キャンバスにはあなたの姿が描かれている。夢ではなかった。

 あなたはわたしに「絵を描くあなた」と言った。わたしはそれをうれしいと思った。わたしはイーゼルからあなたの絵をどかし、壁にたてかけた。押入れの中から新しい、真っ白なキャンバスを取り出してイーゼルに置いた。

 さようなら。渡り鳥のあなた。やさしくて、真面目で、オルガンのような声のあなた。生きているうちにいつかまた、どこかの国で出会うことを願っています。

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