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「喇ま教」(ラマ教)ー蒙古民族の集落


*キャプション
 満州朝廷保護下の蒙古人
 ラマ僧集落の印(象?)


 高度は、約1000mと聞かされた四方が高い山に囲まれていて、すり鉢状の斜面ばっかりで、田畑は全然なく、切り立った斜面に、くいこむような感じでお堂のような建物や、民家が点在していた。
 満洲国朝延直属で、ラマ教の信仰生活それ一に明け暮れていて、全くの消費生活だけ、生産活動にはいっさい関係がなく、全ての生活物資は、山の下より負いあげてもらって暮している蒙古民族の大集落。
 元寇の昔、日本の朝野をあげて大混乱をまき起こさせたジンギスカンの後エイの一部は、こうした人里離れた奥中で、日々平穏に宗教活動を営んでいたのであった。蒙古民族の名はジンギスカン鍋の名だけでなく、興安嶺の深山でその人達との2日間の出合いがいつまでも貴重な体験として残っている。

 ここで、入隊以来初めて、屋根のある家の中で寝ることができた。
 薄汚く、昼でも暗いじめじめした土間に、アンペラや、干し草をいて寝た。
 夜でも寒くない、屋根のある有難さをつくずく感じた。
 その上に、ソ軍機が真上にきても、又、炊煙をあげても、切り立った斜面に囲まれているため攻撃をしかけてこなかった。

 後から思えば、ここでの2日間の民宿は、下山してからの敵中の強行突破につづく最後の戦闘に備えての、こよなき休憩所でもあったように思う。
 この山に入る前、寸断なく続いていた大雨のため、急な坂道を、河か滝のように流れる濁流にはばまれ、足をひざまで泥の中に埋め、全身ずぶ濡れで、もう気の遠くなるような思いで隊列にしがみついていった。
 私の前を行っていた同じ小隊の兵2名が、大雨の最中に、よたよた横に出たと思ったら、そのまま泥の中にしゃがみこんでしまった。
 「しっかりせい。」と、声をかけただけでどうしようもなかった。
 しばらくして、雨が小降りになってから大きな立木のぎっしりあった林の中に入った。
 そこで、装具を降し、焚火をしたりして休んだが、その時に、例の兵の分隊員が装具も降さず引き返した。
 やがて帰ってきて、小隊長に埋めてきました、と報告していた。
 疲労と寒さの極だったことは分るが、その場合、誰も同じ条件で疲労をしていたが、もうあと30分間皆について行けるか、気力を持たせるか、ということが生と死との別れ目だったようである。

 雨が止み、暖をとり、里心のついた頃、小隊毎に集結し、小隊長より、これからの諸注意について伝達があった。

1  これから行く場所は、高度約1000m(世話部からの地図では、そんな高地は見あたらない。)
2  満洲国朝廷直属の、ラマ教信仰の蒙古民族の大集落である。
3 満語(中国語のこと。)は一切通用しない。通訳は部隊に1名しかいない。
4 性病の多いという情報がある。婦女子には手を出すな。
5 長上と見える人物には必ず敬礼せい。
6 一番大事なこと、そこは、何一つ生産はしていない。
   祭棚の物をとったり、住民の食料には決して触れてはならない。
    必用なものは、満洲紙幣で買うこと。
7 違反者は厳重に処罰される。

 と、初めて行き先の明示、及び事前の諸注意が伝達された。
 いよいよ到着してみたら、その言葉どおり、どこへ行くのにも、人が1人か2人ぐらいしか歩けないような狭い幅しかない山中の路上で、ふさふさした白髪に頭の上に冠のような物をしている品のよい老僧のような人が、若い僧侶を従え、かすみの中から湧き出たように現れ、悠々迫らず、両腕を袖の中で組んで歩いているのに度々すれ違うことがあった。
 法衣の色は、白色以外も見た。どうも、それは、僧侶の階級を表しているようでもあった。
 私達が、歩行を停止して挙手注目の敬礼をするのに対して、その応答ぶりは、まさに人間対仙人、興安嶺奥中の秘境に残した一幅の絵ではなかったのかと思っている。

 さっと、せせこましく、命令どおり機敏に挙手敬礼をする人間に対して、ワズカに頭を前面にかたむけたようにしか見せなかった。何より強烈な印象は、その眼の例えようのない澄み切った美しさと、落ちつき、まるで仙人に出合ったようだった。
 命令が出ていなくても、敬礼がしたくなるような相手の人物像が、いつまでも、まぶたに浮んでくる。
 まっすぐに背筋を伸ばした巨体は、微動だにせずそのままの姿勢で、ゆったりと、霞の中に消え去っていき、ようよう霞のはれた足もとだけが、くっきりと色濃く浮きたって見えていた。

 後日聞いて驚いたことは、最長老でも、せいぜい50才ぐらいのものだとか、閉ざされた社会で、風呂もなく不衛生、飲料水は、天水と山から出る水だけ、しかも、同族同志近親結婚が何代も続けば、当然のことながら、血が古くなる。山の下からの負いあげて運ぶ食料品にだけ頼ることからくる栄養の慢性的不足、朝夕の厳しい冷え込み、どれを一つとりあげても、長寿に結びつきそうな要因はなさそうである。

 蒙古人の子ども達は、こういった仙人達に出合うと、私達以上に、うやうやしく、両腕を左右の袖の中に入れて組み、その組んだ上に頭をのせたまま、ゆっくりと横に移動して仙人達に道をゆずっていた。
 さすが『礼の国』、と思ったら、子ども達の『礼』はそこまでどまりだった。
 山水が小さな腐ったような雨桶みたいな木を伝って出てくる所が至る所にあった。
 朝夕を問わず、飯盒や水筒を持った兵が水汲みの列を作っていた。
 そこへ、蒙古人が、かんぴようや、ふくべ(ひょうたんのような植物の実で、乾燥したら固くなる)などの容器をかかえて水を汲みにくると、日本兵は、彼等に順をゆずっていた。

 日本兵の列の近くにきた蒙古人の子どもに、黙って煙草を一本やった。すると、その子どもは、さっと私の飯盒をとると列の一番前に進みでて水を汲んでくれた。
 感謝の気持ちでしたのかと思っていたら、そうでもないようだった。



 昭和49年1月1日の朝、私の子どもといっしょに円光寺に年始の挨拶に行った時ふと、この時のことを思い出し、先代の貫道老方丈さんにお話しした。
 そうしたら、顔面一杯に笑をたたえられた方丈さんから、「ほう、いいことをしたね。いいことをしたね。」と、まるで我がことのように喜んでいただいた。
 「私は、学校で、学問としては、ラマ教というのは知っていたが、そんな山奥での暮しは初めて聞いたよ。」と言われ、やおら右手を挙げて私の右の方の空を指さされた。
 「ここ、天竺テンジク、今の印度だね。ここでお釈迦さまのおときになった仏教がね。」とつづけられ、そして、その指先を、ぐっと私の眼の前まで動かされて止め、「ここ中国からね。」と手を降された。
 「ここからは、生活とか、土地の習慣にマッチした仏教が次々と生れてきているんだよ。我々は、それを亜流と言っているがね。ラマ教も、この亜流の一つなんだね、もとは同じでも、色々な変遷があったんだね。」と、再び手を挙げられた。
 今度は、ぐっと、私の左の中空に指先を移され、「朝鮮でまたひと休みしてね。そこからやっと日本にきたんだがね。天竺よりここまでね。今と違うから難行苦行だったんだよ。もうこのことは誰も知っていることだがね。」と結び、その手をたたまれた。
 おそらく、老方丈さんの眼の中には、釈尊の教えのたどった道を私に教えながら、東洋の地図をくっきりと描いておられたのではなかろうか。
 思いがけない老僧の満面の笑顔とご説明、正月早々またとない心よい年明けだった。
 こんなに喜んでいただけるなら、もっと早く(復員直後だったら申し分ない。)このことをお話ししていたら、何か聞かれても的確なご返答もできたし、また私も、もっとくわしくお話しできたかもしれないと後悔している。



 この山をあとにして出る時に、在満の召集兵(満州国にいて召集になった兵のこと)が、「俺、『さそり』がこわくて最初は中々おちおちと眠れなかった。」と言っていた。
 屋根の下はこんなに有難いものかと、私は、久方ぶりに、ぐっすりと寝込んだ覚えがあるが、なまじ、変な『さそり』なんかの知識のないのもよかったかもしれない。


田尻貫道方丈さん
昭和50年3月19日(木)遷化 齢83歳
    3月21日(金)お通夜
同門の川合町 浄光寺 斎藤 道親 方丈さんの打鐘を合図とし、導師 長久町 瑞巌寺 渡辺 宝山 老方丈さんにより、厳粛に挙行。
衆、大伽藍に満ち溢れ、濡れ縁にたたずむ。
きざはしに立つもあり。尚、且、残余あり境内に並ぶ。

    3月22日(土)葬儀
            導師 仁多郡亀嵩町 総光寺住職 千葉 哲然老師
昭和50年4月20日(日)49日の法要
           導師 宝山 方丈さん
           白足袋、白草履、緋の法衣、その色いとも鮮明。

昭和56年4月19日(日)第26世 古道百淳大和尚 50回忌
           第27世 大庵貫道大和尚 7回忌

月日のたつことの早いこと。
「いいことをしたね。いいことをしたね…。」昨日の如く、まぶたに浮ぶ。

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