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17.昭和20年8月28日 武装解除、その後のソ軍兵による蛮行

 朝方、「本日、兵器検査を行う。」との命令が通達された。
 私にとっては初めての兵器検査、どうしてよいやら分らないが、古兵に習い、帯剣は灰でこするやら土の中に刺し込んで磨くやらして、磨きに磨きあげた。
 小銃の銃身には1回も油など通したことはなく、油布で、外側だけしか拭いたことがなかったから、細部に至っては悪く、すすが固まったようになったところもあった。
 他の古兵連中の真剣なその手入れの態度から、度々聞かされていた兵器検査の厳しさが察知された。
 ロートルでさえ物も言わずに必死で磨きあげていた。
 班長や小隊長が、「準備はできたか。」と、2つ3つの小銃を手にとり、引き鉄(引きがねのこと)を引いてみたり、小銃を逆さにして、銃口より銃の中をのぞいて調べたりしていた。

 その頃、屋外にいた兵が、急にどんどん家の中に入ってきた。
 8月25日の戦闘以後絶えて久しい飛行機の爆音が聞えてきた。
 上空を見上げたら、開戦してこのかた1回も見たことはなかった友軍の、満州国軍の軍用機がただ1機、超低空を飛んでいた。
 その満軍機を追跡でもするような形で、いつも悩まされ続けてきたソ軍の戦闘機が1機飛行していた。その2機のコンビは1列縦隊のまま、ジャライトッキの町の上を2回、3回と低空で旋回飛行のあといずこかへ去ってしまった。

 様子が少しおかしいと誰も感じはしたが、手入れをしたはずの小銃や筒の手入れをもう1度やり直ししたり、前庭に並べ直したりしていた。
 間もなく、至急全員広場に集合とのこと、帯剣1本の軽装、駆け足で集合した。
 全員の集合が終ってから、大隊長より、「日、ソ、支、英、米の5か国間に、去る8月14日、停戦協定が成立せるにより、勅語の奉読式を行う。」と訓辞があった。
 なんのことやら、納得もゆかぬままに『停戦の勅語※』なるものを直立不動のままに拝聴した。


※停戦の勅語
この時の「停戦協定」という言葉を誰も疑ってはいなかった。
もともと、作戦地域そのものが、昭和14年に起ったノモンハン事件のすぐ北上に位置する場所だった。その時に日ソ間で締結された「停戦協定」を思いだし、この度も、そのようだろうと考えていた。
大隊長も「停戦」と思っていたなら別として、この時に兵に対して言った「停戦」という言葉は、事態の急激な変化による心理的な動揺を防ぐ上からいっても、2度とは聞くことのない大詭弁だったと、あとになってから思っていた。
また、あの時に拝聴した『停戦の勅語』(実際は敗戦の宣言)そのものも、帰国してから偶然1度読んだが、はっきりと大敗戦とは表現してないあいまいな勅語になっている。



 式のあと、直ちにもとの宿舎に帰り、「停戦の大命」(天皇陛下の命令という意味)によって武装を解除し、兵器は一切これを返納すべきことを指示された。
 当初の訓辞にあった、「停戦協定」というのだから、ノモンハン事件などを勝手に連想し、気分は至ってのんびりしていた。武装を解除して、帯革(馬革などの分厚いバンドのこと。これは上衣の上に帯剣をつけて使用していた)1本の身がるになった。
 召集兵は、召集解除になってここから帰宅(本年入隊の現役兵は現役免除。日本に帰りたい現役はいっしょに帰られる)、1部の現役はそのまま隊に帰るらしい。ひどいのになると明日にでも新京に移動するらしい、などと、出てくる情報は楽観論ばかりで、誰の顔ものんびりして明るくのびやかに見えていた。

誰1人として、祖国日本が敗戦も敗戦、大敗戦、無条件降伏ということなどつゆ知らず、ましてや、3か月後の異国シベリヤへの民族の大移動など、全く予感すらもでるような雰囲気ではなかった。

 昼食後、師団司令部前の広場に、兵器返納ーーー(これは巧妙な言葉のあや『大命により兵器返納』、大命、天皇の命令、それには絶対的服従。もし、この武装解除に際し、単に「各人の持っている兵器をソ連側に渡してしまえ。」とでも通達されていたら、107師団の終末はどんなになっていたか分らない。結局は、ソ連側に、磨きたてのピカピカの兵器と弾薬を、幕末の江戸城無血開城と同様平穏に渡した。その引き渡したことを「返納」という言葉一つで、いささかの不安も動揺もいだかせなかった日本軍側の主脳陣の採配はすばらしいものだったと、これもあとから痛感したことである。)ーーーの使役として、磨きたての小銃を3挺肩にして、兵器返納の隊列に加わった。

 武装解除は、日本軍だけの一方的なものであって、輸送用のトラックをはじめ、107師団の兵器、弾薬が種類別に地面の上に山積されていた。
 将校は拳銃を提出しただけで、軍刀も双眼鏡もそのままだった。
 下士官以下の帯びていた軍刀は、まるで薪のように、荒縄や紐などで束ねてあった。一部の下士官は軍刀の返納を嫌い、竹刀の中に隠したり、布を巻きつけて枚にしたりして持っていた。
 兵器に付随していた皮革製品の類は、兵器ではないので返納しなくてもよかった。
 兵に対しては、帯革1本を各人毎に許可され、また、擲弾筒や砲車などについていたバンドの類は外して、袴(ズボンのこと)のバンドにしたりしていた。

 夕方、装具の中味は、食料品だけの軽量で、師団司令部の前に集合した。
 そこで、これから3日間の予定で、ここから16里ある興安(老爺廟オウヤビョウ)まで行き、そこからは汽車に乗って新京に向かうのだと伝えられた。

 とどのつまり、この新京に向かうということが、そもそも、ソ連側にだまされた第1号であった。

 ところが、日本軍の非武装部隊が集結してから、武装したソ軍兵が日本軍を監視するような態度をとっており、(当然のことではあるが、敗戦とは思っていなかったから、少し変だと言い合っていたこともある)日本軍の将校を全員1個所に集合させた。
 将校が集合したあとの部隊の指揮は下士官がとるとのことが知らされた。
 集合のため、隊より出ていく将校は、銃殺されるらしいという噂が隊内に流れていたためか、全くその顔色がなかった。
 日頃、部下から憎まれていたらしいある将校は、下士官に、「貴様、男なら自決しろ!」と、兵の前で殴られているのもいた。
 やがてのほど、全将校が部隊に復帰した。
 ほっとするひまもなく、すぐに夜間行軍に移った。

 いく多の戦いに生き残った兵士達に、第2の苦闘は、この夜の行軍の間から身に降りかかり始めた。
 戦時捕虜などとは夢にだに思ってもいないのに、この夜からは捕虜としての待遇を受けていた。
 皇軍の1兵士として、「大命によって」、天皇陛下よりお預りした兵器を、「返納」したのだという自覚は持っていても、我が身は囚人同様、あるいは、動物以下の惨々たる憂き目に接することになった。

 粗野でどう猛なだけのソ軍警戒兵のなすがままの暴挙、自分達、警戒兵の都合によって休憩・出発は自由自在、列から離れたり遅れたりすれば、馬を飛ばして駆けより、持っている銃で殴りつけたり、列の中に入っては、腕時計などの貴重品を没収するなど、その兵の質の粗悪さは、どこに出しても、まず、ひけをとることはなかろうと思う。
 ソ軍兵が、病弱者もおかまいなくせきたてるため、とうとう、行軍の間、あちらで1人、こちらで1人と、無下に戦友を路傍の草むらや、高粱畑の中に置きざりにせざるを得なかった。
 自分の方から『分隊員に迷惑をかけてはすまない』という気持ちから、「このままここに置いてくれ。」と、暗い畑の奥に腹ばって消えていった兵もいた。
 誰もでそれを引き止めようとしたが、本人達は、既に心中には期するものがあって「おせわになりました。あとはよろしく。」と、弱い声ながらも、はっきりと別れの挨拶を言っていた。
 たった1回だけだったけれど、野営することになった地点の直前になって、置いてきた友軍の負傷兵をソ軍の警戒兵といっしょに探しに出かけ、畑の中で寒さにふるえながらうずくまっていた兵を発見し、無事に隊まで連れてこられた。こうして興安までたどりつけた数少ない幸運な兵もいた。(興安は野営の最終地だった)

 行軍中、列の中に入り込んだソ軍兵、手には大型の拳銃を構えていて、下士官のような階級の上の兵(襟につけている階級章の星の印が多いのが上官と気づき、それらは高価な私物を隠し持っていると思っていたようだ)ばかりを列の外に出し、2人がかりで、両手を挙げている兵の私物探しをしていた。
 ソ軍兵のなすがままに、武器のない日本兵は無抵抗で、腕時計、万年筆など、各人の持っている貴重品は彼等の眼にとまり次第に掠奪をほしいままにされた。
 その上、食べるべき食を与えられず、眠るべきを起され、休むべきを酷使され、「こんなことなら、なぜ、武解したのか。」と、憤怒と無念さに満たされる機会が日を重ねるにつれて何回ともなく訪れた。
 戦闘で破れほころび、あるいは、血のにじんだ被服を身にまとい、日に焼け、そして垢にまみれ、疲れ果て、手足の真っ黒な部隊は、ただ歩けばよいというだけのものではなかった。
 歩きながら炊事関係の仕事もかかえていた。
 行軍にかかると、休憩、食事など、万事、日本兵とはその対応の異っているソ軍兵に合わせて行動しなければならなかったから、どうしても無理な点が生じていた。行軍中の食事を一つとりあげても、彼等は、炊餐のための準備は一切不用であった。行進中の馬上で、背中の袋(現在、日本にもあるナップサックのような背負い袋。しかし、日本で見るようなきれいな物ではなく、薄汚なく、とても食料品の入っている袋だとは思えない。不潔な感じのする背負い袋だった)から、パンを取り出して噛り、下馬した時に水を飲んで食事は終了していた。
 これが日本軍の炊餐となると、このような調子にはいかなかった。
 「食事をとれ。」という命令を受けてから、飯盒に水を汲んだり、燃料を探してきたり、かまどを作ったりして、やっと、火を焚きはじめるのであるから、ソ軍兵のように手早い細工はとてもできない。
 そのために、「ベストラ!」「ベストラ!」(早く、早く、という意味)と、出発をせきたてる警戒兵の勤務時間帯に合わせるために、歩きながら燃料になるような木の枝や枯れ草までかき集め、休憩の時間になったら、すぐに飯盒の下を燃やした。「出発。」の号令が伝わると、まだ煮えていない飯盒に棒を通して2人で持ち、あいているもう片方の手では、燃えている薪を飯盒の下にあてがいながら歩いたこともあった。

 行軍中に、用便のため列外に出たり、休憩のあと、出発のための集合に遅れたりしたら、その場で射殺された。
 死体はそのまま放置しておかねばならなかった。それにしても、ソ軍のやり方はひどく、「命に従わない者は射殺。」と、それだけしか覚えてはいないようだった。
 ソ軍の部隊が駐屯している地点を通過するときには、もう、ソ軍側の軍律といえるものはなにもなかった。行軍中の日本兵の隊列の中へ、多数のソ軍兵がどやどやと流れ込み、誰かれの区別なく、全く無差別に、日本兵の襟首や腕をつかまえたりの腕力に訴えるかと思えば、拳銃をふりかざして武力に訴えて日本兵を列外に出し、身体検査をしては、何もかも没収していた。
 日本兵とて、戦場となった地区での住民からは家畜をとりあげ、畑も惨々に荒している。
 しかし、それは生きていくための食料品の輸送が、ままにならなかったという内部の事情があったからである。
 日本軍の兵は、ソ軍の兵ほどに、心の貧乏まではしていなかった。
 鍛えあげられた、世界でも屈指の大強盗集団、乞食軍団。その名はソ連兵。

 先行した友軍の部隊で、略帽の中に、(儀式とか、外出用に着用した正帽に対する略帽のこと。正帽では活動がしにくい。略帽は、茶褐色の野球帽といった感じである)腕時計を隠していたのが発見されたらしく、私達、後続の兵を、ひとりひとり丁寧に頭を押さえたり、帽子をとりあげたり、叩いたりして検査していた。
 私達は、ほとんどの兵が「日の出山」で貴重品類を処分していたので、没収されても心残りがするようなものは少なかった。万年筆1本にしろ、武器を返納して一般人と同じ、兎みたいになっている日本兵に、戦闘中と同様に牙をむきたてて狼のように、獲物に噛みつくソ軍兵の行動が、一つ一つしゃくにさわってしようがなかった。

 負傷兵も、最初の頃は輜重車シチョウシャ(馬で牽く荷車のこと)に乗せて、馬で牽いていたが、翌日、29日には、ソ軍の駐屯地にさしかかった時にその馬を取りあげられてしまった。それからは、重いその車を、人の力で押したり牽いたりして行った。やがての程、今度はその車も没収されてしまった。車上の負傷兵は、治癒したのでもないのに強制的に各人のもとの小隊に復帰させられた。
 歩行の困難な負傷兵だから車に乗せてあったのに、車から降されたらどうなるだろうか。
 私達、負傷していない兵でさえも、隊列に遅れまいと思って歩くのがやっとであるのに、これらの、自力歩行不能者は、小隊にとっても相当な負担になってきた。
 「捨てておいてくれ。」とか、そのあまりの苦しさからか、「殺してくれ。」と訴えるが如く言っている兵もいた。
 それでも、手を取り、足をとりして、行けるところまでは連れていった。
 行進をせきたてるソ軍の警戒兵のため、とうとう、あちらこちらと、血のにじみ出ている繃帯に身を包まれていた、見る眼も痛々しいそれらの傷ついた同胞を、置きざりにしてきた。
 病弱者といい、負傷兵といい、その結果においては同じだった。
 通過する満人の集落では、軒なみに大小の赤旗が翻っていた。赤旗を手にしたり赤い腕章をした満人が、自分達が戦争の勝利者のような顔をして、日本軍部隊の行列を嬉しげに見物していた。


※【終戦の勅語】…正しくは【終戦の詔勅】
以下は第3巻134p~140pに添付されているもの


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