私たちは共同体に馴染めない。
「いつメン」。それは私がかつて最も欲していた存在だった。みんなで学校帰りにプリクラを撮りそれをインスタに載せ、それを見た他のクラスの男子から「話しましょ~」とDMが来て、そこから始まる恋愛のあれこれを恋バナとして変換しいつメンの中で共有する。家族でも恋人でもないけど、れっきとした帰属意識をお互い共有している運命共同体、それがいつメン。
学生時代のクラス、部活、サークル。人の集まりの中にいた経験はいくつかあるけれど、それでもいつメンは出来なかった。私が要件以外の話を相手に持ちかける勇気が出なかったのが大きいが、他の原因もある。人間という生き物は得てして、共同作業をしていると他人にピリピリする瞬間が多く、気がつくと不信感が募っており、もはや仲良くなるどころの騒ぎではなくなっているケースが何度もあった。
それで言うと、いつメンと言うには些か緩やかな繋がりであったが、複数人の集まりのうち比較的雰囲気がよかったのは「個人競技のスポーツクラブでの友人」と「志望校が全員違う塾の友人」たちだった気がする。
彼ら彼女らと争ったり協力する必要はあまりないので、関係性の間に緊張が走ることもなかった。
そこで最近SNSを始めて、そこでいつメンを作ろうと試みた。ネット上で繋がるだけなら、特段ピリピリする距離感になることはないだろう、と。
結論から言うと、それは甘すぎる見通しだった。ネットではある程度自分を偽れる分、ふとした瞬間に現れる本性と今まで見せていた偽りの自分が、不協和音を奏でることによって相手に不信感を与えることもあるし(要するに猫を被っていてもバレるというだけである)、また匿名かつ半ばランダムで繋がってしまう分、現実世界では関わることもない(なんなら関わらない方がお互いの心の安寧を保てるであろう)人同士が交わって喧嘩になるケースも私は何度も見かけた。
そもそも、「距離感を保ってSNSをしよう」というのがセオリーなのに、そこで運命共同体を作ろうというのがそもそもの間違いだった。
そんな私を見かねた友人が「共同体に無理に入らなくてもいいと思うよ」と言葉をかけてくれた。元来人間というのは集団生活を営んでいるので、一人でご飯を食べることさえ「孤食」と揶揄される。こんな世の中でも、ひょっとしたら多様性のあおりを受けて変化していくのだろうか。
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