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2020年の春

どうしても、書きたくなって、つらつらと文を打ち始めるのだけれども、
書いては消し、書いては消し、次第に下書き保存がどんどん溜まっていった。

今回ばかりは投稿する、と決めて書いている。
今年まだ1回しか投稿していないだなんて、何と恐ろしい!が、そんなこともあるさと、また今日も書き始める。

今日は、桜がまもなく散り、緑が増えた4月。
コロナウィルスが流行っている、4月。
そんな日々に見る夢がなんだかおかしい。
先日はとうとう、夢の中でコロナウィルスに感染してしまった。
夢の中のわたしはもがいていた、どうしようもない、でもどうにかしなきゃ、と。。
とある日の夢では、渋谷の大きなビルが突然崩れて、たくさんの犠牲者が出て、てんやわんやしていた。

…夢というのは本当に不思議で、不思議で。
ここ最近起きたら毎日、あぁ、夢で良かったと思う夢から醒める。
一番ちかいことばは不安なのだろうか、そんな潜在意識が、夢に現れているのだと客観視し、
夢を記録することも忘れない。
そんな日々である。

そんな、不安な現実と夢を行き来しながらも、
こころが晴れること、うれしいこともたくさんあったんだよ、実は。

春がきたこと。

桜が、徐々に徐々に咲いて、気づけば満開!
と思えば、今はあっという間に緑がかかってきて、新緑が始まることにもうきうき。

そんな桜並木を毎朝、ランニングシューズを履いて駆け抜ける!
それだけで、生きた心地がして。

桜が満開になるにつれて、あぁ、あと少ししか見れないなぁと悲しい気持ちになるのが毎年のこと。

でもそれって、今を生きている桜に失礼じゃなかろうか?と思ったのが今年のこと。

そんなこと、走りながら、ぼーーーっと考えてるのだけど
ふと思い出したのは、村上春樹さんのエッセイ。
―「走ることについて語るときに僕の語ること」
この文は、読んだ瞬間にメモをとった。それくらい、言葉が響いたのだと思う。

終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際には大した意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。
終わりがあるから存在に意味があるのではない。
存在というものの意味を便宜的に際立たせるために、あるいはその有限性の遠回しな比喩として、
どこかの時点にとりあえず、終わりが設定されている。
ー「走ることについて語るときに僕の語ること」171頁、村上春樹、2010年

咲いては散る桜。
走っても走っても、ゴールにたどり着けた気がしない自分。
人が生きるということ。
哲学的だけれども、自分自身にとって確実に、一つのテーマとなっているのだと思う。

この春は、もう一つうれしいことがあったのだけれども。
それはまた書くのが楽しみになるように、あたためておくんだ。

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