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8 潜っていくべきマリアナ海溝

 ふいに、かつて仲の良かった人が活躍しているところを見たりして、やっかんでしまうが、俺は一体何をしたいんだ、とここにきて思うのである。それには、ロールモデルが必要なんだよ、と思う。自分が追い求めているものがなんなのか、それはまだこの世に存在していないもので、同時に、この世に既に存在しているものでしか僕の思考は造られていない。この世に既にあるものの組み合わせが創造である。その時、どんな能力を活かすのか、作品を作ったり演技を作ったりする時に、生活と地続きである方がいいのか、とにかくそういう方向性が定まらない。でもそれは自然なことでもある。方向性というのは、常に変化していて、然るべきなのである。変化している、ということが、つまり「変化している」ということなのである。自分が「よし、変化させよう」と思うことによって何かが変化するのではなくて、ただ身を任せる時にそれが変化になるのである。それはむしろ意識して思考を止めて「留まろう」とする感覚に近いとすら思う。
 僕は言葉に頼りすぎている。言葉で思考ができると思っているけど、本当はそのスピードを超えたくて、こうして文章を書いている。文章を書きながら、自分が今頭の中で何を考えているのか、その不定型なイメージを、一旦仮の形に置き換えている。そして、表現とはそれ以上の存在にならないものだ。表現とは、常に、不定形を一旦形にすることだ。いつまでも一旦の形だ。でも、本当はイデアを志向している。自分の頭の斜め45度くらいの中のポッカリ浮かんでいるその理想が、頑張ればかなり漸近的な形でこの世界に姿を表すんじゃないか、そういう希望を持って取り組んでいる。でも絶対にそれができないこともどこかではわかっている。それでも、足掻く。
 こうして書いているとまるで自分が書いているんじゃないみたいで、それこそが僕の求めていることである。自我があまりにも邪魔すぎる。僕はさっき家で飼っている猫を、同じ目線に寝転がって眺めていたんだけれど、やっぱりこの猫に自我はない、というふうに思った。同時に、これこそが生きている、それを表現している、ということだと思った。生きていることで、生きていることを表現していた。つまり逆を言うと、執筆も、絵描きも、ジャグリングの演技も何も、全ての人為的な表現は、どこまでいっても、生きることそのものと一致することはない、と思った。それでも僕たちは、人間、ホモ・サピエンス的な社会性、文字、言語、規範、法、マナーとかなんとか、そういう、「現代の人間」的な、何かを背負っているからこそ、生きているということそのものと、自分の思考を一致させることが極端に下手になっている、ということを思った。猫を見よ。言葉を使う限り、あるいは絵の具を使う限り、いや、時間というものを意識している限り、「生きること」は近似的なものでしか表せないというその限界が、全ての人を苦しめているんじゃないか、という気がする。同時にそれが生きがいになったりもする。僕もそれが大好きなのだ。その限界に抗うことが大好きなのだ。つまり電気回路の抵抗のようなものとしてそこに存在しているんだ。それがあるから光が灯るのだ。言葉と生きることが永遠に一致することがないからこそ、みんなこぞってその不可能性に抗う摩擦を楽しんでいるのだ。同時にそれが、「ただ生きる」という以外の表現方法を持ってしまったが故の苦しみなのだ。
 僕は今、ただ何も考えないでこの文章を打っている。「何も考えない」と形容したくなるような状態こそが、一番「思考」に近い。これもまた近似値でしかない。でも一番近いという直感がある。
※※※
 やっぱり僕は一点突破型で人生を生きるのがいいんじゃないか、という気がする。自分が得意なことにただただ取り組んでいくのがいい。他の人の成果への嫉妬は「自分が不得意なことをいとも簡単そうにうまくやっていること」への焦り、不満である。だから深く考えないでいると、どうもその不得意な部分を伸ばそうと頑張ってしまう。でもそれはあまり得策とは言えない、だって、不得意なんだから。それより、今自分が興味のあること、好きなこと、得意なこと、これをやってるときはマシだ、愉快だ、と思えることを人一倍伸ばしたらいい。それは得意なのだから。好きなのだから。それにこそ取り組んだらいいじゃないか。例えば僕は英語や中国語をもっと頭おかしいぐらいやったらいいのである。好きなんだから。もっと気が済むまで絵を描いたらいいのである。僕は今気が済むまで文章を書こうと思っている。自分が本当はやりたいとおもっていること、一瞬、パソコンも、スマホも閉じて、ぼんやり周りを眺めているときに、すぐにわかるあの欲望。あ、姿勢が悪いからなおそうとか、歌い出したい、とか、逆立ちしたい、とか、笛を吹きたい、ギターを弾きたい、絵を描きたい、猫を眺めたい、この感覚を置き去りにしていると、他人に何か成果を淡々と見せつけられた時に、フクザツな気持ちになっちゃうのである。自分が慢性的に不満だからだ。
 自分が不得意なことを得意な様子を見せられたら、とにかくさっさとホメるのがいい。だって、すごいから嫉妬しているのだもの。すごいなぁ、と素直に言えばいい。あとは、自分の好きなことをとことんやる番である。それがいい。自我を消すのがいい。
 でももっというと、こういうふうに他人との比較で何か自分のやることを決めているうちは、全然思考の変革みたいなことも起きない。見方を変えるには、やり方を変えないといけない。取り組み方を変えないといけない。それは、「言語を使うのをやめる」みたいなそういうレベルの見方の変革である。言語を使うのをやめるのだ。そう考えたらどうか。例えば「絵を描くこと」は、絵を描くことで解決する。「絵を描くことそれ自体が思考である」と気づかないといけない。天才とは、行為自体で思考している人のことだろう。純粋に、それに何も挟まない、ということである。お菓子作りの天才は、お菓子作りで思考している、少なくとも、お菓子作りで思考することを人の何十倍もしている、ということだろう。
 書くことについていうのなら、僕は今、「書くことで書いている」という感覚がありありと感じられる。まぁ、キーボードを打っているだけなんだが、キーボードを打って、脳内に発生している音声言語を文字言語に変換する、というプロセス、とにかくその行為を行う時間を増やしたい、という願望を叶えている。「書きたい」という欲望を、間髪入れずにそのまま実現させている、そういうこと。集中というのはゾーン、行為と思考が一体化している状態である。そこに、余計な思念がない、というのは、つまり一切の企図がない、ということでもある。こうしたらいいかもしれない、という目標のもとで何かをしている、という感覚がない。あらかじめ用意した思考のもとで何かをしているのではなく、ただ、発生しているものを、そのまま捕まえるということである。そう言う表現をする時間をいちいち保つのが大事である。こういうふうではない表現系もたくさんある、いや、そういう「よく考えて造られた」ものの方が、人目に触れることが多いのは重々承知しているのだが、そのどちらもがないといけない。それが人間性の回復であるとすら思う。
 見直しすらしない文章をひたすら書くのもいい練習だと今は思う。そこに苦労がない、ということが重要である。流れている、でも、そこには確固として、追い求めている何かがある。ドライブ感がある文章。何か、その文章が走っているその先に、もう一つ、大きく光り輝いて、太陽みたいに、ブーンと向こうに、マリオカートのトゲトゲコウラみたいに走っているものがあって、それに向かって一心不乱に走っている感じがする、というものである。そこには、自我の発露が一切ない。ただそれを追い求めている、という感覚、それだけがそこに写し取られているのがいい。そういう行為には、素人もプロも何もない。ただ、追い求めている感覚があるなぁ、という気持ちよさがあるだけ。いいとか悪いとか、そういうことがない。ただ、そのドライブ感に身を任せるのが気持ち良い、そういうのがいい。
※※※
 とは言っても、楽しい文章が書けたらいいな、という欲もそこにまたある。そこが難しいところである。楽しい文章、みたいなことを考え出すと、途端に他人が入ってきてしまいがちなのである。でも覚えておくのだ。
 追い求めているものは、常に自分の中にある。
 他の人との比較で自分が追い求めるべきものを決めているとき、すでに気迫で負けている。追い求めるものは、自分の中から引き出すものだ。10分に一回は思い出したらいい。
 追い求めているものは、常に自分の中にある。
 これだけ覚えておけば、もう明日から困らない。少なくとも、「僕は何と戦ったらいいんだろう」みたいな茫漠とした悩みを持つことは無くなるだろう。戦うべきものはいつでも自分の中にあって、それはいつだって絶対に、絶対に、である。楽しいものなのである。楽しい競争相手を自分の中に探すのである。
 ううん、ここまでくると、その方法まで書いて確かめたくなってくる。今3736文字で、もう少し頑張って書いてみる。

 好きだ!

 という感情がその羅針盤だ。そうだ。
 例えばジャグリングの演技を作っていて、「あの人と比べたら自分は何やってるんだろうな、あぁ」みたいに思ったとする。僕はしょっちゅう思っている。でも、そういう時に、いいのである、今進めていることを堂々と見つめてみて、その中に自分が好きだ、と思えることの種が発している光を見つけるのである。それが掘るべき鉱脈、鍛えるべき筋肉、潜っていくべきマリアナ海溝である。それ以外のことを一切考えないでいい。兎にも角にも、何かいったん形にしたら、それを見直してみると、一箇所ぐらい、「あ、ここがこうなってくれたらもっと面白そう」という部分が絶対、絶対、絶対あるのである。そしたら、それに気づいた感覚が消えないうちに、また別の形に置き換えてみる。広げてみる。実際にやってみる。それが練習だ。
 本を書くことだって同じことが言えそうである。全体としていい箇所悪い箇所が目につくとしたって、この部分、いいんだよな、この感覚がいいんだよな、と言う箇所があるはずである。そしたら、そこに集中するのである。そこを伸ばしているうちに悪いと思っていた箇所までもイキイキとしてくるかもしれない。
 まず行為が先立っていて、その成果を自分で味わってみて、悪いところじゃなくて、いいなぁ、これ好きだなぁ、と思う箇所を見つけるのだ。そしてそこに、もっともっと潜っていくのだ。オールラウンダーになれたら嬉しいかもしれないけど、少なくとも僕には無理だ。そしてたぶん、すべての人にとって、それは無理だ。
 ただ好きなことを伸ばしている時間は楽しい。その時間を少しでも多く感じるために「練習」をするのである。そこに、「行為自体」以外の思考はいらない。

 もし明日また練習をする気があるのであれば、この文章を読んでいいと思った部分を、さらにゆっくりゆっくり、地道に大きくしていくための修行として、文章を書くことである。

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