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第11回 取り出せ☆脳内映像

2019/12/11日記

 朝早く、7時に起きようと思ったら(別に早くないよね)アラームとして設定しておいたBBC Radio4の音量が小さすぎて、起きたのは8:30だった。とりあえず、もそもそコーヒーを買いに。コーヒー豆を切らしている。本当はバイクで近所の豆屋に買いに行ってみようと思っていた。調べたら今日は定休日。残念。セブンイレブンのカフェラテを買う。コンビニコーヒーの中では、セブンコーヒーがいちばんうまい。

 帰ったら玄関先を少し掃除。昨日の夜準備しておいた机上のパソコンに向かう。今日やる予定の翻訳がきたので、下読みやメール返信。

 そして本を読んでしまう。締め切りのあることに取り組んだほうがいいのだ。でも陽の当たる部屋でぼうっとしていると、やっぱり少しぐらい本を読もうか、という気分になっちゃうのだ。しょうがないやつだね。
 最近、ちょっとテーマを絞って読んでいる。坂口恭平の著作を片っ端から読む。それと、やっぱり一番好きな作家である(主にエッセイが好きなのだが)村上春樹の翻訳に関する著作を読む。もうすでに双方合わせ、Amazonの古本で10冊以上買い込んでいる。何冊かを並行して読む癖がある。読むのが遅い。気分や事情に合わせて読む本が変わる。朝は坂口恭平のハードカバー、出先では村上春樹の翻訳本の新書版、なんか内容があんまり頭に入らなくてもいいや、という時は、全然関係ない文庫本(こういうの)。その合間合間に、別の本も読む(こういうの)。坂口さんのツイッターで面白い、と出ていた『シュタイナー入門』も読み始めている。シュタイナー教育のシュタイナーさんである。テーマを絞って、と言っている割に、全然絞れてねぇわ。

 僕は自分を、多動症、ADDみたいなもんだと思っている。(診断してくれる人がいれば、きっとそう診断される)常に新しいことを志向している。興味がないことには3秒で飽きる。新しい風をいつでも頭に吹き荒らしたがる。

 で、それを解決するためにどうしているか。

 何か刺激を摂取してやらねばならない。

 でもその刺激は、受動的なことに限らない。本を読むとか、映画をみるとか、どこかに行くとかだけが能じゃない。自分の今欲しがっている質感に100%合致しないことが多い。
 そうではなくて、自分で何かを考える。
 これ。元気がある時は、これが最良の自分を飽きさせない方法である。

 「考える」とは、それをなんらかの形で外部化するということである。決して、脳内で映像を再生することではない。自分の身体器官が知覚できる形にする、ということである。だから、普段遣いの「考える」というあやふやなワードと峻別するために、何か別の言葉で言い表してもいいかもしれない。坂口さんは、それを「作る」と表現している。僕だったらどう言おうか。機械的な言い方がいいかもしれないな、と思う。「手を動かす」。でもこの言い方も、比喩的な意味の方が比重が大きい気がする。「手を動かせ!」と言われて手をわちゃわちゃ動かし始める人がいたら普通怒られるよね。
 でも僕は、馬鹿馬鹿しいけど、「手をわちゃわちゃ!」でさえ、いいと思うんだ。「脳内映像」が、頭の外に飛び出した、というそのことが一番大事だと思うんだ。
 書いても、描いても、踊っても、ジャグリングしても、自分自身がそれを視覚や触覚で認知できる形になったことに変わりはない。自分に対する刺激に変換される。それが考えることの楽しみ。書くこともジャグリングをすることも、「想像を自分に対する刺激に変換する」という意味ではなんら本質的には変わらないよ。

 公園に行った。ジャグリングをちゃんとやりたいと思って。毎日、一時間くらい公園で過ごしている。平日の昼間なので、子供と、おじいちゃんおばあちゃんがいる。よく話しかけられる。今日も、おばあちゃんとその孫らしき子供に話しかけられた。僕はそれが全然嫌いじゃない。そういうのは嫌いだ、という方も結構いるとおもう。僕は嫌いじゃない。場合によってはちょっと嫌だな、という時もある。恥ずかしい、というか、なんか馬鹿にされているような気分になってしまうんだね。でも今は、そういうの、ない。むしろnobodyになれることを喜んでいる。褒めないでくれ、褒めないでくれ。ジャグリングをしていることなんかなんでもない、とそう思われることの方が心地よい。それでいい。

 公園から、コワーキングスペースヘ。一瞬、どこか桜木町のカフェとかで仕事しようかとも思ったがやめた。そういうのは気が散るだけ。わかってるんだけどね。それをやれば、気分がいい。でも、やっぱり、やめた。コワーキングスペースに「出勤」する、という自分なりの縛りを常に持とう。それでいいのだ。それがいいのだ。「無意識にとりあえず自分をそこへ流してしまえる予定」を、まず設定せよ。それから、逸脱するやり方を考えよ。本当に自由である、とは、自分の縛り方を知っていて、縛られるべきでないとき、思い切り自分をぴょんぴょん跳ねさせることができること。僕はまだまだそこから遠い。ほれほれ。

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