2011年 春 原発反対

1か月前の今日、3月11日2時46分。

東日本を大地震が襲い、それから間もなく津波がくる。

 津波は、東北から福島原発を襲う。


 停電になり水道の水も止まる。

我が家は井戸水で通してきたので、発電機さえあれば水には困らず、逆に噂を聞いてやって来た人に水を配った。

 家中の物が壊れ寝る所もままならない状態の家から、トレーラーハウスに住む娘の家に家族全員で避難し着の身着のままで一夜を明かす。

ロウソクを灯しての食事は、全員が無事であったというだけでありがたい気持ちになった。

 でも、やっぱり、それは天災だけに留まることは、許されなかったんだねぇ。

「オイ、福島原発に大変なことが起きてるぞ!」という夫の声を聞いた瞬間、私は、

ついに来たかー!と、腸(はらわた)が痺れるような絶望に襲われた。


 私は気が付いた時には、原発ゼッタイ反対。だった。

しかし、それを口にした時、

「何で?」と聞かれ、説明すればする程危険人物のような目で見られることとなった。

 日々の暮らしは、雑事は、良くも悪くも人を追い立て日常の煩雑な思考で心をイッパイにしてしまう。

 説明しても聞く耳を持たない者に対して面倒になり諦めの気持ちになった。


でも、不思議なんだよねえ、地震の起きる前地震によって原発が大変なことになる。と色んな人に言い出していた。

 大きな事業を始める手はずになっていたが、何もしていないのにステンレス製のミニチュア自転車がバラバラになっていたのを見て、(あー、これは出発出来ないな)と思った。

 3月に入ると夜中に何度も目覚めるようになり(3月に入ったからだな)と思った。

それは、昔からお彼岸である3月とお盆の8月におかしなことが起きるというか体調や気持ちが変なことになってきたからだ。

2001年のお彼岸の時、私の中で何かが起きた。

それは、具体的に言葉に出来ないのだが、身も心も置き所のない不安定感、不安感という言葉にすると(そーんな、簡単、単純なもんじゃねぇよ!)という感じ。

それが、10年後に味わう筈だったことのようだ。

だから、今回の地震で原発のことを知ってもワシの心は壊れないですんだんじゃないかと思う。

私の原発への否定の気持ちは、本や雑誌を読んで出た結論だったのか、

広島長崎に原爆が落とされた時の話を始めて聞いた時のショックに端を発していたのか。

 原爆の話を始めて見聞きし知ったのは、小学校低学年だったと思う。

それから1週間位眠れなくなり身の置き所のない恐怖の中に居た。

 東京大空襲の話も耐えきれなかった。

その時に、本当の平和と安全、信頼と安心があれば贅沢も進歩もいらないと思った。

 その気持ちは変わらず持ち続けてきたが、原発に反対しても何も変わらない変えることは出来ないんだと諦めかけてきていた。

 機会があれば原発反対(とハッキリとは言ってはいないが)の集会に出続けてきた。

そこで聞く話や説明は、世の中には出てこないものばかりだった。

 世の中の人々は、国やマスコミ、一部の権力と金をつかもうとしている人間によって“めくら”にされ“つんぼさじき”に置かれている。と、私は思った。

 恐ろしい。と思いながら、それを口にすることは、自分が排除されることになると私は口を噤んできた。

 一人で居るのが怖いという娘の家に一人残って、毎晩、考えた。祈った。

心から祈った。

「万が一、福島原発が最悪のシナリオを向かえないですむことになれば、私は自分に出来る最善の努力をします。

 私が見てきたこと、知っていると思われることを、自分や家族、仕事を守ろうとして封印することを止めます。

 拙い言葉ですが、精一杯話します。伝える努力をいたします。

どうか、どうか、力をお与え下さい」


 今朝、小出裕章氏の貼り付けをした。

彼は「あらゆる意味で、原発は、最悪の選択だ。

即刻やめるべき、いや、やめなければならない」と言っていた。


 同感だ。


これを書いている時、地震がきた。

パソコンが打てないくらいに揺れる。

危ないので、見直ししないで載せる。


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