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「わたしのお母さん歩けへんの」-重度障害の私の出産と子どもの歩み-

半世紀前に母が書いた原稿のリライトです:

<出産のきっかけ>
 障害程度一種一級(小児まひ)、両下肢完全まひの私が子どもを産み育てるということは、本人はもとより周囲の者たちにも不安がありました。度重なる人工流産の手術に産婦人科を訪れるのは耐え難い苦痛でした。W病院の待合室には、大きなお腹をして幸せそうに見える人ばかりでした。夫に抱きかかえられている私を何事かとじろじろ見る人もいます。ここに意を決して連れて来てもらったのは、物を食べる時にむかつきを覚え、食欲がないので内科で診てもらったら胃炎とのことで、栄養剤の注射などを受けていたのですが、その月、あるべきものがないので心づいたのです。診察を受けると、やはり2か月目ということでした。私は「産めないのでしょうか、一人欲しいのですけど。」と医師に言いました。しばらく黙っていた彼は「いいでしょう、月に一度、診察にいらっしゃい。」と言われました。私は急に自分で決めたことに少し興奮していました。育児に関する書き物や、ミルクの宣伝用パンフレットなどをもらって、帰りの車の中で夫にそのことを話しました。「僕たちで決めても君のお母さんはどう言うか分からないし、面倒を見てやると言われれば、産むことにしたらいい。」と言うので、帰ってから母に妊娠していること、産めるかも分からないことなどを話すと、「私が元気な間だったら育ててあげられるだろう。」と言ってくれましたので、私も安心して子どもを産む決心をしました。育児は胎教からと育児書を読んだり、曲がっている体でも出来るだけ姿勢を正しくしたりして、お腹をあまり圧迫しないようにして仕事をつづけました。それから昼食後は30分でも、お天気のいい日は日光浴をするようにしました。食事も摂らねばと思うのですが、ご飯のにおいをかぐとむかついてきて、2カ月ほどつわりに悩まされました。

<出産についての疑問>
 2回目にW病院へ行った時に、「うちの病院は万一の時の設備がないから、第二日赤のT先生を紹介します。そちらで出産してください。」と紹介状を書いてくださいました。私は日赤の先生にいろいろ聞いてみようと、疑問に思っていることを箇条書きにして持って行きました。1.私のように骨盤の狭い身体で子どもが順調に育つかどうか。2.背骨が曲がっているので奇形になったり障害を持ったりしないかどうか。3.帝王切開を必要とするか。などです。でも、それに対する答えは得られず、先生は苦笑しながら「そんなことは心配することはないでしょう。」と言われただけでした。半信半疑ながら、少し安心しました。「入院予約だけしておいて、7~8か月ぐらいまで今までのW病院で診てもらいなさい。」と言われたのでそのようにしました。
 ちょうど5カ月目に入った時、W先生は明るい顔で夫に「もう大丈夫ですよ。これまでもたないかと心配していましたが。」と言われたので、思わず夫と二人声を合わせて「ありがとうございました。」と礼を言いました。5カ月目に入っても小さいお腹なので、犬の日に夫の母がきて腹帯をしてくださる時も「ほんとに、やや子がいるのかいな。小さいお腹やなー。」と言われました。でも、日が経つにつれて、ピクンピクンと動くのを感じると、お腹の子どもが愛おしくて、お風呂に入った時など、お腹をさすりながら子どもに語りかけました。どうぞ五体満足で生まれてきておくれ、お前は私の分身、私の歩めなかった分を丈夫な足で歩いて行っておくれ、私はお前を欲しくて産むのだからこんな不具の母を恨まないでおくれ、と祈るような気持ちでした。母も、赤ちゃんに着せるものや、お布団、オムツなどを楽しそうに揃えてくれて、私は可愛いものを涙の出る思いでうれしく見ました。8か月ぐらいの時少しむくみがきて、お塩を制限するように言われました。

<いよいよ出産>
 予定日より20日も早い7月25日朝8時、私は京都第二日赤産婦人科の分娩室の手術台に乗せられていました。「もう産まれますよ、がんばってね。」と看護婦さんの声。手術台の下の方に足を踏まえるところがあったが、私の脚はダラリと力なく両側に垂れ下がるので、手術台の両側から2人の看護婦さんが押さえていてくださる。手だけ吊り輪のようなものにつかまった。T医師は大柄な男の先生で、大きな手で力いっぱい私のお腹を押してくださる。悲鳴は出すまいと歯を食いしばっているのですが、思わず大きなうめき声を出してしまう。心の中でお念仏を唱え、どうぞ無事に生まれますようにと祈りました。「いきんで!ホラ、もっと、もっと!」と先生と看護婦さんから声をかけられるのですが、ぜんぜん力が入らないようでとてももどかしい思いがしました。長い時間が経っているようで、「早く生まれないかしら。赤ん坊は大丈夫かしら。お腹を切らないで産むのかなぁ。」と気が遠くなるような気持ちでした。急にグッと息が詰まるかと思った瞬間、「あぁ可愛い小さい赤ちゃんだ!」と看護婦さんの声と同時に「ギャーギャー」と泣き声を確かに聞いた。「あ、生きて生まれてくれた」と思わず先生たちに「ありがとうございました。」と礼を言いました。両手ですくうようにして看護婦さんが「ほら、女の赤ちゃんよ。」と見せてくれました。私は女の子を望んでいましたので、よかったとうれしく思いました。

<育児の苦労>
 体重2,500g、身長48.5cmの小さい痩せた赤ん坊でしたが、泣き声は大きく、どうにか保育器に入れられずにすみました。私は35歳で高初産なので体の回復が遅く、10日目に退院しました。私は母乳で育てたかったのですが、なかなか乳首に吸い付かなくて飲まないので、哺乳瓶に入れて飲ませました。しかし量が少ないので体重の増え方が悪く、ミルクを足すように言われ、だんだん人工栄養に切り替えていきました。やはり未熟児すれすれで生まれたせいか、何かにつけて弱く、口内炎ができたり、臍帯ヘルニアでおへそを押さえたり、便の出が悪くてマルツエキスを飲ませたり、こより浣腸を3日に上げずしました。育児書と首っ引きなので、夫から「そんなに神経質になるな。」と𠮟られたこともあります。私どもは遅くまで仕事をしていて、いざ寝ようとすると起きて泣き出し寝ないので、よく夫が抱いて揺すりながら寝かせてくれました。
 それでも生後4,5か月ぐらいにはお座りも出来、体重も標準に近づきましたが、離乳食はほとんど食べずでした。生後5か月の時、母が急に鼻血を大量に出してそれが胃の中に溜まり、吐血したので胃潰瘍と間違えられて精密検査のため大阪の病院に入院するはめになってしまいました。昼間は夫の母が手伝いに来てくれますが、やはり遠慮がありますし、私は朝少し早起きをして洗濯をしておき、干すのを手伝ってもらいました。子守をしてもらっている間に少しでも仕事をして、食事ごしらえもしなければならなくて、忙しい毎日でした。冬場だったので、お風呂には夜寝かせる前にして、ベビーバスにお湯を取り、夫に子どもを支えてもらいながら私が洗って二人がかりで入れました。もう寝てばかりもいませんので、昼間はベビーバスの中に座布団などを敷いて子どもを入れ、そばに置いてあやしながら仕事をしました。移動させる時、それを引っ張って行けるので便利でした。時々、癇癪を起こして泣きわめくのですが、負ぶったり抱き上げて歩いたりしてやれないので辛い思いをしました。

<幼児期の母親への気持ち>
 生後1年目、保健所に最後の診察を受けに行きましたら、発育も順調で異常なしとのことでした。ポリオの予防接種も出来て、ポリオに罹る心配がないのを私はとてもうれしく思いました。這う時期は短くて、生後1年2か月目に初めて歩きました。1人で外に出て行かないように、戸口と仕事場の入口に柵を付けました。それ以外は、遊べるように部屋を少し広くしてやりましたので、親も子も邪魔されずに済みました。時々外で子どもの声が聞こえると戸口に飛んで行き、覗いているのがかわいそうでした。お天気のいい日は戸口の前にゴザを敷いて日向ぼっこをしながら遊んでやりました。2歳ごろから子ども用の便器にまたがって排便もするようになり、オムツの洗濯も日増しに楽になりました。
 大人ばかりの世界に閉じ込めておくのは子どものためにならないので、早い目に保育園に入れようと夫に相談し、保育園を探して電話をかけてみましたが、乳児園は年齢が行き過ぎ、保育園は満たないということで、申し込みだけしておいて、次の年に2歳9か月目に入園させました。子どもの足では歩いて20分ほどの所で、送迎は夫の役になりました。私どもの仕事は友禅染めの型を作るトレースという業種で、図案の上に透明のビニール板を乗せて別紙に描き取る仕事で、朝から夜まで机の前に座り詰めにしていなければなりませんし、神経も使いますので、夫は送迎が良い運動になると喜んで通っています。
 家と園との連絡のために、「おたより帳」というのがありますので、私は自分の事情を書いて頼みました。3歳になった間なしに初めての運動会が行われました。その中で、「おかあさんといっしょにおどったら」というフォークダンスがあるのです。おけいこの時はおばあちゃんでいいと言っていたのに、いざ当日になると、泣いてどうしても踊らないのです。みんながお母さんと手をつないで行くので、自分もそうしたいのに言えないで泣いているようなのです。この時は、本当に障害者の親の辛さを痛いほど感じました。外出の折など、母の私が負ぶわれて、自分は歩かされるのでヤキモチを焼くこともありました。今にきっと分かってくれるようになるだろうと心の中ですまなく思いながらも、私は決心していました。例え障害を持つ親でも、親は親、毅然とした態度でいよう。子どもの質問にはごまかしなく説明をして話して聞かせようと。
 障害を持っている親は子どもに対して卑屈になり、機嫌を取ったり必要以上に甘やかしたりしがちですが、これはいけないことだと思います。子どもは親を尊敬するどころか、後できっと親を見離す結果になるだろうと思うのです。私たち夫婦はそんなこともよく話し合って、一貫した我が家のしつけをしようと思っています。おかげさまで子どもが素直に伸び、私の体のことも理解してくれるようになり、友達などにも「私のお母さん、病気で足歩けへんの。それでこんな車いすに乗らはるの。」と説明しています。
 保育園では月に一回参観日があるのですが、父や祖母ばかり行くのが不満らしく、「みんなはお母さんが来るのに、うちはお父さんばかりでつまらない。」と文句が出ます。なるだけ行ってやらなければと思うのですが、段差のある建物、狭い教室に車いすで入って行くのが考えてもおっくうになってしまうのです。しかし、こんなことで子どもの気持ちに影響を及ぼしてはいけないと思い、夫に自家用車に車いすを積んでもらい、出席するようにしています。幸い先生が理解を持っていてくださる方で、何気なく気を遣ってくださいます。こんな時でも車いすを見慣れない子どもたちがそばに寄って来て、「おばちゃん、どうしてこんなのに乗っているの?」「足歩けないの?」「へんなくるま。」などと口々に言うので、私はそれにいちいち答えてやります。子どもは正直で分かってしまえばそれなりに理解してくれます。子どもを通じて知り合ったお母さん方と話もしますが、他の人は何かしら間隔を置いているのが感じられます。これからは障害者の親もどんどん増えていき、子どもが健全ならば一般社会と同じ生活を強いられるのですから、例え障害者の親であっても矛盾なく行動できる社会になってほしいと思います。
 買い物に出かけても、段差や狭い通路、階段等は意欲的に生きたい私たちに無言の圧迫感を覚えさせます。来年は子どもも小学校に入学します。またいろいろと突き当たりながら、子供とともに成長していきたいと思っています。この頃は自分の寝床もたたんだり、出かける時は車に荷物を運び込んだりしてくれるようになりました。ほめてやると何でも喜んでします。絵を描くことも好きで、そばに来ては何か描いています。月に一回はお医者に行かなくては過ごせなかったのですが、去年あたりからだんだん減って丈夫になってきました。ここまで来たのも母や夫の助けがあってのことで、私の育児などとおこがましいことは言えません。ただ、子どもとの人間としての心のふれあいを大切にしながら、やさしい心を持った子どもに成長してほしいと願っています。

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