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リソース管理ゲーム、システムシンキング、無政府資本主義の実生活への応用

 永続的な態度や嗜好の形成という付属的な学習のほうが、綴り方の授業や地理や歴史の授業よりも、はるかに重要なことがしばしばある。将来にわたり根本的に人を左右するのは、そうした態度なのだから。

(ジョン・デューイ『経験と教育』)


 クレタ島で三人の男が言い争っていました。
 A「わたしは仕事が大好きだ。わたしは嘘つきクレタ人ではない」
 B「いやAは嘘つきクレタ人だ。こいつは俺と同じで仕事が嫌いだ」
 C「いやBこそが嘘つきクレタ人だ。こいつは仕事が大好きだしわたしも仕事が大好きだ」
 さてこのなかで正直者が一人だけいます。それは誰でしょうか?(答えは文末)

 どうもこんにちは、お仕事大好き安田鋲太郎です(・ω・)ノ ちなみに上のクイズは本題となんの関係もありません。
 いやほんともう仕事嫌すぎて。で、せめても精神的代償、夏のセミのようにばりばりばりばりばりばりブログやnoteを書きたいと思ってるんですが、相変わらず、書くということについて真面目に考えようとすればするほど書けなくなる悪癖が続いているので、今回は敢えて軽い話題でいきます。 「Legend of Keepers Welcome to the Dungeons Company」という2021年発売のSteamのインディーズゲームについて。


 いまこのゲームのプレイ時間を見たら50時間となっており、けっこうハマっているほうだと思う。
 このゲームは、まさにDungeons Companyの名のとおりダンジョンの経営者となって侵入者を撃退するという、それ自体は「影牢」シリーズとか「勇者のくせになまいきだ」とか「ダンジョンメーカー」とか昔からあるジャンルだが、リソース管理ゲームとして非常によく出来ており、従業員(つまりモンスター)の雇用・訓練・福利厚生や、罠の購入と増強、プレイヤーの化身たるマスターの強化などを、限られたリソース(主に金、血、涙の三種類)でやりくりするのが主なゲーム内容となっている。

 しかし、いまリソースは「主に金、血、涙の三種類」と書いたが、実際にはあらゆる要素がリソースだとも言える。たとえば【徴税官】というイベントでは、侵入者の血のほかにマスターの血(つまりHP)を代償にお金を得ることが出来るのだが、この場合はマスターのHPもリソースといえる。マスターのHPは徐々に回復してゆくので、中級プレイヤーになると満タンにしておくのは回復力の無駄、死ななきゃそれでいいことに気付くはずだ。

 また、このゲームは週単位で進むのだが、モンスターや罠の強化にも一週間かかるので、こまめに強化するよりもある程度お金を貯めておいて一度に強化したほうが、浮いた時間を他の行動にまわせる。つまり残りターン数も貴重なリソースなのである。これも中級にならないとなかなか気付かず、強化の機会があるたびについちまちま強化したくなってしまうのではないだろうか?

 余談だが、筆者は子供の頃「ドラクエⅢ」に悪戦苦闘していたのだが、友人にこうアドバイスされて目から鱗が落ちたことがある。
 いわく「お前はちょっと金がたまるとすぐ武器を買おうとするけど、我慢してもっと貯めて、次の街へ行ってから強い武器を買おうとか、そういうふうにしたほうがいい」
 おお、フロイディアン的な現実原則(快楽の引き延ばし)!

 どういうことかというと、武器の強さがたとえば「ひのきのぼう」→「こんぼう」→「どうのつるぎ」→「てつのつるぎ」→「はがねのつるぎ」と段階的にあった場合に律儀にワンランクずつグレードアップしてゆく必要はないということだ。いや初代ドラクエの頃はそれでもよかったのだが、ⅢとかⅣになってくるとパーティメンバーも増え、買うものも武器のほかに鎧だの盾だの兜だのあれこれ増えてくるのでちょいちょい間をスキップしたほうが同じ獲得ゴールドなら結局強くなるのである。

 また、薬草をぽんぽん使うのはきわめて非経済的で、できるかぎり回復魔法や宿屋を利用して「うまく儲けが出るように戦わなければならない」、と澤野雅樹が喝破している(『人はなぜゲームするのか』所収「商人トルネコと魔物たちの経済学」。下記noteで触れています)。

 *

 スティーブン・ジョンソンやラフ・コスターの議論を踏まえるならば、まさにこういった思考が人間の認知能力に与えるプラス効果は計り知れない。実際、リソース管理ゲーム的な思考とシステムシンキングにはきわめて親和的なものがあるということについては、けっこうあれこれ書いている。

 加えて言うなら、最近またアナルコ・キャピタリストであるデイビッド・フリードマンの『日常生活を経済学する』というひそかな愛読書を読み返していたのだが、ここに見る、日常生活のあらゆる局面を経済的に読み解いてゆこうという発想もまた、リソース管理ゲームやシステムシンキングと深いところで共鳴し合っている。
 フリードマンの著書は、目に見える現象を規定している、内部のパラメーターの相互作用を見抜く観察眼を養う。それを応用して僕が思いついたのは、たとえば次のポストだ。

 のかあ、と言っているのは炎上対策で実際には僕が考えた話である。
 これをなんでわざわざ経済学的に記述する必要があるのか、とフォロワーさんにも聞かれたが、つまり嫌がらせや奇行にも(本人が意識しているかどうかは別として)ある種の戦略があり、それは経済学的に記述したときにわりとクリアになる、ということのひとつの試みである。

 もっとも、こうした考えには反発もあることは承知している。人間関係やさまざまな感情(とりわけ愛情)を含む現実の人生を、まるでゲームや金勘定のようなものだと捉えるのは利己的かつマキャベリズム的であり許せない、というわけだが、私見ではそれは短絡というものだろう。ここでその議論を深掘りするつもりはないがこういうことだ。つまりヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーが、

 統計的手法というものはむしろ、意味のある出来事から偶然を取り除いてしまう。夏の夜、灯火に集まる蚊の群れを眺めてみると、その一匹一匹の欲望や飛行経路や運命や破滅はそれぞれ別々だという気持ちになる。

『病因論研究』

 と述べたのをパラフレーズして言うと、人間の選択行動や感情に統計的法則が見出されたとしても、決してひとりひとりの人生から意味や重さが失われはしないのである(下記参照。「病因人間論」は第3章でヴァイツゼッカー思想について考察した)。

 たしかに日常生活をリソース管理ゲーム的、システムシンキング的、市場経済的に考えることは、ある種のハッキング思考、「器用にやること」の薦めであり、愚直な感情に捕らわれた破滅の美をよしとしない、そういう思想であることは認めよう。しかし僕は、こうした思考を誠実で心優しく傷つきやすい隣人にこそ薦めたいのである。

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 ……なんて言ってるけどようは、ゲームで遊んでるということに、なんかしらの価値づけをしたいという我田引水というか牽強付会というか、そういう面はあるかも知れない。が、けっこう僕は本気で以上のことを信じている。

 子供の頃〝ファミコン・シンドローム〟が起こり、PTAでも子供のゲームのやりすぎが何かしらの発育上の悪影響を与えるのではないか、と危惧し、実際にゲームを制限する家庭がほとんどだったが、確かに視力だの運動神経だの学業だのへの悪影響が完全にゼロだったとは言わないものの、案外と効用のほうが大きく、60代以上の人がPCを専らWGIPの真実に目覚めるために使っているのに対し、50代ならAmazonでストーンズのCDが買えるし、40代なら大抵のスマホのアプリがぱっと見で使いこなせるのはひとえにファミコンで遊んだおかげなのである。このことをスティーブン・ジョンソンは次のように書いている。

 かれらが学んだのは、ある特定システムに内在する個別のルールだけじゃない。あらゆる複雑なシステムに直面したときに適用できる、抽象的な原則を学んだのだ。ビデオ録画の方法を知っているのは、市場のあらゆるモデルの説明を暗記したからじゃない。ある技術を調査して探索するための一般則を学習したからで、その一般則は目の前にどんなビデオデッキを置かれても役に立つのだ。

『ダメなものは、タメになる』、太字は安田による

 さて今回はこのくらいである。
 結論としてはこうだ。よく作られたゲームをしよう。そのさいこの記事で採り挙げたような本、システムシンキングや経済学的発想からも示唆を得て、現実生活のさまざまな局面に活かしてゆけるような観察力・思考力・判断力に結びつけてゆけたら、それこそ〝愉しい知〟La gaya scienzaではありませんか?
 それではまた(・ω・)ノ


 【クレタ人の問題の答え】
 正直者はB
 仮にAを正直者だとすると、BとCは嘘つきなのでCの「Bこそが嘘つきクレタ人だ」が正しい指摘になってしまい成り立たない。
 またCを正直者だとすると、AとBは嘘つきなのでBの「Aは嘘つきクレタ人だ」が正しい指摘になってしまい成り立たない。
 Bを正直者(AとCは嘘つき)とした場合のみすべての発言が成り立つ。
 
 なお論理パズルが苦手な人向けの簡単な解法としては「仕事が好きな奴なんかいねーよ!!!」ということで、AとCは自動的に嘘つきになります。
 なんつってな(・ω・)



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