ゲーム、衝動、誘惑

 初期ポリゴンゲーム、あるいは部分的にはもっと昔のトップビューRPGの頃の記憶か――ともあれはじめて「それ」に触れたとき、少年はストーリーによって指定された町だの洞窟だのといった目的地には目もくれず、どこまでもコースアウトして地平線を目指した。
 だが、すぐに目に見えない壁に阻まれ、それ以上進むことが出来なかった。また手近なものに対して破壊ボタンを押し続けても、対象物はお決まりのエフェクトを繰り返すならまだいいほうで、たいていは物自体に触れることすら出来ない、完全な無反応だった――村人は幽霊のように主人公の剣をすり抜ける。あるいは村人と接している時、主人公が幽霊化されているのか?(そういう意味では早々と村人殺しを実装した『ウルティマ』はめちゃくちゃ画期的だった)
 少年に与えられた自由はまやかしに過ぎなかったのだ。世界は彼を受容していない。

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 だがその不自由さ、物語の本筋への収束性こそが、ディスク内に構築された限定的世界であるに過ぎないゲーム世界の本質的不自由さを覆い隠してくれるヴェールなのであった。
 ストーリーに同一化することによって、プレイヤーはあたかも自ら選んだかのようにゲームマスターの用意した順路をなぞる。書き割りも裏に回ろうと思わなければ立派な風景である。
 そのようにしてゲームマスターの用意したダンジョンに潜り、NPCと会い、敵と戦い、「正しく冒険している」うちは、ゲーム世界の本質的不自由さを忘れていられる。この見事な逆説。
 そのことに気付いた時、少年はすでに青年となっていた。

 しかし、謎を解くという作業は、ぜんたい楽しいものだろうか?(中略)廃墟を見て誰もがそれを元どおりに再建してみたいと思うわけではないだろう。むしろ、もっとぶちこわしてみたいと思う人のほうが多いのではないか。(中略)破壊の衝動ははじき出され、建設の要求だけで自分を一本化しないと用意されているシナリオに足並をそろえることができない。それは、なんだか機械の衝動のように思える。

畑中佳樹『電子小説批判序説』所収「挑発する廃墟」


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 さらに時は流れ、ゲームははるかに「自由」になった。
 完成度の高いオープンワールドゲームは、重厚で洗練された同一化しやすいメインストーリーが用意される一方、広大なマップと数多くの副次的なストーリー、ミニゲームを備えている。
 プレイヤーは大いなる使命をほったらかしにして、たとえば畑で農作物を作ったり、釣りをしたり、衣服や髪型をカスタマイズしたり、賭博に興じたり、NPCを口説いて親密になったり、珍妙なコレクションをしたり出来るようになった。またアップデートと称する世界拡張や、他のプレイヤーとのゲーム内交流は「限定的世界」という要件をも部分的に乗り越えるものだった。

 だが、何かが違うのだ。
 「やっぱりこれじゃない」、と心の中の少年が永遠のないものねだりをしている。
 だがちょっと待てよ、これ以上何を求めるというのだ?
 見よ、お前がやりたかった破壊行為だって、物理演算で見事に、ブロックでも死んだモンスターでも際限なく斬ったり蹴り飛ばしたり出来るようになったじゃないか。地平線まで――とはいかなくとも、かなり好き勝手に歩いて、そのつど地形の変化や動植物、天候や昼夜の入れ替わりまで鑑賞できるではないか。野草を採集したり、そこらへんの鹿だの鳥だのを撃って毛皮を売ることだって出来る。気温によって愛馬の睾丸が伸縮するゲームすらある(ジョークゲームではなく)。この期に及んでいったい何が不満だというのだ?

 ――そう、最初から少年は世界の不自由さへの不満をゲーム内世界に投影していたのである。
 彼が抱いていた不満は、現実への模倣度、シミュレーティングの精度が足りないという意味ではなかった。もちろんシミュレーティングの精度は今後も向上してゆくだろうしそれに越したことはないのだが――そもそも彼はこの世界自体に厭いているのだ。
 
彼がほんとうに破壊したいのは、いわば現実の閉塞感の象徴のようなものであった。彼があらゆる使命、義務、アイデンティティを捨てて駆け出したいのは、この世界の境界線-horizon-のような場所だったのである。

 ゲーマーたちは次のことを知りたがっています。現実世界のどこに自分たちが生きている実感を満喫できて、絶え間なく何かに打ち込んでいる感覚を得られる場所があるのか。どこに力や英雄的な使命やコミュニティの存在を感じられるところがあるのか。どこにほとばしる爽快さや創造的なゲームの達成感があるのか。どこにチームの勝利や成功のスリルを味わうわくわく感があるのか。

ジェイン・マクゴニガル『幸せな未来は「ゲーム」が創る』

 だが大人になった彼は、その無茶振りを自覚してもいる。ゲームにかぎらず、コンテンツに対して過大なものを求めても仕方が無いだろう。あるいは世界に対しても。分相応を自覚することが必要だ。
 周囲を見渡して、ささやかな愉しみを見つけよう。ほら、食べたいものを作ってごらん、雨音に耳を傾けてごらん、友と語り合ってごらん、時には朝まで歌って踊ってごらん――そういう時、確かに彼はふと「楽しい」と思いもする。そういう、ささやかな愉しみとストレスと、期待と悩み、欲望と恐怖で人生は過ぎ去ってゆく。それが普通ってことだ。わかってはいる、わかってはいるのだが――

 *

だが、ゲームよ。少年のあの日、おまえは私に手を差し伸べ「こっちへ来い、すばらしい世界を見せてやろう」と確かに言った。一介の子供の及びもつかぬような無窮夢幻の世界に誘(いざな)ってやろうと。そのようにして私を魅了し、ウェルギリウスのように私を夜の旅に連れ出したのではなかったか。
 今にして思えばそれは、ウェルギリウスというよりも風呂敷を広げて子供だましのおもちゃを売りつけるテキ屋のおっちゃんに近いものだったかも知れない――がしかし、あの時の魅了された少年が、自分のなかに確かにまだいる。そして「ねえ、あの約束はどうなったの?」と問い続けているのだ。

 ゲームよ、偉大なる誘惑者にして三流のテキ屋よ。おまえはまだその問いに答えていない。 


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