読書スタイルはすでに思想のはじまりであること


 読書スタイルと思想には切っても切れない関係がある(いきなり結論)

 以前、「悠々自適派」と勝手に名づけた、本邦の有名な読書通たちの読書論を紹介する記事を書いた。それらは日夏耿之介、澁澤龍彦、荒俣宏といった文学者・ディレッタントタイプと、浅田彰のようなポストモダニストに大別されるが、いずれも「本なんて肩肘はってウムムと読むもんじゃなく、寝ころがって気楽に読みゃーいんだよ」的な、軽薄さ、気まぐれを肯定する共通点があった。

 で、もちろん「悠々自適派」の逆もあるんであって、えー、なんて云うんでしょうかね「桃栗三年派」とでもいいますか、諸君はこの獄中生活という貴重な時間を決して無駄にしてはならないのである! しっかり学習し、娑婆に戻ったときに理論闘争に役立てるため、基礎的な文献をしっかり読み込んで、自家薬籠中の物とすることが重要である……みたいなノリの一群の人たちがいる。

 僕が読んだかぎりではまず、革マル派の議長であった黒田寛一が、獄中の同志たちを想定して語った『読書のしかた』がそうであった。それからマルキストではないが、獄中つながりで佐藤優の『獄中記』も同じノリを共有していた。またこちらは獄中ではないけれどマルキストであり、やはり同じノリを持つものとして奥浩平『青春の墓標』がある。
 ここでは「桃栗三年派」の読書姿勢を示すものとして、黒田の本から典型的な一文を引用しておこう。

 趣味としての読書ではなく、自己の思想形成の一助としての読書についていうならば、これは一般的にかつ原則的にいうと、それぞれの書物を媒介とした、その著者とその読み手とのあいだの精神的文通であるからして、読書は本来的には個々人の主体的行為の一つの形態をなすのである。読書をしながら、疑問点や理解できない諸点、さらに批判すべき諸点などがうかびあがったばあいには、それらは、書物という対象的形態をとった著者との「対話」をかさね、これをとおしてそれらを自分で解決したり展開すべきものである。

黒田寛一『読書のしかた』p.14

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 浅田彰の「〈教養〉のジャングルの中へ」や「ツマミ食い読書法」は、このようなマルキストたちの生真面目な読書にたいするアンチという側面が強い。それは簡単に言ってしまえば乱読のすすめなのだが、思想的に云えば、ある体系(ここではマルクス主義)に一点集中することの危険性、弊害を説き、それとは別の知的体系を志向するものでもあった。

 例えば、マルクスを読むにあたり、まず、(A)経済学(B)補助学(C)思想史の学習といった分肢が設定され、(A)は(a1)流通論(a2)生成論……、(B)は(b1)ドイツ語(b2)線形代数……、(C)は(c1)ドイツ古典哲学(c2)フランス社会主義……の学習へと下位分化する、等々。このプログラムを一応こなしたと信ずるとき、あなたは安んじてそのピラミッドの頂点に腰を据えることができる。知の世界の一部分を整序してわがものとしえた、というわけだ。けれども、そこがピラミッドの最終的な頂点である保障がどこにあるというのだろう? ふと上を見上げたとき、自分がより上位のピラミッドの一部分として完全に包摂されているということに気付いたとしたら?

浅田彰『構造と力』p.21

 それに対して、ぼくたちは先程来、主体としての一貫性などにこだわることなくあらゆる方向に自己を開くこと、それによってハイアラーキーを済し崩し的に解体することを提案してきたのだった。もちろん、それなしにはすべてが混沌と化してしまう以上、目的性のハイアラーキーを直接破壊しつくすわけにはいかない。従って、あなたの作戦は、地下で隠密のうちに運ばれる必要がある。いたるところに非合法の連結線を張りめぐらせ、整然たる外見の背後に知のジャングルを作り出すこと。地下茎を絡み合わせ、リゾームを作り出すこと。

同書、p.22

 つまりマルクス主義からポストモダニズムとヘゲモニーが移り変わるとき、時代が是とする読書法も「桃栗三年派」から「悠々自適派」(悠々自適派について詳しくは冒頭に貼った関連記事を読んでください)へと変化したのである。前者の読書スタイルは必然的に「世界を説明しうる一つの体系」と結びつくものであるのに対し、後者のスタイルはどうやっても相対化、脱構築、差異、構造分析に親和的だからである。

 ちなみに佐藤優は友人に、「これからはこういう考えが主流になるので読んでおいたほうがいい」と『構造と力』を勧められて読み、「これは人を殺さない思想だ」といってあまり高く評価しなかった、という逸話がある。
 そのさい佐藤は、黒田寛一を引き合いに出して「人を殺す思想」だと高く評価していた。そうした佐藤の『獄中記』に見られる読書スタイルは、「まずはヘーゲルを繰り返し読んでしっかり理解し、それからハイデガーに進むかハーバーマスに進むか、じっくり考えなければならない。限りある時間を無駄には出来ない」みたいな感じの、黒田の『読書のしかた』で想定された獄中の読書スタイルをそのまま実践したような本である。ここにも、黒田のように読む人は黒田のような考えに共感する、浅田のように読む人は浅田のような考えに共感するという、読書スタイルと思想の切っても切れない関係が伺える。

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 冒頭の関連記事からもわかるように、僕自身は「悠々自適派」である。それは気が散るものが多い、気散里(きがちるさと)である現代人に適応的だと思うし、僕はたいへん飽きっぽいので、日が変わると――いや午前と午後でさえもはや同じ本を読みたくないというたいへん気まぐれなところがある。さらにはやたらと古本を買い漁るのでとにかく蔵書の数だけはあって目移りしやすいという事情もある。
 しかし、黒田寛一や奥浩平や佐藤優の、つまり「桃栗三年派」の読書論を読んでいると、どうしても後ろ髪引かれるところがある。つまり「自分の本の読み方は浮ついているのではないか?」という疑念と後ろめたさが、頭をもたげてくるのである。いやそれだけではない、あちらの派の、ドグマチックゆえの魅力も。

 「桃栗三年派」の読書スタイルというのは、おそらくは大正教養主義から戦後教養主義、そして学生運動へと連なるものなのだろう。そしてそれは、大正デモクラシーから戦後民主主義へといった流れと深く結びついている。noteだと思って大風呂敷を広げるのだが、マルクシズムは民主主義からの逸脱ではなく、むしろ民主主義に内在する論理を突き詰めたものだというちょいちょい見かける(ジジェクなんかも云っている)指摘もまた、このような両者の読書スタイルの類似性によって、ひとつの傍証を得るわけである。

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 さて今回は冒頭でいきなり結論を述べるという、たいへん今日の情報環境に適した書き方をしたのでオチで書くことが何もなくなったわけだが、もう一度結論を繰り返しておくと

 読書スタイルと思想には切っても切れない関係がある

 のである。
 したがい、あなたがどういう感じに本を読んでいるか、それは決して「何を読むか」だけではなく、通読にこだわるのか、こだわらないのか、広さを志向するのか、それとも深さか、バランス型か、ノートは取るのか、取らないのか、世間で読まれているものを読むのか、流行を一切無視するのか……そうしたことから、思想はすでに開始(はじ)まっているッ! のだと云いたい。

 そして個人的には、「悠々自適派」ではあるけれど、ときどき「桃栗三年派」にたまらない魅力を感じてしまうところがある、という話でした。なにしろ上で紹介した三冊、どれもぐいぐい引き込まれるいい本なんですよね。
 それではその三冊のリンクを貼って、今回のnoteはこれにてお終いにします(・ω・)ノシ マタネー




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