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いつ仕事をやめるの?


 気軽に近況を書く回。

 若い頃の仕事をやめるというのは、仕事が嫌でいっそやめてしまいたい、自由になりたい、けれどやめてもすぐ次を捜さなければならない、という感じだったが、ライフステージが変わった。
 いま僕にとって仕事をやめるというのは、年金受給まであと何年、貯金がいくら、月々のおよその生活費がこのくらいで……ウーム、まだちょっとやめられないか? でも節約すればいけるか? というような、かなり実際的な話になっている。
 つまり、死と同じで人はいつか仕事を「やめる」のだ。それが明日か、三年後か、十年後かという違いであって、若い時の「やめる/やめない」二分法とは根本的にモデルが違う。このモデルの変化を、僕はライフステージの変化=「社会生活終盤」への移行だと感じた。

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 そんなわけで引退のタイミングを計っているのだが、とはいえ経済的事情によってはまだまだ働かざるを得ない可能性はある。親はカネのかかる死に方をするのか、誰か病気になったりするのか、物価はどうなる、等々不確定要素が多いからだ。
 とはいえ、基本的に一年(分けて言えば、一日)働けばそのぶん金が溜まり、またそのぶん年金受給までの期間が短くなる。つまり時間が経過すればするほど経済的に引退しやすくなり、「仕事やめるか圧」が高まるのである。
 (追記:ずっと働かないのではなくちょいちょいシニアバイトでもするか、という構想ならなおさらやめやすい)

 トイレが近くにあると尿意をもよおす。不思議なもので、高速道路とかハイキングとか物理的にトイレが遠いとき、人は何時間も尿意をもよおさないでいられるが、自宅にいると頻繁にトイレに行きたくなる。尿意という純粋に生理的なはずのものが、文明的条件(?)によって左右されるのだ。
 このところ仕事やめたいやめたいとそればかり考えているのはあきらかに、やめようと思えばギリやめられなくもない経済的条件が整いつつあるからだ。どだい無理な話なら辛抱できるが、近頃はちょっとした不快があると「あ、じゃあやめるか」という思念がすぐ頭がよぎる。「仕事やめるか圧」の高まりというのはまあそういう感じだ。

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 もう一つの変化として、まあ現状は仕事を続けているわけだが、遠からぬうちにやめる身として「仮住まい感」が高まっており、職場でのいろんなことがどうでも良くなってきた、ということがある。
 なんかさっきの、ちょっとした不快でやめたくなる話と矛盾しているようだが、つまり何か起きると「あーそんなら別にやめちゃうしぃ」みたいな感じで憤りとかそういうのではなく、だるくなるんですね。
 この「だるい」という気分は、ちょうど『完全自殺マニュアル』的な訴えの核心、「ポケットに死を」携えることで生=現実に大して距離を獲得する、つまり解離の戦術と同じことだと思う。つまり「ポケットに退職届を」携えることで、職場を夢かまぼろしのようなものとして精神的に引き離している。わざとやってるわけじゃないが、まあそういうメカニズムが働いているのではないか。
 そういう意味ではかなり気が楽になってきた。まあ実際には経済的にはちょっと見通しが甘いのかも知れないが、気が楽なのでしばらくこのままでいさせて下さい。

 さて、僕はいつ仕事をやめるのだろう? 昨日スペースで「やめるやめる詐欺の安田さん」とからかわれたが、死と同じでその日は誰にでもやって来るのです。
 そんな日々でございます(・ω・)ノ

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