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梅雨明け / 記憶 / 香水瓶

今年の梅雨は長いものでした。今年で日本の四季の中でまるっと四半世紀過ごしたことになりますが、こんなに梅雨明けが待ち遠しかったのも初めてのように感じます。

最近、夏が好きになりました。

私は少し前まで、秋が一番好きな季節でした。晴れた日の空がとても高く感じるのも、台風が過ぎるたびに冷えていく夜の空気を鼻の奥で感じるのも、どこからか漂う金木犀の香りに思いを馳せるのも、日が傾く時間が早くなっていることにふと気がつくのも、秋へ向かう生活には日毎に変化があり、それら感じることが、とても好きでした。

日本の四季の中でも特に、夏と秋は季節を象徴する色彩や空気、音や香りといったものが多いように思います。それはつまり、他の季節より「記録媒体」の容量が大きいということではないでしょうか。他の季節と比べて多く出来事を記録しておけるということです。たとえば他の季節ならメモリー不足で上書きしないといけないけれど、夏や秋なら名前をつけてフォルダごとに保存しておけるのです。季節を象徴するそれらは、夏や秋が来るたびに、ちょうど聴き古したアルバムのごとく、毎年毎年同じように再生されます。日本で過ごす以上、それは強制的に目に入り、耳に入り、鼻につき、そしてその度、それらに記録された感情や台詞や景色に、ひとり静かに浸ることになるのです。

少し話は変わりますが最近よく写真を撮ります。この間人からシャッターを切る時の心理を尋ねられましたが、私の場合割と目の前の過ぎゆく、終わりゆく瞬間を切り取るためにシャッターを切ることが多いなと感じました。例えるなら、夏の出来事というのはそのように記録されることが多いです。それは夏の風物詩には花火や蝉、氷や通り雨といった、はいで始まってはいで終わるようなもの、つまりは刹那的なものが多いゆえでしょうか。夏の記憶はビビッドでかつ瞬間的で、それがいつか終わってしまうことをよく理解した上で、ある種の覚悟を持って遺したものが殆どです。

対して秋の記憶というのは、長回しのフィルムのようなものが多いです。淡い彩度でだらりと流れる、映画の初中盤くらいに出てくる、今後の物語の展開をまるで無視した無邪気なワンシーンのような。秋の風物詩は冒頭にも述べたように、緩やかに変化していくことそのものを指すことや、やや長い時間で切り取られるものが多いです。菊晴れ、長夜、金木犀、彼岸など。思えば蝉の泣き始めには多くの人が気付くのに、鈴虫の泣き始めには殆どの人が気付きません。或いは長袖に上着を羽織り始めた日のことを、どれだけの人が覚えているでしょうか。同じように、秋の記憶は輪郭が曖昧でかつ、それらがいつか終わってしまって、もう2度と手に入らないという自覚が、悲しいくらいに無いのです。

最近夏が好きなったのは、秋の記憶に浸るのに遂に耐えきれなくなってしまったからです。社会に出て3年が経ち、気づいたのは季節ごとの記憶がまるで更新されないことでした。かつてはあれが何年の出来事か、何歳の出来事だったか当たり前のように思い出せたのに、社会に出てからのそれは果たしていつだったのか思い出せないどころか、去年に至っては季節に閉じ込めた記憶がまるでないのです。つまり私は、夏の、或いは秋の端から端まで、ずっと「かつての記憶」という映画を、半ば強制的に鑑賞し続けていたことになります。

そんな季節を3度過ごして、とうとう私は秋に閉じ込めた記憶の無邪気さと無自覚さを凶器に、殺されてしまうのではないかと危惧し始めました。恐れた私は少し考えを巡らせて、香水を身に纏うことを思いつきました。昨年の秋のことです。新宿の京王百貨店の化粧品売り場で丁寧に接客してもらって、一番素敵だと思った香りを1万6千円程で購入しました。香水を身に纏うと、秋を感じさせる強烈なそれらから身を隠すことが出来ました。良くも悪くも大人になったものだな、と思います。そんな理由で1万6千円をポンと出せるようになったことも、自分の機嫌を取れるになったことも。今年の夏も多分何も残すことが無いし、きっと秋にもそのようなものはありません。今後記憶の代わりに、季節を重ねる毎に増えていくのは、過去の記憶から逃れるための小道具ばかりになるのでしょうか。

既に3本の香水瓶が、棚に並びます。

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