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佐賀県民だった私が横浜で驚いたこと 〜小学生編〜

転校を経験する人ってなかなか珍しいと思う。
経験する人は何度も経験する一方、一度も経験しない人もいる。
私の両親と妹は後者の人間だが、私は1回だけ経験している。

それは2005年10月。
佐賀郡大和町・富士町・神埼郡三瀬村が佐賀市になった直後。
「佐賀市が福岡市と隣接したぞ」と父が笑いつつ家族で佐賀を離れた。
10歳になったばかりの私にとって、衝撃だらけの横浜生活が始まった。

人がとにかく多い

私が佐賀で通っていた学校はそこまで人数が多くなかった。
私が転出したせいで2クラスになったと聞いた。
他学年も2クラスと3クラスの境界を気にするような児童数。
そう、1学年80〜90人くらいであった。

しかし転校先ではどうだろうか。
3クラスあるのに1クラス40人?は??

しかしこれはまだ序の口であった。

誕生日順が当然だった出席番号

後々考えてみれば佐賀で通っていた小学校だけかもしれないが、
出席番号は誕生日順。
9月生まれの私はいつも真ん中らへんだった。

さて、転校した後の学校はどうか。
隣の席になった子が出席番号1番最後の子だった。
「誕生日いつなの?」「8月だよ」

なぜ8月生まれの子が出席番号最後なのだろうか。
1ヶ月近く理解に苦しんだ。
この学校の出席番号が五十音順ということに気づいたのは、
転校して1ヶ月経ってからであった。

ちなみに苗字がア行の私。
横浜へ転居後出席番号が2桁になるのは、転入直後と
なぜか同じクラスにア行が15人いた高校1年生の2回だけであった。

皿が割れない給食時間

佐賀県は有田焼をはじめ、焼き物がとても有名だ。
それもあってか給食の皿は磁器。
所詮小学生なので1ヶ月に1回は誰か割る。
割るたびに先生が掃除した後割れた残骸をゴミ捨て場へ持っていく。
それが日常だった。

メニューはさておき、大体こんな感じ。(画像出典:北川副小学校の給食室より

さて、横浜で初めての給食。
「なんで4階にいるのに1階まで取りに行かないといけないんか」
という不満から始まる。
※佐賀にいた頃は空き教室がパントリーになっており、
 エレベーターで各階まで運ばれた状態だったので階段を使わなかった

しかし衝撃はここで終わらない。
食器を見て唖然とするのであった。
目に入ったのはそう、プラスチックの皿と金属の深皿。

タカナシ牛乳ではなく横浜牛乳だったが、大体こんな感じ。(画像出典:tvk

流石に声には出さなかったが、「戦後の給食か?」と疑った。
こんな皿で給食を普通に食うんか??は???
というのが小学生の素直な感想。

金属の皿は卒業する頃には見なくなったが、
皿が割れない給食時間は不思議で仕方がなかった。

ちなみに転入した翌年は半年以上給食室工事のため給食がなかった。
私の給食の思い出は九州の方が圧倒的に強い。
ミルメークを直飲みする男子、ココア揚げパンで口の周りが真っ黒になる女子。
こんな思い出は横浜では味わえなかった。

夏の楽しみ「オレンジジュース」は…?

佐賀にいた頃は7月と9月の水曜日がジュースの日だった。
水曜日の2時間目が終わるとみんなでオレンジジュースを飲んでいた。

転校したのは10月なのでその年は何も思わなかったが、
翌年「あれ、そういえばジュースは…?」とふと思った。

今になって考えれば給食以外でジュースがあること自体不思議だ。
なんでやっていたんだろう。

それでも教室で飲むサンレイのオレンジジュースは美味しかった。

「訛っている」とは

佐賀の小学校では佐賀弁が飛び交う。まあ普通の光景だ。
「ランドセルをロッカーになおしてきて」が日常だった。
(「なおす」は西日本で共通なのであまり佐賀感がないが…)

佐賀はそこまでイントネーションに癖がないと思っているが、
それでも標準語から多少ずれているのは事実。

今まで通り普通に話していても「訛ってる」と言われる日々。
「訛ってるってどゆこと?」と思いながら笑って過ごしてた。

そこまで私の話す言葉は癖が強くなかったのでその程度で済んだが、
授業中「消さんでよか!」と言ったときはさすがに周りも驚いてた。
時が止まるということを小学校4年生にして実感した。そんな経験だった。

小学校が変わると文化も変わるらしい

他にもまだまだ驚くことが多かったが、
20年近く経ってもはっきり覚えているのは書いてきた内容だった。

よく海外に初めて行って「カルチャーショックを受けた」と言う人がいる。
私も何度か海外に行っている。が、カルチャーショックは受けない。
だって国が違うんだもん。そりゃ文化も違うわ。と思ってしまう。

しかしこの1回の転校だけは、私もカルチャーショックを受けた。
転校してしばらくは衝撃が続いていた。
なんで同じ日本なのにここまで違うのか、と。

小学生ながら受けた衝撃はとても大きかった。
大人になった今でもそう思う。

だからこそ、文化の違いを楽しめる人でありたい。
そう思いながら、佐賀のスタバで思い出を書き綴るのであった。

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