[ゼミログ] 上演と観客

みなさまはじめまして。
SFC学部四年の山田響己(ヤマダヒビキ)です。
入学後は建築系の研究室に所属し建築/都市/デザイン領域にて活動していましたが、現在は現代アートの研究室に移り、映像やパフォーマンスをはじめとする作品制作を行っています。「空間」への関心のもと、「リアルでもありフィクションでもある / リアルでもなくフィクションでもない」状況が動的に立ち上がる過程に関心があり、演劇/映画/パフォーマンスを横断した表現を模索しています。

今週のテーマ: 上演と観客

さて、テーマは「上演と観客」です。
現代演劇において欧米を中心に、メディアの発達とそれに伴う記号論、思想、パフォーマンス・スタディーズなどの研究を背景とし、必ずしも戯曲を前提しない、より「上演(performance)」へと重きを置いた作品がダンス/パフォーマンス/オペラ/コンサートなど他の舞台芸術との境界をまたぎ注目されています。そうしたポストドラマ演劇とも言われるような作品における観客は、従来のようにつくり手が生み出す意味を単に解釈する受的な存在ではなく、つくり手と意味のやり取りを行う能動的な存在です。ゆえに「上演」とは、そのような舞台と客席のあいだの関係によって動的につくられていくものだと言えるかもしれません。
そこで次回のゼミでは、各人が持ち寄った作品の「上演と観客」についてディスカッションしてみたいと思います。

演劇の歴史は長く、古代の宗教儀式にその起源があるとされています。古代ギリシアを生きたアリストテレスは、著作『詩学』において、現代まで続く演劇の根幹となるドラマにおける筋の重要性を説きました。とりわけ近代演劇では、戯曲が中心に据えられ、一貫した時の流れのもとに物語の起承転結や因果関係があり、それによって美学的のみならず社会論的な意味を提示しようと試みがなされていました。すなわち、現実社会の様々な葛藤とその克服を舞台上での人物の対話という形式を通し表現することで、近代的主体の形成に寄与していたのです。

しかしながら20世紀初頭より、ダダイズムやシュールレアリスムなどの前衛芸術運動によって近代劇の規範でもあった統一的な世界の全体性は解体されていきます。演劇においても、演劇に独自の要素がドラマから自立し始め、新しい形式を生み出していきました。また、科学技術の発展に伴い映画に代表される新しいメディアが誕生し、ドラマ形式を取り入れて拡大していったことも、演劇がドラマ以外の固有性を自己省察するように促されたひとつの契機でしょう。そうした社会的な状況を背景に、言語、身体、セノグラフィ、光、音などの多様な要素がそれぞれ戯曲から独立した作品が見られるようになりました。そこでは、ドラマトゥルギーは戯曲そのものから上演を前提としたものへと変化していきました。

演劇の上演

ドイツの演劇学者ハンス=ティース・レーマンは、とりわけ70年代以降の演劇に見られるドラマ的でない作品群を検討する際に「ポストドラマ演劇」という概念を提示しました。ここで留意すべき点は、これは戯曲やドラマ演劇を否定するものではなく、特定の形式の優位性を主張するものでもないということです。

「演劇の上演は、舞台場と観客席での行動から、たとえ言葉で語り合われなくても、共有のテクストを生起させる。それゆえ演劇の記述は、この共有テクストを読むことと結びついて初めて十分なものとなる」
ー 『ポストドラマ演劇』ハンス=ティース・レーマン

レーマンは映像メディアと比較した際の演劇の特徴として、 記号的共有テクストという二点を挙げています。舞台には、視覚、聴覚、身振り、舞台美術などさまざまな演劇的な記号が用いられており、その空間では演じることと見ることが同時に起こっているということです。換言すれば、俳優と観客とが共同で時間を過ごすなかで相互に記号の発信と受信を行い、それにより共有テクストが形作られていくのです。

演劇の観客

では、そこでの観客の役割はどのようなものでしょうか。
繰り返しになりますが、演劇の上演において観客は、俳優とともに「いま・ここ」で起こっていることを体験しています。それは現前性の問題、言い換えれば目の前で展開される現象を相互に見る/見られている状況が連続していることを意味します。

加えて、観客は「いま・ここ」での一連の出来事 ─── 虚構を上演の始まりから終わりまで信じ続けるよう努めます。舞台上の俳優もまた同様ですが、同時に観客はそれが虚構であることも自覚しています。演劇の上演にはそのような両義性が内包されており、その性質ゆえに観客は他のメディアにおけるそれに比べより能動的で積極的な役割を担っているのです。

「要するに、演劇は客席なのである。演劇とは、『わたし/わたしたち(観客)の知覚の場』であり、演劇の実質とは『わたし/わたしたち(観客)の受容体験』なのだ。」
ー 『テアトロン』高山明

ゼミログ

さて長い前置きでしたが、実際のゼミの時間には、演劇を上演すること、そこに観客がいること(ないし客席があること)の二つの観点を指針とし、それぞれが鑑賞した作品について議論していきました。

概して、①俳優と観客の関係②観客と客席の関係が議論の焦点になったように思います。

①俳優と観客の関係
紹介されたチャーリ木下作・演出の『バクマン the stage』では、舞台の大部分をインクを仄めかす水盤装置が占めていたようです。演出として俳優が実際にそこに入ったり出たりするため、最前列の観客には水しぶきを防ぐためのレインコートとフェイスシールドが支給されたといいます。

ディスカッションをするなかで、一般に漫画やアニメなどを原作とした2.5次元舞台において、観客は「脚本を読んでから劇場入りしているに近しい」ことが指摘されました。それも文字情報だけでなく、視覚情報を伴った脚本です。それは観客がキャラクターや情景の「正解」のイメージを頭に描いたうえで演劇を鑑賞することを示しており、そのため実際に舞台上で俳優が演じるキャラクターと「正解」のキャラクターにずれが生じた時に違和感を感じることがあるのでしょう。それは記号の記号化とも形容できるかもしれません。

また、2.5次元という極めて特殊な舞台では、俳優が演じる役はデフォルメされたキャラクターであることが珍しくありません。戯曲に沿って演出される一般の演劇と比較すると、俳優は現実的でない誇張された役を演じることがあり、そこには二重の虚構性が存在することが考えられます。この現象には、ミュージカル作品における歌の異化効果とも似た関係を見出すことができるかもしれません。劇作家の岡田利規は、役の人物を映し出すスクリーンのようなものとして俳優を捉えていると述べていますが、2.5次元舞台やミュージカルにはそうした俳優観や演出方法とのが関連性が隠されている可能性がありそうです。

ほかにも、俳優のみならず映像作家やダンサーなどジャンルを超えたアーティストらによる演劇集団、幻灯劇場による『盲年』、美輪明宏が演出・美術・主演を努めた『毛皮のマリー』などが挙げられ、それぞれ映像や身体表現などマルチメディアを駆使した上演や俳優の存在感ないしカリスマ性による圧倒的な上演の体験などが共有されました。

②観客と客席の関係
芥川龍之介が晩年に記した同名小説を原作とし、構成・演出を多田淳之介が手掛けた『歯車』では、観客が物語の演出に組み込まれていたといいます。客席から登場した俳優が背後を振り返り観客に声をかけてきたり、作中の「僕」の台詞が俳優によってではなく客席上部のスピーカーから流されていたようです。また、客席の後方にはマイクが設置され、俳優によってテクストが朗読されていたことも紹介されました。そうした様々な客席を用いた演出により、観客は次第に「僕」と同化していき、恐怖とも似た不思議な感覚を得たようです。これは、舞台を客席まで拡張し観客をも作品の一部として扱う参加型演劇の一例と言えるでしょう。

さらに、フィジカルシアターカンパニー月灯りの移動劇場による『Peeping Garden / re:creation』は、30枚の木製扉に囲まれた円形舞台が用いられ、観客はドアスコープと郵便受けという二つの「穴」を介してダンサーのパフォーマンスを覗き見る上演だったと説明されました。「覗く」という行為の要請によって、客席に座って単に舞台を見るだけでない、より積極的な役割が観客に与えられていたようです。また興味深い点として、「穴」の反対側にいるパフォーマーもまた近距離から観客を覗いてくることによって、見る/見られるという相互の関係が存在していたという指摘がありました。空間を仕切る壁が舞台装置としてフレームのようにはたらき、それにより観客は作品世界へと没頭することができたというのです。ここには、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で述べたパノプティコンの概念や安部公房による『箱男』のアプローチとの関連性が窺えます。

上記二作品では、共通して視線と「第四の壁」の問題が扱われていたように感じます。『歯車』においては、客席が舞台化することで観客は視野外での出来事にも注意を向ける必要があります。後ろを向けば他の観客が視界に入り、視線が合うこともあるでしょう。一方で『Peeping Garden / re:creation』では、円形の壁によって構成される客席の構造上、パフォーマンスが行われている「向こう側」の空間と、「こちら側」から「覗く」他の観客の目が同時に見えます。その特徴が、観客としてのメタ認知さえも作品の一部として絡み取られていく一要因なのかもしれません。なおここで指摘されたこととして、上記のような観客の認知がダンスが展開される抽象的な空間に起因するのではないかというものがありました。それゆえに、目という身体の部分さえも抽象化されていたのではないかということです。そうした議論を通じ、台詞がある具象的な上演とダンスやパフォーマンスといったより抽象度の高い上演の場合では、観客が異なる体験を得る可能性が示唆されました。

おわりに

以上、今回のゼミでは演劇における上演という要素を軸に、俳優や観客、客席との関係について議論を交わしました。主に西欧演劇の文脈で語られることの多いポストドラマ演劇ですが、翻って日本では60年代に誕生した天井桟敷や状況劇場をはじめとするアングラ演劇、また80年代に結成され国際的にも活躍したダムタイプや維新派といったマルチメディアを駆使したパフォーマンス性の高いグループによる上演との共通点が見出だせるのではないでしょうか。

天井桟敷を主宰した寺山修司は、73年に芥川龍之介原作『邪宗門』をベルリンにて上演中に起きた暴力事件を受け、観客と出会うための演劇をつくりたいと発言しています。また状況劇場を結成した唐十郎は、巻き込み、フィクションをともに構築する存在として観客を捉えていたようです。

昨年より続くCovid-19のパンデミック禍で、私たちは容易に劇場に集うことができない状況に置かれています。そうしたなか、リモート演劇や配信演劇など、俳優と観客とがリアルタイムに物理的な場に居合わせることがない作品が数多く上演されるようになりました。そこで重要となることは、オンラインでの演劇を真っ向から否定するのではなく、従来とは異なる環境下でどのようにして「いま・ここ」を俳優と観客とが共有し、演劇を立ち上げることができるかを思考する態度のように思えます。

「わたしたちはどんな場合でも、劇を半分しか作ることはできない。あとの半分は観客が作るのだ」
ー 『迷路と死海 わが演劇』寺山修司

次回

次回のテーマは「演劇と教育」です。
学校などの学び場において演劇がどのような役割を担っているか、担い得るかについて議論できればと思います。
日本ではそこまで一般的に学校教育の中で演劇に触れる機会は少ないですが、イギリスなどでは授業科目に「ドラマ」が組み込まれたりしているようです。
とはいえ国内でも静岡県では劇場に中高生を招待する中高生鑑賞事業があったり、他にも独自に授業の一部に演劇教育を取り入れている例が見られます。
海外や国内の例を調べたり、演劇教育のプランを考えてくるなど興味分野に沿いながら発表してもらえればと思います。

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<参考文献>
演劇とドラマトゥルギー 現代演劇におけるドラマトゥルギー概念の変容に関する一考察(藤井慎太郎 2015)

ドイツ語圏の演劇のポストドラマ的な傾向について(新野守広 2010)

パフォーマンス研究の地平(岸田真 2010)

演劇における演者と観客間の相互作用に関する一考察(勝畑田鶴子 2008)

アートベース・リサーチ : 上演と身体(演劇・パフォーマンスによるアートベース社会学)(岡原正幸 2017)

ポストドラマ演劇(ハンス=ティース・レーマン 谷川道子他訳 同学者 2002)

安部公房 『箱男』論 : 匿名化された監視を超えて(片野智子 2015)

ポストドラマ時代の創造力: 新しい演劇のための12のレッスン(藤井慎太郎ほか 白水社 2014)

演劇の未来形(谷川道子 東京外国語大学出版会 2014)

日本演劇現在形 時代を映す作家が語る、演劇的想像力のいま(岩城京子 フィルムアート社 2018)

迷路と死海 わが演劇(寺山修司 白水社 1993)

テアトロン(高山明 河出書房新社 2021)

未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀(岡田利規 白水社 2020)

美術手帖 2018年 08月号 ポスト・パフォーマンス (美術出版社 2018)

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