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浄土真宗法話「悩みながら生きていく生き方」

             神奈川県 川崎市 高願寺  宮本 義宣 師

 浄土真宗という仏教が、しばしば「特異な内容だ」ということが

よく言われます。その要因はですね、いろいろあろうかと思いますが

ひとつにですね、煩悩に対する向き合い方が違っていた

っていうことだと私は感じております

どうゆうことかという風に申しますと

スタンダートな仏教の歩み方としては

煩悩を滅して悟りを得るという、スタンダートな歩み方かと思います

どのように煩悩を滅していくのかというと

煩悩をおこす要因を身から遠ざけて

例えばひとり人里離れた山奥に居を構える

そこで生活をする。煩悩をおこす要因を身から遠ざけて

ひとり黙々と仏道を歩んでいくという歩み方をしてきました

今でもそれはスタンダードな歩み方としては

そうゆう歩み方があろうかと思いますが

浄土真宗の宗祖親鸞さまはそのような歩み方を

されたのではなくて、煩悩をおこす要因を抱えながら生きるという

生き方を選択された方です。

つまり煩悩にどのように向き合っていくのかというのは

どの仏教においても共通項としてありますが

煩悩が最大のテーマであるというのもそうかと思います。

でも、その煩悩にどう向き合っていったのかという

向き合い方が、宗祖ごとに実は違っていた

ということなんだと思います。

例えば道元禅師は、禅にその向き合い方を求めていった

日蓮聖人は『法華経』にですね、その煩悩の向き合い方を求めていかれた

宗祖親鸞さまは、煩悩を念仏を称えながら、念仏に問い聞いていく

阿弥陀さまのご本願に問い聞いていくという

向き合い方をされていかれた方が宗祖親鸞さまでありまして

その向き合い方が、それぞれの宗祖ごとに違っていたので

特に親鸞さまは「煩悩を抱えながら生きていく」という生き方

生活の有様を選択し、生涯を送られていかれましたので

仏教の中で浄土真宗というのが、少し特異な内容だと

言われている所以が、そこにあろうかと私は思っております

その親鸞さまの生き方、それは煩悩を抱えながら生きていくということは

煩悩が苦悩の原因ですので、苦悩を抱えながら生きていくという

生き方になります

だから私たちが苦しみ悩むそのことは、決していけないことでも

恥ずべきことでもなくて、むしろ当たり前の

苦悩が起こって当たり前の生き方を私たちはしているんだっていう風に

考えることができるのではないでしょうか

そうすると苦しみ、悩みというのは決して悪いことではなくて

苦しみ悩みながら生きていこうというところに

むしろ「お念仏の教えがあったんだ」という風に

受け止めることができます。私たちそうゆう生き方をしてきた

私たちにとっては、実は念仏の教えが必要だった

そのお念仏の教えに思い、悩みや自らの問いを問い聞きながら

どうにかこうには我がいのちを、精一杯生かさせていただく

そうゆう生き方に恵まれてきたのが、私たち仏教徒である

念仏者である私たちだったんだな、という風に受け止めさせていただきます

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・

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