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イスラエルの刑務所内で何が起こっているのか?拘束された74歳元アラビア語教師、オマル・アッサーフ氏の証言

冒頭写真: eye.on.palestine Instagram アカウント 
リンク:https://www.instagram.com/p/C6EHSrGqID6/


はじめに

増え続ける不当な逮捕・拘束

パレスチナで、10月7日以降だけで9千300人以上のパレスチナ人が逮捕、あるいは行政拘束され、閉じられた刑務所、また強制収容所内において残忍な扱いを受けている。日常的な拷問や、怪我の治療を放置さ
れ、手足を切断した者、そして命を失った者もいる。

数々の証言(テスティモニー)

解放された者たちの中から、刑務所内での過酷な体験を証言している人々がいる。皆、体重が激減し、髭が伸び、体中にアザをつくり、逮捕前からは同一人物と思えぬほどに風貌を変えている。

74歳の元アラビア語教師の、オマル・アッサーフ氏も釈放後にインタビューを受けた。彼は、実は私のパレスチナ人の友人の中高時代のアラビア語の教師だ。不良生徒も背筋を伸ばして席に着くような、真っすぐで、威厳のある先生だったらしい。

10月末、イスラエル軍のガザへの攻撃が激化する中、西岸地区ラマッラー市の広場には教師や大学教授たちが多数デモに参加していた。その後、イスラエル軍によってそうした多くの知識人たちは次々に拘束された。オマル氏もその一人だった。彼の逮捕のニュースはSNS上でシェアされた。釈放の一報を聞いたときは、彼が生きて帰ってきたことに安堵したが、悲惨な状況に言葉を失った。刑務所内の状況を語ったオマル氏の勇敢かつ貴重な証言を、できれば最後まで読んでほしい。

※なお、本稿は、Quds Podcastによるアラビア語のインタビュービデオ(https://youtu.be/j4Ug_Cs5RIA?si=SmzNFKZF9Zz1hZw1)をネイティブ話者が英訳し、拙者が日本語訳した。日本語読者に伝わるよう、一部、オリジナルの表現から、意訳または要約した。

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イスラエル軍はオマル氏を逮捕しに来た。軍は彼の息子の家に押し入り、まず息子を拘束した。次にオマル氏に身分証を求めると同時に、妻を別室に入れた。目隠しをされたオマル氏は、車の荷台に放り込まれた。
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―――刑務所でどうやって情報を入手していたか

情報源がなく、何が起こっているかの全容はわからなかった。通常、情報は新しく刑務所に連れてこられた者から入ってきた。別の刑務所から移送された者から、そこで囚人たちが死んでいることを知った

1982年、レバノン内戦の最中、私はラマッラーで収監された。それ以来、イスラエルは同じ尋問方法をとり続け、捕虜の扱い方も同じだ。国際法から見れば、私たちは兵士ではなく囚人であり、ジュネーブ条約第4条に基づいて、権利を持つ囚人として扱われるべきだ。彼らは“ユダヤ人だけの”法律ですべてを通し、自分たちの行為を正当化している。

―――逮捕の詳細

刑務所に着いた後、私は多くの光景を目にした。地面に倒れている人、怪我をして血を流している人、歩けない人もいる。言葉では表現できない光景だった。私はヘブロンとベツレヘムの間にある刑務所に送られ、その後、ラマッラーの隣にあるオフェル刑務所に送られた。罪状はなかった。10日後、私の罪状が”発表された”。私がハマスの指導者だという内容だった。私を知る者にとっては大変な冗談である。私は何の組織にも属していないし、世俗主義でハマスとは何の関係もない。

逮捕から4ヵ月後、裁判所で、私の罪状が繰り返されたが、彼らはそれが虚偽の告発に基づいていたとし、新たな罪状と差し替えた。そこでは、私が若者運動のリーダーであるとされた。まるで70代の老人が若者運動を先導しているとでも言うかのように。

私はこれまで何度も拘束されてきたが、今回はどれにも当てはまらないほどに凄まじい。刑務所で1967年から1969年の間に収監された人々に会った。彼らは、こんな状況は一度もなかったと言った。

囚人たちは服を剥ぎ取られ、予備の服は与えられず、45日ごとに服を着替えることができた。11月から12月にかけては、独房に太陽が届かないため、脱いで洗濯することもできない状況だった。3~4日ごとに、集団で整列して外に出される時間があった。小さなケチャップ袋ほどのサイズのシャンプー(約12ml)を渡され、それで全身を洗うようにいわれた。もちろんお湯はなく冷水だ。

6か月間、私は肉、果物、スープ、熱いお茶やコーヒーと呼べるものを口にすることはなかった。食事は、人間の肉体的欲求を満たすものではなく、生物が、ただ生き耐えるだけに与えられるものだった。ヨーグルトは一人50グラム。250グラム入りのパックを5、6人で分ける。各セクションには囚人120~130人が配置されたが、本来1セクションには72人しか収容できない。各部屋のベッド数は6台、全12部屋で72台分のベッド。6台しかベッドのない部屋に10人から14人が入れられた。ベッドの幅は70センチしかないのでベッドをシェアすることもできず、床に寝る者もいた。

栄養失調が若者を襲い、そうした人々は薬も与えられずに床に放置された。毎日、兵士が点呼を取りに部屋に来た。怪我をしていても、病気でも、点呼のときは直立しなければならず、できない者は殴られた。

ある日、私はめまいで倒れて、頭を打った。傷口は開き、炎症を起こしていた。傷口を消毒することもなく、汚れた頭をそのままホチキスで留められ部屋に戻された。3週間後、炎症は頭頂部から前頭部まで広がり、血圧は90から70まで下がり、髪の毛が生えなくなった。その時初めて薬をもらった。裁判所では、私が主張した医学的に傷害を放置されたという根拠を求められた。私は医者ではないが、傷口をどう扱うべきかぐらいは知っている。囚人に一定の権利があることも知っている。私の体重は、拘束される前の101kgから72kgまで落ちていた。


―――刑務所内で印象に残っていること

今回の拘束で、忘れられない出来事がある。セクション24で見た二つのシーンだ。ある日、武装して、犬を連れた弾圧部隊と呼ばれる特殊部隊がやってきた。彼らはセクション24の3つの部屋に侵入した。すべての囚人を血まみれにした。囚人たちを引きずって移動した廊下は血だらけだった。弁護士が部屋に来たとき、血が床に残っていた。特殊部隊は毎日一部屋ずつ侵入していたが、その日は3部屋を一気に襲った。

2つ目のシーンは、ガザから連れてこられた囚人たち。今まで見た中で最も恐ろしいシーンの一つだった。私が収監されていたセクション23は、セクション24と壁を隔てて反対側にある。毎日、手錠と足錠をかけられた人たちが動く音が聞こえた。朝5時になると、兵士は部屋からベッドをすべて運び出し、囚人を虐待し、殴る。犬の真似をさせられたり、ハマスやその指導者の悪口を言わされたり、「イスラエルを賞賛する」、「イスラエルは永遠」、「イスラエル万歳」などと言わされたりしていた。


私は10月の攻撃の2週間後に逮捕された。まるで予想もしていなかったことが、今、起きている。一族が一人残らず消され、存在しなかったのように殺されている。何が起こっているかを把握するために、時々得られる部分的な情報を分析したり、推測したりしなければならなかった。

イスラエルは、パレスチナ人を排除したいのであって、解決策など望んでいない。このシオニスト・プロジェクトは、世界資本主義に直結している。パレスチナ人が最低限の権利を得るための、何らかの和平の形を模索するという意図は、シオニズム運動の選択肢に存在しない、と私は確信している。

ここ数カ月で起こったことは、テオドール・ヘルツルの古い名言にあるように、シオニズム運動が先住民を、木に水を与えるだけの仕事をする、単なる農夫にしたいのだということを裏付けるものだった。近年、農夫はいくつか技術を与えられ、イスラエルの下で働く労働者となった。パレスチナ人は奴隷になった。彼らは私たちを道具としてしか見ていない。

―――収監された人々の状況とその対応について、パレスチナ自治政府と地元、国際組織の役割をどのように見ているか?

赤十字のような国際組織は、「赤十字はイスラエルの刑務所を訪問できない」という偽りの口実によって、刑務所内の囚人を訪問することを許されていない。しかし、現実は違う。彼らは世界に現実を見せたくないのだ。

政府と市井の人々の間には、常に異なる立場がある。アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスでは、戦争初日からイスラエル支持を表明していた。現在、その立場を後退させている国もあるが、国連での決議はなされていない。この状況を止めるために何もできず、第2次世界大戦後、数カ国の手によって作り上げられた世界秩序全体に大きな「!」マークが付けられた。彼らは世界を操る力を持っている。

対して、国には市民がいる。いま、私たちはアメリカの大学で起きていることを目の当たりにしている。ベトナム戦争以来のことだ。一部の人々は目覚めつつある。世界の若者の多くが、パレスチナの大義を理解しようとしている。

しかし、前線の現地で、パレスチナ自治政府は、何と言うべきか・・・「何も見ていない目撃者」だ。(※エジプトのコメディアン、アーデル・イマーム出演の劇のタイトルより引用されている)

画像:https://www.imdb.com/title/tt11540012/
ネットフリックスでも視聴が可能
https://www.netflix.com/eg-en/title/81236590

彼らはこの戦いに不在だ。オスロ合意以来30年間、彼らは常に助けを乞い、懇願し、神に慈悲を求め、守ってくれるよう嘆願してきたが、誰も相手にしなかった。残念ながら、世界はひとつの論理で動いている。力の論理だ。パレスチナ自治政府が抑圧に立ち向かうことは、論理的でなく、受け入れがたく、理解できないからだ。
そして、自治政府は、この戦争に武器供給で火を注いでいるアメリカと会談し、起こっていることをすべて抵抗勢力(ハマス)のせいにする声明を出し、いち早く人々の団結を取り戻す努力も、一致結束して戦う姿勢も、市民のために決断を下すための連帯も見せなかった。

自治政府はパレスチナ人を代表するグループではない。もはやその地位を離れたとしても、それは遅すぎる判断だ。人々は自治政府を必要としていない。
ラマッラで大きな抗議デモがあり、自治政府が自国民を殴り、逮捕し、そして自らの手によってトゥルカルムで一人の男性を殺害した。占領開始以来、見たことのない光景だった。こうした事件は、自治政府を恥ずべき存在にしている。こうした事件は今後どんどん増えていくだろう。すべては30年前のオスロ協定が、イスラエルとの“安全保障の調整”を含み、自治政府にその部門を置いたことによる。

パレスチナの人々が今直面しているのは、ガザ地区での3万5千人の殉教者(※インタビュー時)であり、そしてヨルダン川西岸地区で拘束された者たちである。前者と後者は同様に重要であるが、いま優先すべきはガザであり、傷ついた者を癒さなければならない。そして拘束された者が続く。国際機関や世界中の市民が、もっと声を上げなければならない。

西岸地区の未来は、大きくは、ガザの結果に影響されるだろう。西岸地区の80万人の違法入植者たちは、その態度に表れているように、テロリズムによってすべてを奪った。今のままでは、西岸もガザと同じような結果に直面することになる。

西岸地区は、この占領に立ち向かうことができる。団結こそが最も重要であり、地歩を固め(不動であること)、対立に備えること。これ以上の悪化を食い止めるために、私たちはこの3つの面で協力しなければならない。

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