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景色を見せる台所の窓

日本の現代住宅設計の第一人者である宮脇檀氏とその研究室が20年の軌跡をまとめた「宮脇檀の住宅設計テキスト」(宮脇檀建築研究室筆)より表題のテーマについて引用・記述します。


 調理が労働であるのかどうかという問題に関しては、議論があるところだが、明らかに労働的、義務的な部分があって、それから解放されたいと望む主婦*の気持ちがわからないわけではない。それに、調理という作業は必ずしも連続的に、途切れがなく、走りながらするようなものではなく、ところどころ節目をもちながらしていく作業であるとするならば、料理をしながらちょっと目を遊ばせて、他のものを見たり聞いたりすることがあってもいいのだろうとは思う。だからかなり高度なオーディオを用意した台所を設計し、主婦*が楽しみながら調理をするとか、調理をしながら家中が眺められていられる台所などを設計してきた。
 一般的には、流し、レンジの前の壁はかなり有効な壁で、そこにお玉やフライパン、フライ返しをつっておいたり、布巾(ふきん)があったり、潜在があったりするほうが、便利であるには違いない。しかし思い切ってその壁に穴を開けて窓にしてしまうというのは、台所を気持ちよくするよい方法である。できたならば、窓の外には当然美しい風景がほしい。遠くの山なり、窓先にしつらえられた庭なりがみられれば、いうことはない。
 物をつることとか、つり戸棚などという便利さが失われる代わりに、楽しさが生まれる。きつい家事労働だから息抜きにというわけではないが、台所もそんな余裕を持って設計をしたいと思う。
(宮脇檀)


*時代背景として、「主婦が台所に立つ」という当時の慣習をもとに検討されていたため、読み手の方には気を悪くしないでいただきたい。私はむしろ宮脇檀氏の真摯な設計者としての姿勢に視線を向けていただきたいと願う。


 私の母は管理栄養士である。母の家庭内での言葉を思い出す。「キッチンは調理場なんだよ。一歩多く歩いて調理するということが日々の負担になるから、調理場の計画は管理栄養士としては大変大きな課題でね。住宅のキッチンもそういう合理性は絶対に必要だと思うな」。ごもっともである。私は男三兄弟の次男で、母の日々の食卓という戦いの火種の元でもあった。母の疲労を過大にした食の太さも有する、小さな怪物だ。そんな怪物も建築士になれば、やはり何かで応えたいと考えてしまう。
 私がこの宮脇檀氏の住宅設計テキストを手に取ったのは大学3年生のときの大学生協購買部の書庫コーナーであった。このページは胸に刺さった。そして当時のその大学カリキュラムでは大学2年生の課題が住宅関連で、大学3年生は公共性をもつ施設が課題として取り組むものだった。自分なりの考えを深める公の場がなく、自分の間の悪さを感じた。
 しかし、時は流れて35を迎えた年に住宅設計の依頼を受けた。幼馴染の女子からの相談であった。彼女は結婚し、母となっている。交流の深い小学校のクラスメイトであったため、お互いの両親も知っている。私は何かの縁だと感じた。「キッチンに力を込めて設計しよう」と心に決めた。彼女には理想のキッチン像があったため、宮脇檀氏の熱情のようなものをいきなり込めるような形ではなく、こまやかな考えとして小刻みに導入する提案をしていた。しかし不運なことにウクライナーロシア間の戦争勃発により、木材の価格高騰(通称ウッドショック)が生じ、コストが合わないこととなり、計画を同じ敷地で再設計することが決まった。私は「これは大変なことだが、ある種のチャンスを与えられたのかもしれない」と考えた。再設計が決まり、製図ペンを走らせた。


とにかく走る。


よく走る。


初期案より遥かに次元の高い提案にまとまり、施主のご夫婦は大変提案を気に入り、新しい案はすんなり受け入れてもらえた。実はこの案で「キッチンはここだ!この形だ!」と、身体が勝手に反応していた。この形は脳から指示があったというよりは、心から指示があって提案できたと私は信じている。(これを脳科学の観点で話をするのは無粋であろう)

身体が反応して書いたキッチンの写真

窓がある。窓の外には風景がある。調理をしながら家中が眺められていられる室内窓がある。一時「外向けの窓は無くていいのでは」という話があがったが、最終的には提案どおり窓をとりつけた。結果として私は宮脇檀氏の住宅設計テキストに実に忠実であった。

ここで少しだけ詳細の時系列を解説しておきたい。実は「宮脇檀の住宅設計テキスト」の「4-9景色を見せる台所の窓」を読み返したのは竣工後だった。大学3年生の読破以来だった。完成したのは私が38になる歳。18年越しの再学習無しの実践であった。これはなにを意味するのかというと、先人からの学びの参考図書とは、単に模倣するネタ帳ではない、ということだ。永年心に刻まれ、記憶し、忘れ、身体のみが覚えている。そういう形態になり得る「技術伝承」こそが先人からの学びである。

私は宮脇檀氏とはお会いしたことはない。1998年に享年62歳という若さでこの世を去っている氏は、私がその幼馴染と別々の進路を歩み出した中学1年のときである。宮脇檀氏は「住宅設計テキスト」の巻末によると歴任する40名近くのスタッフに設計を指導されていたようである。その指導を受けた方々とも面識はない。しかも多くの住宅設計の専門書に氏の考えについての論考があり、大勢の建築家たちがそれぞれの解釈を述べている。私達はこうして「建築家」という血縁でも学閥でもない、ある種「生まれ変わり」のように学びを引き継いでいる。
(白井純平)


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