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社会と土木の100年ビジョン-第2章 土木の100年を振り返る

本noteは、土木学会創立100周年にあたって2014(平成26)年11月14日に公表した「社会と土木の100年ビジョン-あらゆる境界をひらき、持続可能な社会の礎を築く-」の本文を転載したものです。記述内容は公表時点の情報に基づくものとなっております。

わが国の工学会は1879年(明治12年)に設立され、その後、土木学会は1914年(大正3年)11 月に工学会から分離した形で設立された。本年2014年には、土木学会100周年を迎える。
明治時代に入り、わが国は治水、砂防、港湾、鉄道等の整備を進めてきた。戦後の1945年(昭和20年)以降は、全国総合開発計画等に基づき、治山、治水、道路・高速道路、港湾・空港、新幹線・地下鉄、電力、上下水道等の社会資本の整備を急速に進めた。
工学会設立から135年、土木学会設立から100年が経過した現在、わが国をとりまく環境は大きく変化し、土木に求められる社会的な要請もまた大きく変化を遂げた。今、これまでの歩みを振り返るとともに、今後の100年を見通して土木あるいは土木技術者は何をなすべきか熟慮すべきときに至っている。
本章では、土木が果たした役割、100年の姿を振り返る。

2.1 明治時代(1868~1912年)
欧米技術の導入と自主独立への道

明治初期、わが国の土木は、御雇外国人の指導によって近代土木技術へのスタートを切った。その後、欧米への留学生たちは帰国後、近代化の礎となるプロジェクトにおいて先導者の役割を果たしていく。彼らは日本政府の殖産興業・富国強兵の国是を推進させ、当時の中心的な社会基盤であった河川・鉄道・港湾の整備に携わった。
わが国で初めて鉄道が開通したのは、1872年(明治5年)のことである。明治時代における鉄道事業の発展は、トンネルと橋梁技術の進歩をもたらした。1880年(明治13年)竣工の、京都―大津間、延長665m の逢坂山トンネルは、わが国初めての本格的な山岳トンネルである。竣工までのほとんどは、日本人技術者の手によるものであり、欧米技術と鉱山開発などの日本伝来の技術を巧みに融合させた点が注目に値する。
また、明治中期を代表する土木の総合開発としては、琵琶湖の湖水を京都の賀茂川に導いた琵琶湖疏水事業があげられる。東京遷都により衰微した京都に往年の活況を取りもどすため、1881年(明治14年)、京都府知事に赴任した北垣国道は、市勢の回復には工業を主力とする産業の興隆がもっとも効果的であると考え琵琶湖疏水の開削を決意した。灌漑・上水道・工業用水道・舟運・水力発電の多目的利用からなる総合開発は、田辺朔郎(1861~1944年〈文久元~昭和19年〉)の功績が大きい。田辺は、伊藤博文工部大臣が山尾庸三工部次官らと創立した実学を重視する工部大学校で学び、卒業論文は琵琶湖疏水の計画であった。1888年(明治21年)、大学卒業間もない田辺は工事に先立ち、世界最初の水力発電所であるアメリカ・コロラド州の水力発電所(150馬力)などを視察。帰国後、それをはるかに上回る2000馬力の水力発電所を京都の三条蹴上に建設した。京都市政の発展のなかで、水道・軌道・電気供給の各事業を三大事業として推進する気運を生み出し、そのすべてが市民生活に密着したからこそ、疏水事業の意義は大きい。工部大学校時代のヘンリー・ダイヤー教頭教授から送られた座右の銘“Not how much I did, but how well I did”のとおり、当時斬新な水力発電を事業に取り込み、田辺なりに社会や地域のための創意工夫を凝らした。イギリス土木学会から初代会長の名を冠するテルフォードメダルを贈られたことは、この事業が国際的にも高く評価されたことを物語っている。
そして、日本土木技術の基礎形成という点で忘れてならないのは、廣井勇(1862~1928年〈文久2~昭和3年〉)の貢献である。廣井は1881 年(明治14年)に札幌農学校を卒業した後、北海道最初の鉄道である小樽―幌内間の工事に従事した。「港として傑作」といわれる小樽港を築港する際は、現場に赴き、労働者とともにコンクリートを練ったという。コンクリート供試体は、100年後も強度試験が実施できるようにつくられた。後世の小樽やそこで生活を営む人々に心を砕く土木技術者の姿を物語っている。また、札幌農学校や東京帝国大学の教授となって次世代の育成にも携わり、わが国最初の「英和工学辞典1908 年(明治41年)」の編纂でも指導的役割を果たしている。廣井は札幌農学校時代、内村鑑三、新渡戸稲造他17 名の同窓生と学を共にし、土木学のほか経済学、心理学、簿記法、英語演説などの諸学の専門授業を米国の土木技師ウィリアム・ホイラーなどの外国人教師に学んだ。その後、ホイラーを頼り単身自費で米国に渡り、土木技術者として経験を積んだ廣井は、1888年(明治21年)ニューヨークのVan Nostrand 社から米国土木技術者に向けたハンドブック「Plate-girder construction」を世に送り出した。ホイラーは、米国に帰国した後、農科大学の教師を経て土木会社を起こした。このような実践的土木技術者から、土木工学を理論と実際の両面から学んだことも、廣井の土木工学界における多大なる貢献に結び付いたのであろう。
田辺、廣井が学んだ教科書などないこの時代、英語による授業を理解するために明治の青年達が手にしたウェブスター辞書には、土木技術者を意味するCivil engineer はMilitary engineer と対比して記載されている。Civil engineer は、軍事を除く工学のための技術者であった。地域の産業、人々の豊かな暮らしのために、日本の気候・気象・地形・地質・景観の風土に即して欧米技術の導入をはかり、それを担う多くの人材が輩出された。

2.2 大正時代(1912~1926年)
土木学会の設立と日本近代土木の自立

2.2.1 土木学会の設立

土木学会は、1914年(大正3年)11月に設立された。初代会長を務めたのは古市公威(1854~1934年〈安政元~昭和9年〉)である。土木学会設立以前、土木工学者の多くは、その前身ともいえる日本工学会に属していた。日本工学会は、1879年(明治12年)設立の日本初の工学関係の学会であり、古市は1900年(明治33年)から副会長を務めているが、土木学会の設立には消極的だった。日本工学会は、工部大学校の土木、電気、機械、造家(建築)、化学、鉱山、冶金の7 学科の卒業生が結成した。設立時には、工学すべての分野における専門家の参加を呼びかけていた。
しかし、1885年に日本鉱業会、1886年建築学会、1888年電気学会、1897年造船協会と機械学会、1898年に工業化学会が次々に分野ごとの学会として独立し、土木工学の専門家が工学会会員のほとんどを占めることとなった。古市はかねてより「総合こそ土木工学の本質である」と主張していた。その土木が、日本工学会から離れて土木学会を設立すれば、土木も細分化の道をひた走ることになる。古市は、土木学会の設立によって、土木が本質を見失ってしまうことを懸念した。だが、専門分化は、学術の発展という側面から見れば自然な流れであった。古市もそうした流れには抗いきれず、土木学会初代会長を務めるに至ったのである。1915年(大正4年)1月に行われた第1回総会における、古市公威の初代土木学会会長就任演説には、古市の土木に対する姿勢が如実に現れている。演説では、土木技術者は「指揮者を指揮する人」、「将に将たる人」たらねばならないこと、会員には「研究の範囲を縦横に拡張せられんこと」、「その中心に土木あることをわすれられざらんこと」などが述べられている。こうした古市の考えを引き継ぐならば、土木学会は今日においても、あらゆる専門領域との連携を図り、その核となる学会たるべき、といっても過言ではなかろう。

2.2.2 明治の土木事業の継承

大正時代においても、治水・鉄道・港湾等の土木事業は、明治時代を継承し発展を続けた。1896年(明治29年)河川法制定以降、内務省は全国の重要河川を直轄に指定し、築堤、浚渫、放水路工事からなる治水事業は大正期に着実な成果をあげた。一例に、日本海へ向けて信濃川の放水路を開削する大河津分水事業があげられる。日本の穀倉とするため、越後平野を洪水から守ることは、江戸時代からの悲願であった。明治期、内務省新潟出張所長であった古市公威は、信濃川改修工事、堤防工事の治水計画を立案した。その後、大河津分水事業は、1909年(明治42年)に開始され、1931年(昭和6年)の最終完成に至った。1927年(昭和2年)竣工直後の放水路入口の自在堰陥没事故を復旧する役割を担って、青山士(1878~1963年〈明治11~昭和38年〉)が新潟土木出張所長に任ぜられ、これを復旧、1931年(昭和6年)最終完成にこぎつけた。青年時代に内村鑑三の「後世への最大遺物」などの講話に接し土木技術者になることを天命とし、大学時代、廣井勇のもとで薫陶をうけた青山は、人類のためになる土木事業は何かを考え、大学卒業後、酷熱のジャングルのなか、パナマ運河工事に7 年余り従事した。青山が大河津に建てた記念碑には、日本語とエスペラント語で次の言葉が刻まれている。「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ、人類ノ為メ、国ノ為メ」。そこに、彼の名は記されていない。そこには、名は記さずともその事業は永遠に遺り、それに従事した技術者の努力は必ず報いられるとの信念がみなぎっている。

鉄道建設は明治時代に主要幹線を敷設し終えたが、大正時代に入りその幹線の高度化、および幹線間を結ぶ新線や支線の建設が引き続き活発に行われた。前者を代表するものに、丹那トンネル工事があげられる。軟弱地盤に加え、高圧湧水に取り組まざるを得ず、新技術を開発しながら16年の歳月を要し1934年(昭和9年)ようやく完成した。工事中の1922年(大正11年)には、上越線の延長9704m の清水トンネルが、1931年(昭和6年)には欽明路トンネルがそれぞれ鉄道省の直轄工事として着工。さらに1934年(昭和9 年)に延長5361m の面白山トンネルも着工した。
これらのトンネルは、岩石トンネルの技術発展における基礎となった。

2.2.3 大震災復興事業と技術革新

1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災は、当然のことながら土木界にも大きな影響を与えた。復興事業は、全面的に区画整理を施行し、本所、深川(現在の江東区)の低湿地地帯の盛土事業も実施した。区画整理を中心として、街路橋梁の新設改築、公園の新設、河川運河工事などの整備と街区形態の近代化がはかられた。1930年(昭和5年)3月、震災発生後6年半で復興事業は完成し、東京、横浜は現在の近代都市としての体裁を整え、都市の商工業が発展した。その後の復興事業のなかから、都市計画、交通関連技術の飛躍的発展がもたらされた。例えば、大正末期から昭和初期に隅田川に架設された各形式のすぐれた橋梁、1925年(大正14年)に着手された日本最初の浅草―上野間の地下鉄はもとより、道路舗装に関する研究の進歩などはその好例である。
また、デパート業界と共同で4 つの地下鉄駅を建設し、不足しがちな建設資金の補填など、事業推進上の工夫もされた。 

2.2.4 土木学会の講演会と災害調査

1915年(大正4年)5月、土木学会は第1 回の講演会を開催した。以降、講師は本会会員以外に広く他分野に求め、工学系の情報のほか医学、理学、法律、経済、軍事など諸外国事情を含め広範囲にわたり、活発な討議が展開された。
また、関東大震災後、土木学会は帝都復興調査委員会を設けて、災害調査と審議を経て意見書を内閣総理大臣および関係大臣、東京府と神奈川県知事、東京、横浜両市長に提出した。翌年1月、土木学会は震災調査会を設けて、各種土木構造物および施設に関する災害調査と関連資料の収集に当たり、廣井勇を委員長とする70名の委員により、1926年(大正15年)8月に第1巻、1927年(昭和2年)1月に第2巻、同年12月に第3巻を成果として公表した。その内容は詳細緻密を極め、以後の災害調査報告の範となり、関東大震災調査書の中で最も価値あるものとされ、土木学会の信用と権威を広く知らしめた。
明治・大正時代は、導入した欧米技術を消化し、厳しい財政においても土木事業を推進してこそ、中央集権国家体制による近代化の基盤づくりが可能であるとの強い使命感、責任感と自負のもと、国家プロジェクトが推進された。

2.3 昭和初期(1926~1945年)
技術の錬磨と戦争下の土木

2.3.1 恐慌から戦時体制下の土木

土木は、世界恐慌後も「河水統制事業(後の河川総合開発事業)」や弾丸列車と呼ばれた東京―下関間の新幹線建設計画など、産業基盤育成を目指した明治以来の殖産興業・富国強兵政策を支える役割を果たした。恐慌時に一時その発展が足踏みするかにみえた水力開発も、満州事変以後、特に朝鮮北部や満州、北支方面において大規模な事業を開始した。朝鮮北部の水豊ダムをはじめとする電源開発事業は、特に雄渾な計画であった。わが国の技術者は国内外において各種ダム技術を錬磨した。これはやがて昭和30年代に訪れたダムブーム時代が開花する素地となった。その他、戦後復興から高度経済成長時代における開発の花形となった東海道新幹線、臨海工業地帯の造成、高速道路、掘込港湾などの高い技術の原型もしくは素地は、戦前において地道に培われていたといってよい。戦前における土木事業の主流は、こうした産業基盤の育成に置かれ、上下水道や一般道路の国民の生活に直接関わる社会資本整備は遅れており、長く先進国の水準よりも低かった。それは土木事業が、明治以来の殖産興業・富国強兵政策を支える役割を果たしてきたからといえる。また、1937年(昭和12年)から始まった日中戦争によって、土木事業は戦時色を帯び、軍事施設もしくは軍需産業推進のための土木事業へと重点が移っていった。多様な土木事業の長期計画と予算が議会の承認を受けていたにもかかわらず、その予算は軍事費に回り、結果として国土の荒廃が進んだ。

2.3.2 土木技術者の倫理規定と学会活動の拡充

創設時、会員数443名で発足した土木学会は昭和初期には3000 人に達した。こうした会員増を踏まえて、支部設立、示方書作成、国際化への対応、「明治以前日本土木史」(委員長:田辺朔郎)の編纂といった学会活動が拡充された。
また、1937年(昭和12年)、「土木技術者の信条」と「土木技術者の実践要綱」が定められた。わが国の工学系学会には倫理綱領がないなか、土木技術者相互規約調査委員会(委員長:青山士)は、諸外国の技術者規約などを参照しつつ、土木技術者の品位向上、その矜持と権威の保持の意を体し、技術者への指針として、他の学会に先駆けて技術者の倫理綱領をまとめた。

2.4 戦後復興期(1945~1955 年)
国土復興を支えた土木

2.4.1 戦後の経済危機の克服と国土保全

国土荒廃と経済混乱状況下において、元来資源の乏しいわが国は国内資源の有効利用と国土開発に頼らざるを得なくなった。そのため、技術開発と国土の計画的開発が強く要請され、並々ならぬ意欲と決意をもって、国土が再建された。
最初に着手された土木事業は、連合国軍のための設営土木工事であった。連合国軍の設営土木工事は、住宅建設に伴う整地・造園・道路・上下水道・港湾施設・鉄道引込線から飛行場などの軍事施設まで多岐にわたる建設工事であった。1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて全国的に巨額の資金が投じられ、建設業者に発注が集中した。連合国軍設営土木工事は、短期完成の強制、下請制度の廃止要求を伴い、資材の不足、食糧難、輸送難のなかで建設業者は困難にあえいだ。反面、虚脱状態の建設業界に対するカンフル剤となった。こうした状況はまた、建設業者にとっては米国流の最新施工技術・建設機械に接する機会になるとともに、米国流の合理的請負契約慣習を学ぶ機会ともなった。
1873年(明治6年)の設置以来、土木行政を司ってきた内務省は、連合国軍総司令部の指示により、1947年(昭和22年)に廃止された。一方で、土木技術者を中心とした技術者の地位向上運動を通じ、1946年(昭和21年)には、全日本建設技術協会(全建)が発足し、1948年(昭和23年)1月には、内務省国土局と戦災復興院が統合して建設院が設置され、同年7月、建設省に昇格した。
その後、戦争によって荒廃した国土には災害が続いた。1945年(昭和20年)9月・枕崎台風、1946年(昭和21年)12月・南海道大地震、1947年(昭和22 年)9月・カスリーン台風、1948年(昭和23年)6月・福井大地震、9月・アイオン台風、1953年(昭和28年)6月・西日本水害、9月・台風13号が襲来し、全国各地に大きなつめ跡を残した。防災体制も不十分だったため、日本の国土と国民に与えた損害も大きかった。戦後から1959年(昭和34年)伊勢湾台風までのこの時代、死者・行方不明者が1000 人を越える自然災害が集中的に発生した。わが国は台風、地震、火山噴火などの災害に常に脅かされる宿命にある国土であるにもかかわらず、戦時下に社会資本整備を怠ってきたことからこのような被害が生じたといえよう。
1949年(昭和24年)には、カスリーン台風の災害を契機として内務省に設置された治水調査会によって主要直轄水系10河川の治水計画の答申がされ、治水に水資源開発を含めた多目的ダム方式への転換が行われた。1950年(昭和25年)5月には国土総合開発法が公布されたことに伴い、河水統制事業は「河川総合開発事業」と改称され、事業量も飛躍的に増大した。集中的に国土保全事業を行ったこともあり、大規模な自然災害は減少し戦後復興の基盤が構築された。

2.4.2 国土の復興

1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争による特需と輸出増は、日本経済を急速に立ち直らせた。1952年(昭和27年)には電源開発促進法が公布、これに基づいて電源開発株式会社が設立され、佐久間・奥只見・田子倉など、未開発電源が次々に開発された。戦災により焦土と化した市街地の整理と復興も急務だった。1945年(昭和20年)、戦災復興院が設置され、戦災復興計画のもと1946年(昭和21年)、特別都市計画法が公布された。これに基づいて、全国102都市、2万8000 ha の事業が実施された。交通事業に関しては、1949年(昭和24年)、まず日本国有鉄道が公社として発足。1952年(昭和27 年)には道路整備特別措置法が制定され、有料道路制度が始まった。東京国際空港が業務を開始したのもこの年である。翌1953年(昭和28年)には、道路整備費の財源等に関する臨時措置法が制定され、ガソリン税が道路財源として用いられる契機となった。道路は飛躍的に整備され、さらには昭和30年代の高速道路などの建設を促進する素地が築かれた。この年、港湾整備促進法も制定され、海陸の交通事業の基盤が整っていく。以降、1954年(昭和29 年)に道路整備五箇年計画、1961年(昭和36年)には、港湾整備五箇年計画が公表された。
1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約が締結され、翌年1952年(昭和27年)には、わが国が世界銀行に加盟した。以降、世界銀行からの貸出も受けて、黒部第四発電所、東海道新幹線など、電力、基幹産業、交通インフラが整備された。1950年~60年代には主要借入国となり、社会資本整備を行った結果、経済は発展し、最後の借入の調印から24年後の1990年(平成2 年)、借入の完済が可能となった。
戦後の逼迫した電力や住宅、道路の需要に迅速に追随するため、資金確保と効果的な実施のための法整備、さらには米国からの大型機械による施工技術の導入によって、その後の機械化施工の進歩と様々な分野における大型土木工事への道がひらかれた。

2.4.3 学会の顔としての学会誌刊行

戦後、学会創立以来最も重要な出版であり会員へのサービスの根幹をなす学会誌の発刊が困難となり、タブロイド版の土木ニュースが1946年(昭和21 年)11月の第1号から1949年(昭和24年)12月の38号まで発刊された。1950 年からは学会誌が毎月刊行となり、学術研究は学会誌とは独立して1956年(昭和31年)隔月刊、1962年(昭和37年)からは月刊で論文集として発刊された。

2.5 高度成長期(1955~1973 年)
高度経済成長を支えた土木

2.5.1 都市化、工業化のなかの土木

1956年の経済白書は、“もはや戦後ではない”と表明した。戦後復興期から続く社会資本の迅速な整備によって経済成長のボトルネックは解消され、経済成長の道がひらかれた。豊かな資金と技術革新をもって、大型機械化による各種土木事業が急速に発展し、いわゆる“土木黄金時代”を迎えた。
工業発展の糧であるエネルギー生産に、昭和30年代の電源開発の果たした功績は大きかった。1956年(昭和31年)に竣工した佐久間ダムは、全堤体完成までわずか2年4カ月の工期で施工機械化による土木工事スピード化の先がけとなり、工事現場の趣をも一変させた。さらに、地震、破砕帯や断層といったわが国特有の不利な条件の克服に向けた設計理論や施工技術が飛躍的に向上し、重力ダムのみならずアーチダム、ロックフィルダムも次々と建設されていった。1963年(昭和38年)、堤高186m のアーチ式コンクリートダムの黒部ダムが建設された。完成時には「黒四ダム」と呼ばれ、その建設は、スケールの大きさと困難さから「世紀の大事業」として語り継がれ、なかでも破砕帯との格闘は、石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」に描かれている。1956年(昭和31年)から始まったダム建設には当時の金額で513億円の巨費が投じられ、延べ1000 万人もの人手により、実に7年の歳月を経て完成した。
1950年代後半以降、1973年(昭和48年)のオイルショックまでの間も開発ブームは継続し、ビッグプロジェクトを含む土木事業は空前の活況を呈した。1964年(昭和39年)の東京オリンピックを目標として、東海道新幹線、首都高速道路、地下鉄などが建設されたのはもとより、高度経済成長の原動力となったインフラストラクチャーが、都市化に伴う都市諸施設とともに急速に整備された。また、我が国初の掘り込み式港湾を中心とした臨海工業地帯の造成プロジェクトである鹿島港が開港した。さらに、1970年(昭和45年)の大阪万国博をはじめ、沖縄海洋博、つくば科学博、札幌オリンピックなどが、この時代の開発契機となった。
1972年(昭和47年)には山陽新幹線が大阪―岡山間で開通し、東海道に始まった新幹線の全国幹線網整備への第一歩となった。この工事に伴う六甲トンネル以降、新幹線の整備が推進された。それを可能ならしめたのも、明治以来の鉄道トンネルへの執念ともいえる技術開発の蓄積によるものといえよう。1969年(昭和44年)には東名高速道路が全線開通した。これは、以降、全国的に張りめぐらされることになる高速道路網の整備に見通しがつく契機になったといえる。道路建設の伸展は自動車時代を確固たるものとし、必然的に数々の名橋やトンネルを開通させた。また、交通問題、水不足、住宅不足などの都市問題の課題解決に向けて、交通、エネルギー、情報などの技術革新も推進された。大都市における第二次、第三次産業は、農村からの大量の若手労働力を獲得し、高度経済成長を支えた。
高度成長期における集約的、高密度な国土開発と大型土木工事をはじめとする国家プロジェクトは、戦後の沈滞ムードを一掃し、戦後復興から工業化、都市化の時代に続いた住宅、鉄道、上水道、道路の需要に追随した。さらに、経済効率性向上に寄与する高速交通体系、コンビナート、工業団地などが短期間のうちに整備され、戦後復興から続く経済成長「東洋の奇跡」を支えた。

2.5.2 地域格差の是正に向けた全国総合開発計画

1957年「新長期経済計画」および1960 年「国民所得倍増計画」の経済政策により、都市集積の効果と工業発展の経済効率が重視され、太平洋ベルト地帯をはじめとする開発投資を支える基盤整備が進められた。こうしたなか、「日本列島」を対象とした総合的な開発計画策定の気運の高まりを受けて、都市の膨張を抑制し地域間格差を是正するため、1962年(昭和37年)、国土総合開発法に基づいて全国総合開発計画が策定された。具体には、「産業の立地条件および都市施設を整備することにより、その地方の開発発展の中核となるべき」新産業都市と、「工業の立地条件がすぐれており、かつ、工業が比較的開発され、投資効果も高いと認められる地域」であった工業整備特別地域を指定して、拠点開発方式による国土の開発が進められた。
さらに、1969年(昭和44年)、新全国総合開発計画(新全総)が策定された。目標達成のための戦略を大規模開発プロジェクト方式として、高速道路や高速幹線鉄道、港湾、空港、通信網など全国的なネットワークの整備と、大規模工業基地などの産業開発プロジェクトが計画された。
これらの地域における国土開発は、北海道、東北、関東、中部、近畿、中国・四国、九州などのブロック間の地域間格差の是正に大きな役割を担い、都市化、工業化におけるプロジェクトと両輪となって、日本の高度経済成長を支えた。

2.5.3 公害問題の深刻化

昭和30年代の高度経済成長期には、環境の汚染が全国各地で問題になり始めた。1953年(昭和28年)頃から熊本県に水俣病患者が発生し、1955年(昭和30年)には神通川のイタイイタイ病が学会で発表され、四日市公害も問題になり始めた。急速な工業の発展は、各地で大気や水質の汚染、各種公害病の発生をもたらした。1958年(昭和33年)江戸川下流の水質悪化に端を発した漁民と製紙会社との紛争ののち、1959年(昭和34年)公共水域水質保全法が成立した時期より、ようやく公害への法的規制の兆しが現れ始めたが、環境汚染が悪化する速度のほうが早かったことは否めない。1965年(昭和40年)には公害防止事業団も設立された。こうした中、土木プロジェクトの大規模化によって、その自然や社会に与える影響も大きくなり、開発計画の段階より将来関係するであろう災害や公害についての理解が強く要請されるようになった。

2.5.4 土木発展の礎となる技術開発と学会の出版活動

土木施工の機械化・高度化、品質管理概念の浸透、コンクリートをはじめとする材料の進歩など各種土木技術の進歩、土木工学の革新、発展と相まって、高度経済成長期の国土開発が進められた。
1931年(昭和6年)に初の鉄筋コンクリート標準示方書を制定して以来、各種示方書の制定または改訂など学会の出版活動は高度経済成長期を迎えて活発になった。こうした各種小委員会による活動、関連する講習会などの開催が、土木の発展と指導に果たした役割は大きい。

2.6 安定成長期(1973~1991 年)
多極分散型国土と美しい国土形成を支えた土木

2.6.1 三全総から四全総へ

1972年(昭和47年)には田中角栄内閣による日本列島改造論が発表され、国土開発の気運が高まった。地価が高騰し、1973年にはオイルショックによる経済的混乱が生じ、1977年(昭和52年)、第三次全国総合開発計画(三全総)が策定された。三全総は、従来の工業開発優先から「国土の資源を人間と自然との調和をとりつつ利用し、健康で文化的な居住の安定性を確保し、その総合的環境の形成を目指す」ことを目標とした。「大都市への人口と産業の集中を抑制し、地方を振興し、過密過疎問題に対処しつつ、全国土の利用の均衡を図りつつ、人間居住の総合的環境の形成」すなわち定住圏が選択された。
しかし、三全総策定後も社会変動は激しく、1987年(昭和62年)に第四次全国総合開発計画(四全総)が策定された。情勢変化の第一は、出生率の低下による人口動態の変化である。出生率の減少によって高齢者人口の比率が急上昇し、21世紀初頭にはその率が20%を超すと予想された。
また、東京圏への人口の再集中、金融と情報の集中、森林資源の荒廃、地方圏での農業や工業の内容急変、農山漁村の過疎化の進行なども、三全総から四全総への改変の動機であった。四全総は、2000年を目標年次として「多極分散型国土」の形成を目指した。東京圏にのみすべての重要機能を集中しないようにし、多くの都市圏にそれぞれ特色ある機能を分担させた。不足する機能は地域間で相互に補いつつ、十分に交流し合える国土形態を目指すこととした。 

2.6.2 交通網の充実と大規模プロジェクトの完成

1973年(昭和48年)のオイルショックは、わが国の経済に深刻な影響を与えた。公共事業予算はゼロシーリングの時代を迎え、いくつかのビッグプロジェクトをはじめ多くの事業の完成が先送りとなった。こうしたなか、前期から継続していた各種土木事業は次々と完成していった。翌1974年(昭和49 年)には、わが国のトンネル技術の高さを証明する鉄道・道路の二大トンネルが貫通。鉄道トンネルでは、山陽新幹線新関門トンネルの延長18.713 km が貫通した。開業時点ではわが国最長、世界第2位の長大トンネルであり、これにより、翌75年の山陽新幹線開通への目途が立った。特に本州寄りの大断層破砕帯の施工においては、わが国のトンネル技術レベルの高さが示された。道路トンネルでは、中央自動車道恵那山トンネルの延長8500m が貫通。中央アルプスの地表面下1000m での掘削、多くの断層破砕帯の悪地質、高圧湧水など日本でもまれに見る難工事であり、内陸部開発にとっては大きな意義を持っていた。さらに、1981年(昭和56年)には、436ha の巨大人工島の造成プロジェクトであった神戸港ポートアイランドの埋立が竣工し、我が国の国際コンテナ輸送の中核を担う神戸港の機能が大幅に強化された。
エネルギー部門では1979年(昭和54年)、大飯原子力発電所が完成。わが国初の100万kW超の117.5万kW の出力を持つものであった。1981年(昭和56年)には、ロックフィルダムとしてわが国で最も高い高瀬ダムと日本最大規模の出力128万kW の揚水発電所である新高瀬川水力発電所が完成した。
交通部門の成果には、1982年(昭和57年)、東北新幹線、上越新幹線が開通し、新幹線網が充実したことがあげられる。さらに1988年(昭和63年)に竣工した青函トンネルと瀬戸大橋によって、明治以来の国土政策の宿願でもあった、鉄道による四島の連結一体化が実現した。これは、戦後の国土計画が目指してきた国土の均衡ある発展への布石となった。
一方、青函トンネルと瀬戸大橋は、いずれも世界に類を見ないビッグプロジェクトだった。その完成はそれぞれトンネル、橋梁技術の最高峰といえよう。この前年、1987年(昭和62年)には、1994年(平成6年)に完成した関西国際空港が着工。1978年(昭和53年)に開港した新東京国際空港(成田)とともに、熾烈な国際航空路競争の幕開けともなった。1987年(昭和62 年)に国鉄が民営化されたことも、鉄道経営面における重要な変化であった。1966年(昭和41年)から90年(平成2年)までの25年間の統計数字を列挙すれば、1964年(昭和39年)開業の新幹線は1830km に達し、高速道路は1963年(昭和38年)の名神高速道路の部分開通以来、約5000kmに達した。エネルギー設備では、水力は1563万kW から3783万kW へ、火力は2243万kW から1億2525万kW へ、原子力は誕生から3164万kW へとそれぞれ急増した。
1970年代には農山漁村の人口は減少、横ばい傾向にあったものの、各都道府県の人口は増加するなど、多極分散型国土を目指した国土政策と交通網をはじめとする大規模プロジェクトの完成は、人口、雇用、所得、生活水準の地域ブロック間の地域間格差是正に一定の成果をみることができた。 

2.6.3 生活と環境との調和、美しい国土の形成

高度成長期から大型プロジェクトが展開されるにつれ、自然や社会環境に与える影響が重大化していく。事業中止を求める訴訟や、水害などの災害、事故発生の原因を行政責任とする事例が発生するようになった。例えば、1972 年(昭和47年)の梅雨前線豪雨による災害を契機に、水害訴訟が一斉に起きたように、公共事業や災害に対する住民の意識は、1960年代後半から70年代にかけて変化した。こうしたなか、1977年(昭和52年)、河川審議会中間答申において、河川改修とともに、流域対策や被害軽減対策など総合的な治水対策を強力に推進することが示された。以降、保水・遊水機能の確保や洪水氾濫予想区域等の設定、公示などの施策が推進され、流域住民に理解と協力を求める取り組みが続けられた。また、河川改修の成果としては、埼玉県東部の首都圏外郭放水路が、1992年(平成4年)着工し、世界最大級の地下放水路として、2006年(平成18年)完成。首都・東京の安全を支えている。
また、高度経済成長を通じて、80年代には世界有数の経済大国となったものの、狭小な住生活、困難な通勤状況、下水道普及率の低さなど、生活や福祉面ではいまだ低い水準のままだった。深刻な公害を相当程度回避し、所得も増加した段階で、人々は身の回りの生活環境向上を願う一種のゆとりを取り戻したともいえよう。高度経済成長期まで、遮二無二経済成長をめざして、一呼吸して身辺を眺めれば、そこには汚濁し景観として劣化した河川や湖沼、落着きのない都市や道路などがあった。1970年(昭和45年)には、公害関係法制の抜本的整備を目的として、「公害国会」が召集され、積極的な生活環境改善の必要性が示された。また、1973年(昭和48年)のオイルショックを契機として、省資源の気運が高まった。土木は機能至上主義と経済効果優先から、アメニティや美の創造といった生活環境の向上を優先する本来の姿を目指すようになった。こうした社会背景のもと、1970年代半ばから、河川、道路はもとより都市計画などあらゆる土木事業に、やすらぎと心のゆとりを求めるアメニティの導入が試みられ、本来の機能向上との調和が図られた。景観にも配慮し、人々が楽しめる土木空間を設計することが、環境汚染対策とともに新たな課題となり、1980年代にはそのための事業が広く普及していった。水辺空間の環境修復・再生・創造や景観設計、美しく快適な道路、海岸や港づくりにみられるウォーターフロント開発などが進む一方、おいしい水、観光対象ともなる橋梁など、公共事業ソフト化の要素が導入されてきた。
下水道事業の普及における、処理の高度化や資源再利用など下水処理技術の発展が果たした役割は大きい。現在では、均一な開発・都市化による地域の個性喪失などの指摘があるものの、公共事業は、経済合理性一辺倒から、環境の質、生活の質の向上にも配慮がされた事業への転換を果たした。

2.6.4 技術の総合化・高度化と開かれた学会活動

戦後は、土木工学に対する社会的ニーズが高まるとともに、間口は一層広くなり、かつ学問自体も著しい進歩を遂げた。土木学会はこの事態に積極的に対応し、新しい学問分野の委員会を設け、多彩な調査研究や行事を主催するようになった。例えば、高度成長期から環境問題に取り組んだ調査研究活動は、その後の環境保全・修復・再生や地球環境問題における科学技術をリードする大きな成果に結実している。例えば、流域に着目した水の循環とこれに伴う水系の土壌や鉱物などの物質の循環の解析、再現、予測が可能となる「水循環・物質循環モデル」の開発は、現在、気候変動に関する政府間パネル(IPCC:Intergovernmental Panel on Climate Change)をはじめとする国際的な枠組みのなかで、地球温暖化の対策技術や政策の評価、被害想定などの科学的知見に結びついている。このほか、衛星技術を活用したリモートセンシング技術、合意形成やプロジェクトの便益評価の計画技術、景観・地域文化の再生、国際化への対応、公共事業の方法論など、今日の技術の総合化・高度化の素地となる様々な研究が着手、推進された。

土木学会の調査研究は社会の大きな変動とともに多岐にわたり、学問と現場の関係をいっそう密接にしている。その現れの一端が、委託研究の増加である。土木学会への数々の委託研究の中でも、1962年(昭和37年)から1967 年(昭和42年)にかけて、本州四国連絡橋技術調査委員会(委員長:田中豊、青木楠男)は、当時どのルートに架橋すべきかが大きな社会問題となっていた折、地形などの自然条件から児島・坂出ルートを優先させるべき、との見解を示して、世の注目を浴びた。さらに、本四連絡橋に関する様々なテーマごとに、調査研究の結果が発表されている。

2.7 ポスト成長期(1991~2013 年)
世紀の転換期に新たな役割、価値を模索し育てる土木

2.7.1 公共事業批判と地球環境問題に直面する土木

高度成長とその地方部への波及の時代、土木は、ダム・高速道路・新幹線・港湾などの大型構造物を造る技術をもって、国土づくりを推進し、社会からの要求に応えてきた。1994年(平成6年)には関西国際空港が、2005年(平成17年)には中部国際空港(セントレア:Centrair)が開港。また、首都圏航空需要への対応と騒音問題の解消のために、「羽田空港沖合展開プロジェクト」が1980年代から2000年代に実施された。1996年(平成8年)には、コンテナ船の急速な大型化に対応するため、神戸港において、我が国初の水深15mコンテナターミナルが供用されるなど我が国港湾の国際競争力を強化するための整備が進められた。1999年(平成11年)には、「瀬戸内しまなみ海道」が開通し、本四架橋の3ルートが完成した。新幹線網も、1997年(平成9 年)に高崎―長野間の北陸新幹線、2002年(平成14年)に盛岡―八戸間の東北新幹線が開通した。2004年(平成16年)に新八代―鹿児島中央間が開業した九州新幹線は、2011年(平成23年)には博多―新八代間が開業し、鹿児島ルートの全線が開通した。関西国際空港は、その計画、環境対策が評価され、アメリカ土木学会による20世紀の10大プロジェクトのひとつとして「Monuments of Millennium」に選出されている。関西空港のみならず、明石大橋をはじめ、わが国の多くのビッグプロジェクトの国際的評価は極めて高い。その技術は、21世紀初頭の世界各地のプロジェクトで活かされている。

こうした取り組みの一方で、土木界は転換期を迎え、厳しい試練に直面した。長良川河口堰反対運動に端を発した公共事業批判は、単なる「開発」か「環境」かという論点を超えて社会問題化し、それ以後の公共事業批判の先鞭となった。また、2009年(平成21年)には、「コンクリートから人へ」を標榜する民主党政権が成立し、マニフェストにより八ッ場ダムの事業が一時中止となったほか、事業仕分けによる高速道路・スーパー堤防などの大型公共事業に見直し判定を下す様子が報じられた。公共事業批判は、技術問題だけでなく、社会的問題、公共事業の高コスト構造や建設業界の体質への批判、公共事業における意思決定など、公共事業がいかにあるべきかという問題を広く問う機会となった。これらに先立ち、社会資本整備の長期計画は、整備を重点的、効果的かつ効率的に推進するため、事業分野別の計画を一本化し、計画内容を「事業費」から「達成される成果」に転換した「社会資本整備重点計画法」が2003年(平成15年)に施行され、同法に基づく「社会資本整備重点計画」が同年閣議決定された。

環境問題では、1993年(平成5年)、地球環境時代に対応した新たな環境政策を総合的に展開していくため、環境基本法が制定された。また、地球温暖化、地球の水問題、生物多様性など人類共通の地球環境問題をテーマとし、1997年(平成9年)「第3 回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)」、2003年(平成15年)「第3回世界水フォーラム」、2005年(平成17年)「愛・地球博」、2010年(平成22年)「生物多様性条約第10 回締約国会議(COP10)」が開催された。具体的な成果としては、プロジェクト施工時における地球環境への配慮や環境の修復・再生・創造技術の適用、前述の高度成長期から進められた「水循環・物質循環モデル」開発成果の活用などがあげられる。
また、1995年(平成7年)1月には阪神・淡路大震災、2011年(平成23年)3 月には東日本大震災が発生。1995年(平成7年)1月17日、マグニチュード7.3 の兵庫県南部地震が発生し、都市直下で起こった地震であったことから、当時の地震災害としては戦後最大規模の被害を出した。2011年(平成23年)3 月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9.0で日本観測史上最大であるとともに、世界でもスマトラ島沖地震(2004年)以来の規模であり、1900年以降でも4番目に大きな超巨大地震であった。この地震により、特に震源域に近い東北地方の太平洋岸では高い津波が甚大な被害をもたらした。この2つの災害は、人間の営みや近代科学の進歩とともに、巨大化・複雑化する社会の脆弱性に起因する災害・事故に対して、わが国の国土開発と国土保全のあり方、さらには土木技術者のあり方について熟慮を強いる機会となった。現在、システムの冗長性を向上させるなどの安全思想に基づいて、東日本大震災からの復興、南海トラフ巨大地震への備えが進められている。また、2013年(平成25年)、安全・安心に対する国民の関心が高まるなかで、「強くしなやかな国民生活の実現を図るための防災・減災等に資する国土強靭化基本法」が成立した。

わが国は、環太平洋地帯、アジアモンスーン地域に位置し、地震、台風、洪水、土砂災害、火山噴火などの自然災害を受けやすい地域にある。そして、これらの自然災害の脅威に対して急峻な地形と沖積平野とデルタ地帯に多くの大都市が広がった脆弱な国土を克服してきた防災先進国といえる。さらに、防災上の条件克服はもとより、国土が四島にわかれ、非常に細長い国土等の交通条件、その他諸々の不利な条件を社会資本整備によって克服してきた結果、現在の人々の豊かな暮らしがある。

2.7.2 世紀の転換期にある土木

21世紀に入り、日本は人口減少期に突入し、高度成長期に整備された多くの社会基盤施設はその寿命を迎え始めた。世界に目を向けると、グローバル化の急速な進展、中国の台頭をはじめとする国際競争の激化、アジア地域をはじめとする新興国の経済成長、情報技術の急速な進展、さらには前述の地球環境問題への対応などにおいて、土木が果たす新たな役割や価値が模索されている。
こうしたなか、2005年(平成17年)には、国土総合開発法が改正・改称され国土形成計画法として施行された。国土の自然的条件を考慮して、経済・社会・文化等に関する施策の総合的見地から国土の利用、整備および保全を推進するため、「国土形成計画」の策定、その他の措置を講ずることとしている。「景観・環境を含めた国土の質的向上」、「地域の自立的発展を可能とする国土の形成」、「国民生活の安全・安心・安定の確保」、「有限な資源の利用・保全」、「ストックの活用」、「国際協調」の観点が盛り込まれ、これまでの全国総合開発計画をはじめとする量的拡大、「開発」基調を目指す計画から「成熟社会型の計画」へ、国土政策の大きな転換が図られた。また、同年2005年(平成17年)には、「公共工事の品質確保の促進に関する法律」が成立し、「価格と品質で総合的に優れた調達への転換」などを柱とした公共調達諸規定の整備が進められている。各地域における文化・生活・産業の多様性を認め、地域が主体的に自律して、特色ある地域の開発と保全を推進される環境が整備されたところである。

高度成長期までの土木は、国民総生産の成長を重視した経済大国を支える基盤づくりを行ってきた。現在、地球環境問題、社会安全、特色ある地域の多様性を内製化したストック重視、世界に誇れる成熟した経済大国を目指した基盤づくりへの転換が進められつつある。また、様々な分野において技術開発、研究開発の道がひらけている現在、その優先度の評価とその価値の判断にもとづく政策判断も工学、技術の重要課題のひとつとなった。そのために、土木は、公共事業の方法論の変化、多様な主体、技術者個人やその連帯による事業執行、法制度の変革、行財政機構の改革、設計・施工の合理化など新たな歩みとなる変革にも臨んでいる。

この100年の間、明治の近代化、関東大震災、戦争を経て高度成長の時代に突入し、わが国は目覚ましい発展を遂げた。この時代における土木の貢献は大きなものであった。社会が成熟期を迎える今日、地球温暖化問題への対応、災害からの復興や未来への備えをしつつ、持続可能な社会への移行に取り組んでいる。

2.7.3 土木学会の活動の変革

1999年(平成11年)、土木学会は、学会の目的に「土木技術者の資質の向上」と「社会の発展への寄与」を加え定款を改正した。さらに、技術推進機構の発足、倫理規定の制定と改定、アジア土木学協会連合協議会(ACECC)を通じた国際活動と国際センターの設置、行動計画(アクションプラン)の策定、緊急災害対応等の社会支援活動の拡充など、持続可能な社会に向け多岐にわたる取り組みを進めているところである。

2.8 社会インフラの役割

前述のようにインフラの整備が行われてきたのは、その整備が長期にわたって経済活動を活性化させ、人々の生活を豊かにするという効果が期待されてきたからである。移動時間の短縮、輸送費の低下等によって経済活動の生産性を向上させ、経済成長をもたらす生産力効果や、アメニティの向上、衛生状態の改善、災害安全性の向上等を含めた生活水準の向上に寄与し経済厚生を高める厚生効果として、以下の具体例があげられる。 

2.8.1 生産性効果の向上

交通ネットワークの整備により移動時間が短縮される効果が挙げられる。図2.1 は、国土交通省を起点として道路を用いて道府県庁へ貨物を輸送した場合の所要時間を1971年と2010年で比較したものである。高速道路等の整備によるネットワークの充実により、輸送時間は大幅に短縮されたことが見てとれる。

図2.1 東京から各都道府県庁へ貨物を輸送した際に要する時間(平成25年度国土交通白書
図2.2 関東に発着する貨物の流動量の比較(平成25 年度国土交通白書

また、1970年と2010年で全国の貨物の流動件数を比較すると、地域を越えた移動が活発になってきていることがわかる(図2.2)。これは、我が国の産業構造の変化等様々な要因が考えられるが、交通ネットワークの整備により、原材料や製造品等の輸送コストの削減が可能になったこと等から、企業の生産活動が効率的になっていることも一因であると考えられる。

2.8.2 災害安全性向上と衛生状態の改善

戦後間もない昭和20年代から昭和34年の伊勢湾台風までの間、1000人以上の人命が失われる災害が頻発した(図2.3)。我が国は、災害を経験するたびにそれを教訓に防災体制の整備・強化、国土保全の推進、気象予報精度の向上、災害情報の伝達手段の充実等に取り組み、災害脆弱性の軽減、災害対応力の向上に努めてきた。こうした取り組みもあって、平成7年の阪神・淡路大震災までは、毎年の自然災害による死者・行方不明者数は数十名から数百名で推移した。現在、東日本大震災からの復興とともに、南海トラフ巨大地震をはじめとする低頻度、大規模災害への備えが進められている。
下水道はストックが増大するとともに適切な維持管理を実施することで、水環境の改善に大きく貢献してきた。実際、河川の環境基準達成率と下水道普及率の推移を見ると、両者とも年を経るごとに上昇していることがわかる(図2.4)。

図2.3 自然災害による死者・行方不明者数(平成25年版防災白書
図2.4 河川の環境基準達成率(BOD)と下水道普及率等の推移(平成25 年度国土交通白書)

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国内有数の工学系団体である土木学会は、「土木工学の進歩および土木事業の発達ならびに土木技術者の資質向上を図り、もって学術文化の進展と社会の発展に寄与する」ことを目指し、さまざまな活動を展開しています。 http://www.jsce.or.jp/