見出し画像

研究者の習慣と走ることについて

白石 友
国立がん研究センター 研究所 ゲノム解析基盤開発分野

 この度の依頼をいただき、せっかく若い研究者に依頼いただいたのでぜひともお引き受けしたいと思い、すぐに承諾の返事を送った。しかし、よくよく考えてみると、自分は「とある本を読んで科学の面白さに目覚めて、研究者を志した」というような明快で魅力的なストーリーを持ち合わせていない。どちらかというと進路を選ぶ過程で、なんとなく流れでこの世界に迷い込んできたような感じだと思う。企業の中で組織の歯車として働くよりも、研究者の世界の方が自分の性にあっていたということはあるかもしれない。

「生活は大切だけど、つまらないものよ、生活に対しては恐ろしく不まじめで、詩に対してだけシリアスにならなくては、詩なんか書けるわけがないじゃないの。」

『村上龍映画小説集』より

 ここでは、研究をめぐる自分のライフスタイルの変遷について書いてみようと思う。みなさんは、一般的な研究者の生活習慣についてどういった形式のものを思い浮かべるのだろうか?自分の場合は研究を志す初期の頃に、当時の指導教官に「寝ても覚めても研究のことを考えてください」と言われたことを覚えている。上記の引用は、修士課程の時の同級生に勧められて読んだ本、『村上龍映画小説集』の一節で、ずっと印象に残っている。なんとなく、この本で語られる芸術家一般と研究者を重ねてしまい、研究にのめり込みつつ、だらしない生活を送るといったことを、どこかで正当化していたと思う。

 研究者として生存できるかについての危機意識はずっと強く感じていたので、研究室に居る・机に向かっている時間はそれなりに多かった(もちろん他の多くの研究者もそうだと思う)。ただ自分の場合、特にキャリアの当初は、机に向かってもダラダラとネットサーフィンをしながら、自らの中に「神」が降りてきたら仕事を始めるというような有様だった。仕事に取り掛かるスイッチをランダムな事象に任せていて、自分で全くコントロールできていなかった。机に向かう時間もバラバラで、昼夜逆転した生活がしばらく続くということも多くあった。それでも、キャリアの最初の頃は時間が豊富にあったのでなんとかなっていたかもしれない。

 そんな自分も結婚をして子供が産まれた。当然ながら生活を不真面目にするなんてことは、家庭を持つと無理なことだ。規則正しく生活をして、家事・子育てにある程度の貢献をしなければ、一般的には大変なことになるだろうと思う。時間的な制約が格段に強くなった。それでもなかなか自らの生活習慣を変えることができなかった。もちろん頭の中ではこのままではまずいということは理解していたのだが、「決められた時間に集中して仕事をする」ということの具体的なイメージを自分の身体が持ち合わせていなかった。

「継続すること - リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。」

『走ることについて語るときに僕の語ること』

 転機は、もう7年前になるが、シカゴ大学に8ヶ月ほど滞在した時だった。ホストしてくれたMatthew Stephens教授に「生産性を高めるにはどうすれば良いでしょうか?」と言ったような質問をしたことがあった。

 答えは確か3つあった、実は最後の1つは少し曖昧にしか覚えていないので割愛する(というよりあまりきちんと聞き取れてなかったのかもしれない)。ただ、最初の2つははっきり覚えている。

 1つ目の答えは「自分の一番集中できる時間帯を見つけて、そこで一番集中力を必要とする仕事をする」とのこと。彼の場合は、論文や研究費申請書の執筆が一番集中力を必要とする作業であり、それを朝に行うことを習慣つけているらしい。そして、午後はそこまで集中力を必要としない事柄、例えば学生とのディスカッションなどに当てているとのこと。

 2番目の答えは「なんらかのエクササイズをすることだ、そうすると集中力が高まる」とのこと。Matthewの場合は、文章執筆の作業が終わった昼頃に、ランニングをすることを習慣にしていた。

 そういったやりとりと前後して『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んだ。シカゴに滞在中で、できるだけ英語に触れようとしていたこともあり、なんとなく英語版の方で読んだ。英語版のタイトルは『What I Talk About When I Talk About Running』。その後日本語でも何回か読んだが、英語でも比較的読みやすいと思う。そこには自分が受けたアドバイスと非常に重なることが書かれていた。

 シカゴから帰国する時期を前後して、自らのライフスタイルを改造することを試みた。朝早くに起きて、仕事に行く前に1時間ほど走ってから、子供を保育園に預けて職場に向かい、誰もいない職場で論文の執筆や関連の解析作業をするということをしばらく続けてみた。当時の職場では、同僚のほとんどは午後出勤で、午前中はとても静かで集中できた。そういった生活が2年ほどは続いたと思う。「走る」という行為は、長年体に染み付いてしまっていた自らの怠惰な習慣を浄化するために必要なことだったと思う。

 村上春樹氏はこの本や『職業としての小説家』の中で、小説を書くという作業を「肉体労働」と評している。研究にもかなり類似の要素があると思う。研究のアイディアを形にするためには膨大な作業が伴う。詳細に練られた実験を数多く積み重ね、図や文章表現に推敲を重ねつつ落とし込む必要がある。これら一つ一つの処理に膨大な精神的エネルギーが消費される。それに何ヶ月(何年?)も時間をかけて長期的に取り組むことが必要である。走るようになってから、こうした作業の効率が格段に上がったと思う。毎日決められた時間に畑を耕すように、少しずつ着実に研究を進めるイメージを掴むことができてきた気がする。プログラミングをはじめとする自分自身の情報技術も昔に比べると上昇していることも手伝っていると思う。技術は「身体性」につながり、この水準を適切なレベルに保つことは大切だと思う。走ることで様々なレベルの身体性を意識するようにもなった。

 一つの習慣を続けることはやはり難しい。ある時期には外国との共同研究でどうしてもウェブ会議が深夜になってしまって、朝に走ることができなくなってしまった。また、異動で職場環境が変わり、管理職的な仕事が格段に増えたことで、時間を思い通りにコントロールすることが難しくなりつつある。ただ、今でも可能な限り朝にはミーティングを入れずに、論文執筆など、研究を進める時間に当てるようしようとしている。最近はコロナ禍で、時差通勤ということをエクスキューズに朝に職場に行かなくても良い雰囲気になっていることも少しプラスに働いている。外部要因の変化に合わせて試行錯誤は続く。

 もう自分も若手とは到底言えない年齢になり、今後も管理職的な仕事は増えてくるような気がする。簡単なことではないのだが、自分で手を動かすということは続けていきたいし、そのための習慣を確保する努力は続けたいと思う。最近は走ることも週に一回くらいと減ってきた。この文章を執筆した機会に、またライフスタイルを見直してみようと思う。

 最後に『村上龍映画小説集』(この小説にはいくつも印象に残る表現があった)からもう一つ印象に残った表現を引用する。

「それをやってればどこにも行かなくて済むっていうものを見つけなさい、それができなかったら、あんたは結局、行きたくもないところへ行かなければならない羽目になるわけよ」

『村上龍映画小説集』

現代の一研究者の悩みは続く。

紹介書籍

  1. 村上龍『村上龍映画小説集』講談社 1995

  2. 村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』文藝春秋 2007

  3. 村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・バプリッシング 2015

本記事は日本バイオインフォマティクス学会ニュースレター第40号(2021年8月発行)に掲載されたものです。
以下のURLにて、全ての記事を無料でお読みいただけます。https://www.jsbi.org/publication/newsletter/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?