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生きているだけで罪を重ねる話

生きる、という行為は往々にして辛いことです。ぼくもなぜか、まだ若いはずなのに、ずいぶん実感の湧くところです。

人を傷つけない笑いは無い、とよく言われる。傷つけない笑い、の印象があるサンドウィッチマンの富澤さんが、そう言っていた記憶がある。きっと見えない誰かを傷つけているに違いないと、そう仰言る。

別に、これは笑いに限らずとも、だと思う。

人間という生物が、自分も他者も、精神的にも肉体的にも全く、傷つけないで生きていくなんて。まず不可能でしょう?

少なくともぼくには無理な話。そういうのを夢物語と呼ぶのであって。そんなことは、仏とかキリストとか、なんだか心の柔らかそうな誰かだけが出来ること。単なる下衆のぼくには端から無理な話。

時には諦めも肝心なのです。


でもやっぱり引っかかる。

自分で書くべきことではないけれど。ぼくは今までずいぶん、周りの人間から傷つけられて生きてきたように思う。

だから、他人には同じ目に合わせないようにと、そもそも積極的な会話を避けた。無意識のうちに、誰かを傷つけるに決まってるから。

でも、どうにもそれに耐えきれなくて。孤独が辛くて。とうとう、高校に入って口を開いた。

でもそれって事態を良くしてるのだろうか。

ぼくは結局、傷つけられるのが嫌で、傷つける側に逃げたに過ぎないのではないか?

ぼくがあれ程にまで苦しめられたというのに。もう二度と同じ思いはしたくない、と願うのに。その思いを、ぼく自身が他者にさせているかもしれない。

意識的に人を傷つけるつもりなんて無い。当たり前。でも、口を開けば無意識に、他人を傷つけてるんじゃなかろうか。そう、無意識に。怖い。無意識だからこそ、自身への疑念は尽きないのです。

ぼくになんにも言わないで、何処へ、とも、何故、とも知らされないまま、いきなりどこかへ転校していった親しかった友達とか。徐々にぼくから離れていくクラスメートとか。

ねぇ、無意識に傷つけてるからなんじゃないの。ぼくが無意識に、相手を傷つけてるからじゃないの。

ぼくが心底苦しめられたことを、自覚なく相手にしてるんだよ。自分がされて嫌なことを、他人にしてるの。きっと。意図的じゃないから、無意識だから、自分で気付けてないだけなんじゃないの。


こんなんじゃあ、生きること自体怖くなる。重ねたくない罪を、生きているだけで重ねていってるんだって。そんな現実、直視したくなかった。

たぶんこの苦しみ、意図せず他者を傷つけているかもしれない、という、無限に晴れようのない疑念に駆られ続ける苦しみ、は、これからも一生つきまとってくるんでしょう。

やっぱり、生きていくって辛いことです。

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