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競馬雑記帳 極私的京都競馬場の思い出

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JRDB永野昌治です。

京都競馬場は今開催終了と同時に改築に着手、完了は2023年の春、約2年半の休みに入る。
今回改築されるグランドスワンの竣工は1980年で40年前。
私自身、初めて京都競馬場へ行ったのは1982年の夏なので、それ以前のスタンドは勿論知らない。
初めて京都競馬場へ行った当時は、現在のビックスワンと呼ばれる建物はなく、グランドスワン(当時は新スタンドと呼んでいた気がする。)より2回りほど小さい在来館が4角寄りにあり、コース内の大型スクリーンはまだなく、着順掲示板もヨコ型だった。

学生時代は少し競馬から疎遠になった期間もあったが、社会人になってからは京都競馬場へ自転車で行けるところに住んでいた時期もあり、毎週ほど通ったもの。
そんなわけで、90年代の京都競馬には特に思い出が多い。

阪神競馬場が改築のため多くのレースが京都に振替になった1991年。
桜花賞では人気を集めたイソノルーブルがレース前に落鉄。時間を掛けたが、鉄の打ち変えが叶わず、裸足のまま走って5着に。枠連しかない当時で22630円の波乱に。勝ったシスタートウショウは4番人気だったが、2着のヤマノカサブランカは単勝万馬券の13番人気、そのほか、勝ち馬、2着馬と同枠だった馬は全て2ケタ人気の人気薄だった。
発走時刻が大幅に遅れたことで、民放の競馬中継に入らなかったとか。

その2ヶ月後の宝塚記念。前年の有馬記念でラストランだったオグリキャップから続く芦毛伝説として菊花賞馬のメジロマックイーンが登場。同じ馬主のライアンとの対決に。印象に残っているのは、ライアンの鞍上横山典騎手が、返し馬のあと、4角奥のポケットには向かずに3角の坂の頂上あたりで相棒とコミニュケーションを取っていたこと。レースでは早め先頭で出し抜けを喰らわす感じで2~4着の芦毛3頭を押さえ込んだ。この日はレース終了後に馬場解放があったのだが、スタンドから馬場への入口はウイナーズサークルを通っての1メートルほどの扉だけ。よく将棋倒しにならなかったものだ。

その年の秋は、天皇賞でメジロマックイーンの1着降着などいろんな意味で話題も豊富だった。ダビスタの1作目が発売され、競馬ブームがヒートアップするのもこの頃から。
京都競馬場の入場者数のレコードは1995年のエリ女の日らしいが、この年のエリ女の日も凄まじい混雑だった。夏競馬で力を付けたリンデンリリーが岡騎手を鞍上に人気に応えて快勝。しかし、入線後下馬して、これが最後のレースになった。
岡騎手といえばその前年の阪神競馬場改築直前の宝塚記念でオグリキャップの鞍上を任されたが、圧倒的人気に応えられずに2着。当時3年目で「オグリからGⅠはまだ早いと言われちゃいました」と敗戦の弁。ここでGⅠ制覇もそれから1年と少しあとの京都で落馬事故のため帰らぬひととなった。このレースでは1番人気の岡騎手ではなく、他の馬の単勝を持っていたのだ、岡騎手が落ちたときには1番人気が消えたと思って内心喜んだが、事故の大きさに後味が悪かった記憶が。
ただ、その新馬戦を勝った馬を追いかけて3月の中山開催のフラワーCに遠征したりと20代だけあって今から思うと行動力があった。



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