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子ども食堂の包摂性~さまざまな人の居場所に~

第1節  ボランティアサークル


2022年11月から 学習支援や子ども食堂のお手伝いをするサークルに所属している。もともと子ども食堂に興味関心があり、自分も関わりたいと長く思っていたときに、そのサークルの説明会動画を見て、代表の言葉に共感・感動して入会した。

子ども食堂で8ヶ月の赤ちゃんと
触れ合った日。とっても可愛かった


私は高校生の頃から社会問題に幅広く関心があり、大学生になったからにはSDGsや国際協力に関わる活動をしたいと思っていたが、それをサークルでやったところで、社会的なインパクトは小さいだろうと考えていた。小さいことをやって、"自分は社会問題の解決・国際協力に貢献した"と思いたくなかった。そのため、SDGsや国際協力に関係するようなサークルには入らなかったのだけど、夏休みごろになって入っておけば良かったと思った。なぜなら、同じような社会問題に興味のある学生と出会えて「仲間」を作れたかもしれないからだ。学生ができることは限られているとはいえ、そこで他の学生たちと会って話して考えて、一緒に活動する時間は、自分にとって大切なものになる。その視点が入学当初の自分には欠けていたのだろう。

やっぱりSDGsや国際協力に関係するサークルに入りたい、そんな思いを抱えた中、夏休み明けに自分の興味関心にぴったりなサークルに出会った。そのサークルの代表は、子どもの貧困や教育格差といった問題を、個人の問題ではなく社会の構造上の問題と捉えて、

「社会構造的変革を担う若者を増やしたい」

という人だった。コロナ禍で子どもの貧困や教育格差が認知されてきたが、その中でも必ずと言っていいほど同時に、それらは「個人の責任」「その子が頑張らなかったから」と、自己責任で片付けてしまう。そういう日本社会に対して、

その原因を個人や子供に押し付けてしまう風潮が、日本にはまだまだある。なぜ子供の貧困や教育格差が起きてしまうのか、学習環境や人の出会いなど多くの環境に恵まれている子供たちがいる一方で、それらからこぼれ落ちてしまっている子供たちがいるという状況はなぜなのかが、社会でちゃんと認知されてこなかった。全く別の日常生きる人たちの世界が分断されてきた。

と説明した。その上で、サークルを作り活動していくうえでの想いを話してくれた。

「これから社会を動かしていく大学生、学生がこの社会の仕組みがどうなっているのか、たくさんの家事をしながら同時に勉強もしていかなくてはいけない色んな困難や負担を抱えている子どもたちがいることを知り、知ったうえで行動することが大事なのではないか。それが結局この社会を良い方向に、そして一人一人が次世代や子どもたちを想う社会を作り上げていくんじゃないか」

代表のことば

そんなふうに語っていた。その話を聞いてるとき、私の心はキラキラしていたと思う。

すごいなと思った。と同時に、すごく共感できた。環境問題も、人種やジェンダーなどあらゆる差別も、そして貧困問題も、それらは個人が悪いのではなく社会の構造がそうした問題を生み出しているから、構造を変えることが必要なのだという思いを強く持っている。だから、環境保護の文脈で言われる「システムチェンジ」という言葉が好きだ。同じ学部の友達にその話をしたら、「分かる!私も『システムチェンジ』好き!」と言われて、そういうところで意見が合うなんて、とおもしろかった。ちなみにその子は「市民社会」という言葉も好きだそうで、それを聞いて私も「分かる!」と思った。こういう話ができる友達が1人でもいてくれるだけで、心強い。

5歳の子と一緒に折り紙。
説明書なくスラスラ折っていてびっくり


代表のことばは「分かりやすい」話だったのかもしれない。理念や理想を語って、実際にどうアプローチするのか・子ども食堂や学習支援だけで良いのかと。子どもの貧困や教育格差といった問題はそんなに単純ではなくて、様々な要因が絡み合った複雑で難しい問題なのだと思う。でも、大学生という立場から、今の私たちにできること・やるべきこととして、子ども食堂のお手伝いや学習支援は適切な選択で、必要なことだと思う。やる価値があることだと思う。そうした活動を重ねる中で、自分なりに問題意識を持ったり興味関心を絞って、自分なりのアプローチを考えて行動できる人が生まれると思う。というか、私はそうしていきたい。

このように代表の説明会動画を見てから、入会を決めて、副代表との面談を経て、メンバーとして活動を始めた。副代表は2人いるのだけど、2人とも人間性が豊かで、すごい人たちだ。メンバーの一人の先輩が、代表も副代表も「一人一人をよく見れる人たち」だと言っていたのだけど、ほんとうにそうだと思う。そんな方たちと活動できてとても嬉しい。

第2節  子ども食堂での活動

これまでにサークルで子ども食堂に4回、地元の子ども食堂の調理に1回参加した。ここでは、活動の様子を紹介し、感じたことや考えたことを共有しようと思う。

私がサークルで行っている子ども食堂は、15時から始まる。14時になるとボランティアたちが集合して、掃除機やモップで床を掃除したり、机や椅子を並べてウェットティッシュで除菌したりする。切りがいいところで、皆で集まって一人一人 自己紹介をする。子ども食堂の代表の方が、今日来る子どもたちの説明や注意などを話し終わると、調理も同時に始まる。15時になって子どもたちが来ると、紙コップに名前を書いてもらい好きなジュースをとってもらう。小学生たちは、ボランティアや保護者と一緒に、カルタ・ジェンガ・ハンカチ落とし・折り紙・レゴなどをして遊んでいる。最近は風船が人気だ。割れにくいように風船の周りにビニールテープを巻きつけて補強すると、ボールのようになるらしい。ボランティアのおじさんが教えてくれた。

初参加時にもらったお弁当。
わかめご飯はアルファ米という非常食


15時すぎから、我々サークルのメンバーは学習支援も始める。中学生が数人来てくれて、彼らに英語・数学・理科などを教えている。ここに来てくれる子たちは、経済的に苦しい家庭など困難を抱えているようで、塾の代わりに私たちが力になれたらいいなと思う。毎回驚くほど集中力が高く、2時間ずっと勉強をがんばっている時もあった。受験を控えている子には、励ましの言葉をかけて皆で送り出した。

子ども食堂は、子どもたちに「居場所」を提供している。詳しくは分からないけれど何かしらの事情を抱えて困難な状況にある子どもたちに、家庭とは異なる居場所を提供する。地域の人たちが温かく迎え入れて、年の近い大学生が勉強を見て、帰りにお弁当をもらって帰る。ここが自分の「居場所」の一つであると感じてもらえていたらいいな、その一助に私たちの活動がなっていたらいいな、そう思う。

2回目の参加。
カラフルでとってもおいしい四色丼
お土産に ろう学校の生徒が作った
チョコマドレーヌをいただいた^ ^

17時を過ぎると、お片付けが始まる。子どもたちとボランティア・保護者みんなで、おもちゃや机椅子を元の場所に戻す。その頃にはお弁当はすっかり完成していて、70〜90食のお弁当がきれいに容器に盛り付けられて、机に並んでいる。ちなみに子ども食堂の中にはお弁当を有料で提供しているところが多いと思われるが、この子ども食堂では無料で提供している。片付けが終わると、子どもたちや迎えに来た保護者たちは、人数分のお弁当、そして時には野菜のお土産をもらって次第に帰宅していく。ボランティアたちが玄関に集まり、手を振って送り出す。今日も色んな笑顔が見れたたなと振り返る。

子どもたちが帰ったら、ボランティアたちで円になって反省会を行なう。一人一人今日何をしたか、「中学生に理科の問題を解いてもらって、解説を見ながら一緒に復習した」「5歳の子とレゴで動物園やお家を作ったり、折り紙でハートの作り方を教えてもらったりした」など、私は皆さんに共有した。それぞれ何をしてどう感じたか、こうして話さないと知らないままになってしまうから、すごく大切な時間だと思う。子どもと外で鬼ごっこをしたというボランティアからは、「子どもの体力がすごい」という声が上がる。調理をしてくれた大学生は、先日大学での調理実習が終わったそうだが、「やっぱりここで料理するのが一番楽しいです」と言っていた。あぁいいなと思った。子どもたちやボランティアが遊んでいる声や音を背景に、皆がおいしく食べれるお弁当を作ってくれているのだろう、それを調理をする人たちが楽しいと感じていることを知れて良かった。たった1文だけれど、心に残るコメントだった。

3回目の参加。
理科の勉強を中学生と一緒にがんばった日


私がこうして活動をする中で、子ども食堂はもちろん子どもたちの居場所となっている(はず)なのだけど、ボランティアとして参加している自分にとっても、その子ども食堂が「居場所」になっていることに気がついた。そこで学習支援をしている時・子どもたちとレゴや折り紙で遊んでいる時、その時の私は ありのままの私な気がした。取り繕わないで、本来の自分で他者に接することができていると感じた。そしてそんな自分を周りの人たちに受け入れてもらえていると思えた。

きっと私だけではない。同じサークルの仲間も、遊びボランティアも、調理ボランティアも、同じように感じているのではないか。

普段は「お母さん」として料理を作ることが当たり前だと思われて、料理を作っても感謝されない人が、子ども食堂で料理すると、「ご飯作ってくれてありがとう」と子どもたちや保護者から感謝される。自分の料理の技術を他者のために使って、周りから歓迎される・感謝される・存在を認めてもらえる。家庭では味わえない、もしくはもう当たり前になってしまった喜びを、この子ども食堂という場で体験できるのだと思う。

遊びボランティアには、高校生、大学生、社会人、おじさんおばさんと幅広い年代の人たちがいる。彼らも様々な思いを抱えていて、子どもたちと遊んだり他のボランティアと関わることで、子ども食堂を自分の居場所だと感じているかもしれない。そうであったらいいな、と思う。子どもが好きで、子どもたちと一緒に遊びたいけど普段の生活ではできないから、子ども食堂にボランティアとして参加することで子どもたちと触れ合う。または、子どもの貧困や教育格差といった社会問題に問題意識を持ち、その現状を知ったり解決に貢献したいと思って参加している。聞いてないから分からないけれど、色んな人がいると思う。でも皆、子どもたちにとって温かくて楽しい場所を作ろうという想いを持っているのだろう、そういう人たちが集まるからこそ生まれる温かい空間がある。

4回目の参加。たくさんお話しながら
レゴと折り紙で遊んだ日

ボランティアサークルを通して子ども食堂を訪れたことで、その概要が分かり、自分の住んでいる地域で行われている子ども食堂にも参加したいと思うようになった。調べてみると、自分の住む地域周辺だけでも多くの子ども食堂があることが分かり、早速そのうちの一つに連絡をとって参加させてもらった。

地元の子ども食堂に参加して感じたのは、地域との繋がりだ。50代〜60代のおばさんが調理ボランティアとして参加していて、住んでいるところも近く、子ども繋がりで顔見知りの人が多いようだった。代表の娘さんが通っていた保育園で保育士をしていたおばあさんがボランティアとして参加していたり、あるボランティア2人は彼女たちの子どもたちの習い事のピアノが一緒だったことから知り合い、20年以上の仲だという。また赤ちゃんをおんぶして訪れた人は、「私〇〇の裏に住んでるの」と近くのスーパーの名前を挙げながら自己紹介してくれる。こんな身近に子ども食堂に興味を持って活動している人たちが何人もいたんだ! 出会えて良かったなと思った。

ケンタッキーが地域貢献の一環で
提供してくれた 余ったチキンを使って…
チキンとトウモロコシの揚げ物が完成

地元の子ども食堂は、サークルで訪れるところとは違って、子どもたちがおもちゃで遊んだり勉強したりするところはなく、お弁当を作って配布したりフードパントリーを行なったりと食事支援に特化している。ここでは、お弁当は1食300円で提供している。お弁当で使われる食材も、それはそれは地元で作られたものや地元の企業・個人が提供したものが多く使われていて、地産地消でとても良いなとニコニコする。上の写真のように、ケンタッキーが地域貢献の一環で、売れ残ったチキンを急速冷凍したものを近所の子ども食堂などに配っているらしく、そこでもらったチキンをレンジでチンして骨と皮と身を分けて、トウモロコシと一緒に揚げたものがあったり。美味しそう。

フードパントリーの食材

私はといえば、調理ではなくフードパントリーの食材を袋に詰めたり、「自転車はここに停めないで」「自転車は正門に停めてね」などという注意書きのポスターを作っていた。まっさらな白い紙に、ペンで文字を書いて、周りに星やハートなどのイラストを描いて、紙の縁をマスキングテープでデコレーションして…雨に濡れてもいいようにラミネートをかける。それらに穴を開けて紐を通して、現地で門に掛けられるようにした。ポスターの作成が終わると、お弁当の具材が出来上がってきたので、他のボランティアたちと一緒におかずをカップに盛り付けたり、お稲荷さんなどをお弁当に詰めたりした。大量のお弁当におかずを詰める作業は、子ども食堂の調理の第一イメージとして自分の中にあったので、体験できて嬉しかった。

お弁当におかずを詰めていく

この日は節分が近く、メインメニューは恵方巻き。60人分の恵方巻きはさぞかし大変だったと思われるが、きれいに出来上がっていて、他のおかずも詰めるとカラフルでとても美味しそうなお弁当が完成した。

完成したお弁当、節分弁当

お弁当が完成すると、ラベルを貼って大きなケースに詰め込み、車で配布する場所まで運ぶ。配布先では机を並べて、お弁当やフードパントリーを置き、子どもたちや保護者に配布するらしい。30分で売り切れるときもあると聞き、その人気ぶりに驚いた。まだ配布先には行ったことがないため、近いうちに行ってみたい。

計5回の子ども食堂のお手伝いを通じて気づいたこと。それは子ども食堂は、支援される側(子どもたちやその保護者たち)だけでなく、運営側・支援する側の人たちの居場所にもなっている、ということだ。私がそこに自分の居場所を感じられたように。子ども食堂は健常者・障がい者・未就学の子ども・小学生・中学生・高校生・大学生・社会人・高齢者・外国籍の人などなど、様々な人を包摂する場なのだと思う。おそらくすでに色んな役割を担っているし、さらなる可能性を秘めた場であるとも思う。これからも引き続きサークルでの活動を中心に子ども食堂に携わっていきたい。

⚠️今回のテーマの子ども食堂についてのお話は以上です、以下は自分の過去の振り返りなどの蛇足…

第3節  拭えない孤独感

なんかずっと寂しくて、居場所を探しているんだと思う。自分が今の自分のままでいられる場所を、ありのままの自分で他者とつながれる場所を。

2023.2.18

私が子ども食堂に自分の居場所のようなものを見出して、活動している背景には、「孤独感」があると考えている。実際には家族と共同生活していて、大学に通えて少数でも友達がいて、中高の友達とも遊ぶような状況で、側から見たら「孤独」だとは思わないし、事実だけでみたら確かに違うのだけど、自分の実感としてはずっと孤独なのだ。それが悪いとも限らないけど、夏休みや春休みという長期休みの中で嫌でも自分の孤独に向き合わざるを得なくなり、かなり苦しくなった。こうして文章を書くことでその気持ちを消化しようという思いもある。自分語りになるので良かったら飛ばしてください。

春休みはたまに映画を見ている。
話題の映画『茶飲友達』


私は、中学受験をして中高一貫校に通った。
中学1・2年の時は、いわゆる「いつメン」のような友達がいなくて、幅広くみんなと話せるけど特別仲が良い友達がいない、という状況だった。誰かと一緒に行動することに価値があると考える時期に、そうした友達がクラスにいないというのはすごく寂しくて辛くて、一緒に行動するくらい・遊びに行けるくらい仲良い友達が欲しいとずっと思っていた。(そんな中でも仲良くしてくれた人、ありがとう)  

中3になって、クラスで仲良しの友達ができた。修学旅行を機に、その輪が広がり8人のグループでいつも行動し遊ぶようになった。自分がずっと求めていた「友達」ができてすごく嬉しかった。でも同時に、友達がいない辛さを知っているから、もし今後また友達がいなくなっても心の安定を保てるように保険をかけようと、学校以外に居場所を作ることを目指すようになった。そして神奈川新聞が主催している高校生新聞H!P(エイチピー)の高校生記者に応募して、高1から活動を始め、そこで学校の枠を超えた知り合いを作れて世界を少し広げられた。”別に友達いなくても学校外に友達いるもん”って思えて、心強かった。

幸いなことに高1でもクラスで友達ができて、いつも6人グループで行動していた。昼休みはなぜか1年中ハマって毎日のように大富豪をしたし、球技大会ではみんなで全力でシュートしにいったし、研修旅行では深夜2時までお菓子を食べながらたくさん話した。中3と高1のときのグループは、ちゃんとありのままの自分を受け入れてくれる場所だった。ほんとうに友達に恵まれていて、その環境が当たり前じゃないってことに当時からちゃんと気付いていた。

クラス替えして高2になると、一緒に行動できるような仲の良い友達は、驚くほどに誰もいなかった。友達がいない中1・2の時に戻ってしまったと思い、焦り、辛かった。一緒に行動する人を作ろうと頑張ってみたときもあったけど、この時はほんとうにダメで、もう吹っ切って一人で行動するようにした。その時の記憶はまだ鮮明であまり文章にもしたくないのだけど、ロッカーで教科書取り出すのに手間取ってたときに、教室の電気を消されて誰もいなくなった瞬間とかは、「あぁ誰も待っててくれなかったな」って思ったりもした。

そのままクラス替えがなく高3になったのだけれど、選択授業が同じだったからか、高3になってからは一緒に行動する友達ができて、毎日が少しだけ楽しくなった。受験生だったから辛いことの方が多かったけど、でもクラス内に友達がいるというのは、私にとってすごく心の安定につながった。
クラスに友達がいなくて悩んだ時期も、ずっと仲良くしてくれる他クラスの友達が数人いて、その子たちにすごく救われた。友達に関して嬉しいことも苦しいこともあって、なんというか、友達の大切さをすごく実感した6年間だった。

主人公がアセクシュアルの映画『そばかす』
こういう生き方もあるって思えて良かった

こうした経験を通して学んだことは、自分の居場所を複数持った方がいいということだ。居場所を周りの人から与えてもらえないときは、自分で複数の居場所を作ることが大切だ。一つの居場所が居づらくなっても、他の居場所に逃げれるように。逃げることは決して悪いことじゃない。時には生きるために必要な選択だと思う。中高生の頃は、学校・特に自分のクラスが世界の全てだと思い込んでしまって、息苦しくなることがあると思うけど、そんな時期だからこそ、外に繋がりを作って居場所を確保しておくことは本当に大切だと思う。それが健全なつながりであればSNSでもいい。自分がありのままの姿で居心地良くいられる場所があるというのは、心の支えになるし、生きる理由になると思う。

私は第一志望の大学に進めなくて、気持ちの切り替えにすごく時間がかかったのだけれど(入学式前日にようやく大学用のSNSアカウントを作ったし、夏休みまで引きずってた)、とりあえず今はすごく自分の居場所を持てているなと感じる。所属していたバドミントンサークルは、背伸びしないといれないような場所だと感じたから、辞めてしまった(今でも個別で仲良くしてくれてる人ありがとう)。今所属しているボランティアサークルでは、自分が包摂されている実感を持って活動出来ていて、このサークルに入ってよかったなと、良い選択をしたなと思える。

3時間越えのzoomミーティングをしたときは、母親に「そんなことして何になるの?」って怒りながら言われたけど、関係ない。私は、私がここにいたいからここにいる。このサークルに所属して活動することに意味があって価値があると考えているから参加している。賢くて、きちんと言葉で自分の考えを伝えられて、対話ができる先輩たちと関われて、刺激を受けるし勉強になるし、何より楽しい。話を聞いているだけで価値があるって思える。この貴重な期間に、先輩たちからたくさん学んでいきたい。  

コロナ禍の苦しさや葛藤を描きつつ
心温まる映画『散歩時間〜その日を待ちながら〜』

以前高校の友達が、「自分がもっと知りたいって思うほどインスピレーションを受ける人とそんなに出会ってない」と言っていたのだけれど、その点私は今そういう人たちに出会えていると思う。でも、一つのサークルに依存しないように早いところ他の居場所を探さないと、とも思っている。私は今「社会的欲求」「承認欲求」を満たすことに必死なのかもしれない。それらはSNSのいいねを多くもらうことで満たされるようなものではなく、もっと深くて難しいものなんだと思う。自分なりに模索している途中なのだ。

このnoteでは子ども食堂という居場所の包括性に着目してきたけれど、自分を一番受け入れてくれているのは、今所属しているボランティアサークルだったりする。そこで同じように子どもの貧困や教育格差に興味関心・問題意識のある人たちに大学の垣根を越えて出会えて、色んな思いや夢を抱えている他の大学生と話したり、一緒に活動出来たりすること、仲間ができたことが何より嬉しい。あぁ私がずっと欲しかったのは、「友達」というよりも同じことに興味関心を持って話したり活動できる「仲間」だったんだなっていうことに遅いけどようやく気付けて、自分ではかなりの収穫だった。

サークルの親睦会。交流が広がって嬉しい

ボランティアサークルのミーティングをした後、一人で振り返っていて思ったことがある。参加していた先輩たちは、あまり感情を表に出さないんだなと。楽しいとか嬉しいとかプラスの感情もそうだし、葛藤とか怒りとかマイナスな感情もあまり見せないような気がした。私は「楽しみ」とか「嬉しかった」とか感情を言葉にして表現するように(時に意識的に)しているんだけど、ミーティング中にそういう言葉を一切聞かなかったような気がして、あれ?と思った。男性として、感情をあまり表現しない、またはできないように社会化されているのかなって。それで辛い思いをしていないのならばいいのだけど、感情を開放することで楽に生きれたりすることもあるから、少し気がかりに思った。
でも、それは私が今19歳だからそう思うのであって、これからもっと年を重ねて大人になったら、生じた疑問や感情を押し殺してやりすごさなきゃいけないことも増えるのかなって、不安にもなった。

ねぇ大人になるって、色んなことを諦めるってことじゃないよね?自分が感じるさまざまな疑問や感情を抑えて隠して生きるってことじゃないよね?
希望を持って、いろんな感情を表現して共有して生きていくことだって、きっと出来るよね?

2023.1.17

感情って複雑で、向き合うのが難しい。振り返ると自分の根底には、なんかずっと「一人で生きてる」という感覚があることに気づく。サークルや個人的な繋がりを通して、同じような社会問題やその解決の取り組みに興味関心がある人たちと出会って話す体験が続いていて、すごく嬉しいしワクワクするんだけど、そういう繋がりがあってなお、家で一人で考えていると、私はどうしても一人で生きているし生きていかなくてはいけないんだという感覚が押し寄せてきて苦しくなることがある。こんなに一人で生きてるわけじゃないって分かっているのにね。

父親が仕事頑張って十分な生活環境を作ってくれて、母親が料理洗濯などの家事をしてくれて、弟が話し相手になってくれてくだらないことで笑えて、家族のおかげで自分がフルタイム大学生として健康に生活を送れているってことは、ちゃんと理解している。ありがたいな、恵まれた環境にいるな、ってちゃんと思って感謝してる。

でも、そういうことを分かったうえでなお、私は一人で生きてるって思ってしまう。結局人間一人だし、今後も一人で色んなことを決めていかなくてはならないから当たり前なのかもしれないけど、その事実が重くのしかかってくる。素敵な恋をしたら「私一人で生きなくてもいいんだ」って思えるような気がして、でも多分そんなことはないのだろう。

いつだってどこか寂しんだよ。それがこれからも続くんだよ。

その寂しさを受け入れつつ、周りの人との温かいつながりを結んで、自分の居場所を複数持って生活していけば、きっと寂しさを超えて楽しさや生きる喜びを感じられるんじゃないかって、そう思ったりもする。

男性同士の恋を描いた映画『エゴイスト』
「愛は身勝手。」という予告のフレーズが響いた

終わりに

子ども食堂の話からだいぶそれてしまったけど、とにかく私が参加した子ども食堂は、色んな事情・環境の人々を受け入れて、みんなに居場所を提供している素敵な場所だった。それは運営側だけが作り出しているのではなく、参加者みんなでそうした包摂的で温かくて素敵な空間を作り上げているのだと思う。

寂しいときや苦しいときがあっても、人との温かい繋がりを感じられる時間が定期的にあれば、ちゃんと前を向いて生きていけるのかもしれない。これからもサークルの仲間と一緒に子ども食堂や学習支援に参加して、温かい繋がりを作り、ありのままの自分で開放的な心で生きていきたい。そういう生き方が自分にあっていると思う。

最近すごく孤独を感じるのだけど、その中でもそれなりに楽しく生きられてるのかもしれない。

2023.2.24



文章書くの難しかった…ここまで読んでくださりありがとうございました。関わってくださっている皆さん、これからも仲良くしていただけたら嬉しいです

・"断定しない"という私の癖で読みにくかったらごめんなさい
・「子ども」「障がい者」などの表記は自分のこだわりであえて使っています
・誰も傷つけないように注意を払って書いたつもりですが不適切・不十分なところがあったら教えてください

2023.2.28 りお

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