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ペンネーム

 「名は体を表す」や「誰々の名にかけて」というように、私たちにとって「名」は大きな意味を持ちます。それは、生まれた時につけられるものばかりでなく、たとえば、お茶の世界、お花の世界、おどり、歌舞伎、芸者、僧侶、はては故人の戒名にいたるまで、「名前」を大事にする文化はあらゆるところに見つけられます。

 それらの名前は多くの場合、私たちが両親から名を授けられるのと同じように、その世界の宗家や師匠、つまり、その「家」から与えられます。新たに名前を頂くということは、その世界、道に入ったこと、そこに続く歴史を受け継ぐということを意味します。名前ひとつがその伝統や歴史を表す、そしてその伝統や歴史を重んじるからこそ、また、名前を重んじることにもなるのだと思います。

 文士の世界、文筆家たちの世界にもまた別の名前、「ペンネーム」があります。文士の名をつらつらと頭に浮かべながら、私は高校時代のある一幕、

「夏目漱石は漱石で、森鴎外は鴎外、幸田露伴は露伴やのに、芥川龍之介は芥川、太宰治は太宰、三島由紀夫は三島て呼ぶやんなぁ」

 という文学好きの友人の言葉を思い出しました。私たちは文士を呼ぶ時に苗字で呼ぶ場合と、名で呼ぶ場合があり、しかも、ほとんどの人が同じように呼ぶということ、つまり、漱石のことを夏目と呼ぶ人はいない、太宰のことを治と呼ぶ人は稀にしかいません。
 最近、「漱石や鴎外、露伴は雅号である。芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫はペンネームである。」ということを知り、私は、当時のなにげない疑問に不意に解答をもらったような気がしました。「雅号」は知性と感性とがうまい具合に折り合い、世俗とは一線を画した風雅なもので、何かその人にしか無い世界を表しているように思います。

 雑誌に文章を載せてもらうようになってから、私はしばしば、何かいいペンネームはないものかと考えることがありました。ペンネームでものを書く時、恥ずかしい自分を隠すことができる、あるいはその反対に、自分の恥ずかしさをさらけ出すこともできる。けれども、本名のときには思いのままに書けないという、その気持ちが、なんとなく臆病に思えてきて、その時から、私はペンネームについて考えるのはやめることにしました。心構えなく、あれこれ書くより、多少恐ろしいことではあるが、自分の名前でものを言う、それで言えないものは言わない、と割り切ってしまうことにしました。が、ペンネームでも本名でもどちらでも、本当はあまり関係のないことなのです。どちらにしても、自分が書くものは自らの経験によってしか出てこないはず。私は、そのような経験からものを思い、また書きたいと願う一人です。そのために、自分の臆病も受け入れ、認めてしまいたく思います。

 「人生は重荷を背負って道をゆくが如し」といいますが、人間は、重荷がなければ、ふわふわと浮ついてしまって、前には進めないものなのかもしれません。ついつい大きなことばかり言ってしまいたくなる私には、このくらいの重荷がちょうどいいのかもしれない。それで、私はこの情報社会の中では重荷とも呼びたくなるような自分の名前を背負ったまま文章を書くことにしました。が、こんなことは、俗世の人間が考えることで、風雅な文人たちは、そのような重荷をわざわざ背負い続けることなどせず、雅な名前でもって、伸びやかに素晴らしいものを書き遺している。

…そう思うと、やっぱり、私はペンネームが羨ましくなることもあるのです。


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