見出し画像

【短編小説】自分探し、暑い1月の旅

[0]
「父さんって、"自分探しの旅"をしたことはある?」
息子からの突飛な質問に驚いた。まだ小学校のこいつが、そんな単語を知っているとは思わなかったからだ。
「いったいどうしたんだ、お前?」
「この投稿見てよ」
息子が渡したタブレットを見ると、"自分探しをしてる奴はバカしかいない"というタイトルの記事を、インフルエンサーが投稿していた。
"自分探しなんて、非効率でしかない"
これがその人の趣旨だった。多くの「イイね」と共感や理解のコメントに埋め尽くされ、反論の意見はスクロールしていくと下にちょろっとあるだけである。
「えー、何だこの投稿は。俺は好きじゃないな」
「やっぱり?」
息子は少し安心したような顔をして、俺の事を見てきた。
「やっぱりって、どうしたお前」
「俺さ、自分探しの旅をするのが夢なんだ!」
「ええ?そうなのか?」
突然初耳の情報を教えられ、俺は戸惑ってしまう。まだそんな年齢じゃないだろう、自分に悩む事なんてあるもんか。そう突っ込みを入れてみたくなった。
ただ、話をよくよく聞くと、クラスメートの女の子のお姉ちゃんが又貸ししてくれた漫画の影響だと分かった。話を合わせる為に読んでいたのだが、そのうちに自分がハマってしまったらしい。
(これは、その子の事が好きだったのがきっかけかな)
そんな事を心の中でにやにやしつつ考えた。こいつももうそんな年齢か。
「この人の投稿、間違ってるよね?」
「ええ?間違ってるかどうかで言うと、正しいかな。言われてみれば、確かに超非効率だよ」
「そ、そんなぁ」
再び息子は落胆した顔で俺を見た。
「いやいや、非効率なのと、自分が幸せなのは全然違うぞ。というか、俺がやった事あるんだから」
「本当に!?それってどんな?」
息子が前のめりになって俺に話を聞かせろとせがんできた。たぶんこいつが、本当の意味で自分探しをするのはずっとずっと先の事だろうけど、その日に俺の話を思い出してくれると思うと悪くない気がした。
「俺がお前の母さんとの将来を、ちゃんと考えられるようになったもの自分を探したからだよ。今のスーパーで長く働けているのも、思えば旅のおかげで、未練が無くなったからかなぁ」
部屋に差し込む夕日を、俺は懐かしい思いで見つめた。燃え尽きた後に俺を導いてくれる、赤い光。
「懐かしいな、もう十年以上昔か」
あの時、十九歳だった俺は、何十万円もかけて旅に出た。何か自分にしか得られないものがあるんじゃないだろうか、そんな期待を背負ってバッグ一つで飛び出していった。
そして、西日が物語の終わりを告げた時、完全にやりきったという満足感と一緒に、新しい生活を始める勇気を貰ったんだ。


[1]
友達から貰ったサッカーのチケットを持って初めて観に行ったプロの試合、数万人のお客さんの熱気に包まれて、俺はスタジアムの一部となっていた。
中でも、ロスタイムに逆転ゴールを決めた地元チームの背番号13に心奪われ、早速その日ボールを買って遊び始めた。
「絶対にプロになって活躍したい!」
俺はそういう子供らしい夢を持ったスポーツ少年だった。毎朝早く起きて、体力作りに勤しむ。朝日はどこまでも、俺の未来を輝きに照らしてくれるような気がした。
「ちょっとは学校の成績も気にしてよ!」
教育熱心だった母からは何度もそう苦言を呈されたが、三人兄弟だったので俺一人に構っている事は出来ない。他の兄弟たちの面倒を見ている様なスキを見つけては外にボールを蹴りに行き、見つかっては勉強机に向かわされる日々だった。
「あなたの父さんは沢山勉強して、お爺ちゃんの言う事をしっかり聞いて、立派な大学を出て立派な仕事に就いたのよ。あなたも見習いなさい」
母はよく、仕事が忙しく平日も休日も殆ど家にいない不愛想な父の事を引き合いに出して、俺の勉強に発破をかけようとしていた。
しかし、そう言われたところで俺の目標は変わらなかった。立派な鞄と腕時計よりも、サッカー選手たちのスパイクやユニフォームに夢中だった。
憧れの13番がヘアバンドをしていたらすぐに真似したし、「ピッチには右足から入るのがゲン担ぎ」だと聞けば同じことをした。
毎日毎日ボールを蹴っているうちに成果が目に見えてきて、地元では強いクラブのセレクションに合格する事ができた。
このままいけばプロになれるはずだ。そして勉強勉強と煩い母を納得させてやる。そんな事を思いながら、目の前の練習に力を込めていた。

小学校では学校一の天才と言われ、県内の強化選手にも選ばれた。
その時は自分の才能を何も疑っていなかった。地元チームの背番号13は海外にチャレンジしに行き、自分も日本でプロになったら海外に行こう、そんな事を漠然と考えていた。
当時はモテていたから、クラスの一番かわいい子を彼女にする事もできた。大人しい女の子で俺と性格は真逆だったけれど、「俺についていけば日本代表の嫁になれるぞ」と無理やりぐいぐいと迫って、力押しでOKを貰った。
全てにおいて、俺は皆の先頭を走っていたのだ。
けれど中学校になってから、周りの選手もどんどん実力が伸びてきた。自分が努力してない訳じゃない。むしろより本格的なトレーニングをしている。
それなのに、小学校の時に感じた差は縮まるばかりで、次第に焦り始めていた。
俺の大好きな背番号13番はドリブルもシュートも上手い選手なのに、周りの味方を使うのも使われるのも上手いオールラウンダーだった。だから俺もその姿を真似して、満遍なく技術を磨いていく。
だけれども、試合の中で一芸に特化した相手に局面を打開されてしまう様な事が何度もあった。
まずい、何とかしなきゃ。
俺はトレーニングのバランスを変えたり、日々工夫をして上手くなろうとしていたけれど、試行錯誤しているうちにどんどん自分のプレーが分からなくなって、試合の中でギクシャクを感じるようになっていった。
無理に仕掛けるドリブル、合わないタイミングで出すスルーパス、チャレンジするには遠すぎる位置からのシュート、一人で空回りする守備。
弱い相手はともかく、互角の相手にはチームとして勝てなくなっていった。まるで、化けの皮が剥がされている様な感覚。大事な試合で、俺たちは悉く負けていった。
「頼むよ、もうちょっと俺たちの事を信頼してくれよ」
チームメイトからそう言われて、俺は一瞬カッとなった感情が抑えきれずに「じゃあお前らが俺にもっと合わせろよ」と怒ってしまった。
チームの輪の中に気まずい空気が漂って、シンとした空気が張り詰める。その空気に自分が耐えられなくなって、小さな声で「ごめん」と言って、それ以上話し合わなかった。

高校のセレクションでは、憧れだった他県の強豪校に落ち、県内ナンバーワンの強豪校のセレクションにも落ち、県内のそこそこ強いところに入るのがやっとだった。OBの中でプロ入りの実績はかろうじて一人だけ。俺にとってはギリギリの選択だった。
全国的に見たら無名で、このままじゃプロになれないという危機感に支配される。とにかく頑張るしかない、自分にはプロに入る道しかないと、闇雲に練習していった。
中学のチームの中で犯した失敗を高校では犯すまいと、チームに溶け込む事にも努めた。徐々にプレーに落ち着きが出てきて、1年から試合に出れる事もままあった。
だけれども、それじゃあ足りない。プロ入りを確実視されている同学年の連中は、俺のチームよりさらに強い場所でチームの核になっていた。

スポーツ新聞が外国人選手に弾き飛ばされる日本代表選手の写真を使って、日本人選手の弱点を批判していた。
『日本人はフィジカルが弱い』
その時期はそういう論調が多くて、日本代表が海外相手に結果を残せないのは線が細いからだという批判が大半であった。
それであれば自分は体を沢山鍛えれば、他の選手に無い特徴を持つことができると、筋力トレーニングに勤しんだ。試合中のぶつかり合いで負けず、結果を残せるようになっていた。
味方からも頼られる前線の核になっていく。俺も言い合いみたいな事はせずに、味方に気を配り、味方を上手に使いながら連携をして試合を作る術を身に着けた。
だけれども、プロへの道は厳しかった。そもそも、高校が全国大会に行く事すらできなかった。
プロのユースチームが本格的に機能し始めた時期だったので、プロになれる部活の高校生は毎年数十人程度。
今と違ってyoutubeなども流行ってなかった時代、今に比べれば情報ネットワークなんて無いに等しい。
県大会で負けている様なチームまで、プロのスカウトが見に来るわけもなかった。何とかして全国に行かなければ。

そんな想いとは裏腹に、高校最後の県大会は準決勝で負けた。チームで戦おうとして、全員で声をかけあったが、何もさせてもらえない完敗だった。
「最後まで絶対に諦めない」
強い想いを持って臨んだはずの準決勝だったのに、相手のエースストライカーがハットトリックを決めた後に悠々とベンチへ下がっていく姿を見て、ホイッスルの音を聞く前に心が折れた。
決勝戦に向けての温存されたという屈辱。俺は、圧倒的な力を前に無力でしかなかった。

[2]
最後の大会が終わって、プロになる道がどうしても見えない。
「今からでも勉強して、大学に行きなさい」
そう勧めてくる母の言葉に怒りが溜まる。
俺はもっと出来たはずだ。そして、今からでももっと出来るはずだ。
けれど、そんな想いとは裏腹に、何もできないまま、何の話がないまま部活が終わった。
強い大学からの誘いは一切なく、スポーツ推薦枠があるのは聞いたことも無いような地方の大学だけだった。
「大学へ行ってみたら?私はずっと応援するよ」
小学校から付き合っている彼女はそう勧めてくれたが、俺にはそれがどうしてもできなかった。
小さい頃から「絶対にプロになって海外の一流リーグで活躍する。お前を海外セレブにしてやる」なんて言っていた俺が、そんな無名校に行くなんて、白旗を上げているようなものじゃないか。
僅かな可能性はあるだろうが、あまりにも小さすぎて、豆粒みたいだ。
悶々としている間に日々は過ぎていき、日々の自主トレーニングだけは欠かさずやったけれど、それ以外に何をする事もないまま、俺は進路を決められずに高校を卒業した。
周りのチームメイトは就職したり、進学したり、それぞれの道を歩んでいくのに、自分だけが何もせずにいた事に焦りの気持ちしかない。だけれども、最善手が見つけられない。
彼女はそんな俺を献身的に支えてくれようとした。地元に帰るたびに、俺の部屋へとやってきてくれた。
「何かやろうよ、ね?」
けれども、彼女は彼女で都会の良い大学に行ってしまい、何か情けない目で見られている様に感じてしまっていた。
「うっせーな。俺は今やる事を考えてるんだよ」
卑屈になり、刺々しい目で彼女の事を見る。何で女はこういう時に放っておいてくれないのかと、むしゃくしゃして言葉が荒くなる。
「私、別に海外のプロじゃなくても、全然大丈夫だよ」
「は?諦めろって言うのかよ!」
その言葉にキレてしまった。彼女を突き飛ばして部屋を飛び出した。尻もちをついて呆然とする彼女の怯えた目を、俺は直視する勇気がなく、強気を演じながらそのまま家から飛び出して走った。
休日の公園から子供たちのはしゃぎ声が聞こえる横を、足を飛ばして走り抜けた。
走って、走って、あてもなく訳も分からず走り続けた。こうやっているうちに超人的な体力が身につくかもしれない。すぐに息があがる日本代表より、長く走れるようになるかもしれない。
そんなありもしない可能性に縋る。ただただ走って、何かが変えられると思いたかった。
ここがどこかも分からない、もっと分からなそうなところを選んで走る。どんな些細な事でもいい、新しい可能性がほしい!
けれど、自分の限界はいつかやってくる。夕方に県外のとある河川敷まで来たところで膝から崩れ落ちた。
「はぁっ・・・い、いってぇ・・・」
止まった瞬間に、足の裏に激痛が走る。腰のあたりが変にふわふわと浮いたみたいで感覚がおかしい。
黄昏が散歩中の家族のシュルエットを鮮やかに映し出す。その瞬間に突き飛ばした彼女の顔を思い出した。
「何やってんだろ、俺」
俺には可能性があると、そう強く信じながら自分で可能性を捨て、自分で可能性を消し続けていた。
もし今日彼女を突き飛ばした事で別れを告げられてしまえば、プロだけじゃなくて一緒に過ごして生きていく可能性も消えてしまう。子供の笑い声を聞いた瞬間に、人生は一本道なんかじゃない事に気付く。。
夕日が俺に「夢を見る時間は終わりだよ」と告げてくれた。俺の夢が俺の幸せに繋がっていないのなら、夢なんて重荷なだけだと、厳しい眼差しで教えてくれた。
自分の才能と実力の不足を受け入れるしかなかった。

翌朝、東から差し込む光の中を、痛い足を引きずり、何人かの見知らぬ大人に助けてもらいながら、俺は家に帰って来た。玄関を開けた瞬間に響く母の怒鳴り声を脳が遮断して、ぼーっとしたまま自分の部屋を開ける。
「おかえり」
待っていたのは彼女であった。大学を休み、昨日からずっと待っていてくれたのだった。
「ごめん」
一言そう謝って、俺は彼女の頭を撫でた。夜風を浴びて冷えた手に、彼女の温かさが染み渡ってきた。
「俺さ、海外でプロになるって話、もう無理だって気付いた。ごめんな」
「そっか・・・」
それっきり、何も言わないでいてくれたのがありがたかった。今はこうして、甘える事しかできない。それでも、彼女は俺の大きな拠り所になってくれた。

[3]
とりあえず、俺はアルバイトを始めた。週に5回、地元チェーンのスーパーマーケットで品出しをする。
バックヤードには米やらペットボトル飲料なら、重い商品が山積みにされている。これを運んで箱から出して陳列する。
やりがいはなく給料は安めだったけれど、大きな不満もない普通の仕事を淡々とこなしていく。そのうち、地域マネージャーから呼び止められて話を聞かされた。
「どうだ、うちで社員にならないか?」
ちょうど就職状況が好転していた時期だったので、スーパーの現場で働きたがる新卒は少なく、むしろ現場から他の会社の営業などに転職していく様な状態で、現場作業はどこも人手不足だったのだ。
「数年やれば、すぐにチーフに昇格させてやるぞ。もうちょいやれば、三十路前には副店長だ」
「はぁ、いや、いいっす」
今はそんな事考えられなかった。だけれど、サッカーしかやってこなかった自分にこんなオファーが来るなんて夢にも思わなかった。
海外でプロにならなきゃ何もかも終わりだ、そう自分で思い込んでいた時に何も見えていなかった事をひしひしと感じる。
断ってしまったけれど、外の喫煙スペースで煙草をふかしている時に、もしここで働いたらどうなるかを漠然と考える。少し給料が上がるだろうけど、結構労働時間が伸びるだろうな。それでもボーナスとかフクリコーセーとか、色々な話がついてくる事を考えると、今よりずっといいだろう。家に帰って母親にも顔を合わせなくてよくなるかもしれない。だけど、良い大学に行っている彼女が何て言うだろう。
「あ、アノ・・・」
最後の一本を吸っている途中で、後ろからカタコトの日本語が聞こえてきた。振り返ると、栗毛色の青年がもじもじとしていた。
「ああ、あんたは、えっと・・・」
「ジョバンニ、です。高校通ってます」
そばかすを携えた白くて美しい顔が、何か言いたそうにしている。
「何か用?」
「あの、その飾り、サッカー選手のデスよね?」
「ああ。昔好きだったよ」
小さい頃にスタジアムで買った、選手の写真入りの携帯ストラップ。勿論、かつて憧れた地元の背番号13番だ。サッカーを諦めて色々なものを捨てたけれど、何故かこれだけは捨てられなかったのだ。
「ワタシも、彼のファン、です」
「マジで?どこで知ったの?てかあんた何人?」
聞いてみると、ジョバンニはウルグアイ出身で、自国の代表選手を応援しているうちに、海外でチームメイトだった13番のファンになったという。
俺の携帯ストラップには早くから気付いていて、ずっと前から話したかったけれど、恥ずかしくて今までタイミングを伺ってばかりだったそうだ。
それが両親の事情で急にウルグアイに帰る事になり、最後の出勤日である今日、思い切って俺に話しかけてみたと言うのだ。
「もっと早く言ってくれればいいのに」
外国人、それも街ですぐにナンパをし始めそうなラテン系の人たちの中に、そんな恥ずかしがり屋が存在するなんて意外だった。
「あのシュートの落ち着きがたまんないよな!」「インサイドシュート、スキです」「Uターンのムーブからの裏抜け!」「確実にキメます!」
俺とジョバンニはその選手の色々な話をした。夢を諦めてから、悔しくてサッカーの試合なんて全然見てなくて、やってたらすぐにチャンネルを変える様な状態だったのに、ジョバンニと喋っている時はサッカーに対する嫌な感情なんて忘れて、本当に楽しく喋り続けた。
「ジョバンニ、今日で最後なんだろ?ちょっとボールを蹴っていこうぜ?」
仕事終わりの夜の公園、俺は部屋の奥から引っ張り出したサッカーボールに空気を入れ、ジョバンニとパスを回した。彼も中学高校とやってたららしく、それなりに楽しいパスリレーが続いた。
「上手いデスね、強くて速いパス。ウルグアイ人より上手い」
悪い気はしなかった。南米の人にサッカーの事を褒められている、その事実に少し自信を取り戻す。その後3ポイント先取の1on1でドリブルをやる。それなりに鍛えた成果がでて、ジョバンニのプレスや当たりに耐えながら、俺はゴールをかっさらった。
「ジョバンニはさ、帰ってからもサッカーやるの?」
「もうチームも、決めてます。アマチュアでも、ずっとやりたい」
「そっか、俺はもう辞めちゃったからなぁー」
「エエッ!?」
ジョバンニが叫んだ声が、公園の周りの家に反響する。
「おい、どうした」
「いいパス出せるのに、何もしないの、勿体ない!」
なんだ、そんな事かと思った。ジョバンニから見れば、俺は結構上手いらしい。自分自身がプロにばかり目を向けていたから何とも思ってなかったけれど、そうは言っても県内ベスト4のエースだった事を思い出す。
「私の行くチーム、是非来てください!ウルグアイだと、毎週どこかで、試合アリマス。飛び入り、デキます」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血液がぶわっと上がった。夢を諦めたけど、夢を育ててくれた熱い想いは自分の体の中で行き場を無くしてもがき苦しんでいた。
毎日働いているうちに「俺にはもう情熱は残っていない」と思っていたけれど、それは本心じゃない。情熱が残ってないならテレビの向こう側に嫉妬してチャンネルを変えたりなんてしない。
本当に夢と決別したなら、ただの練習がこんなに楽しく感じるわけがない。まだ俺には、やり残した事がきっとあるはずだ。
俺はその日からシフトの量を増やし、別のバイトも始めた。


「父さん、母さん、明日からウルグアイに行ってくる」
数か月後、多少スペイン語を勉強し、バイトを増やして格安航空会社で何とか往復分のチケットを買った俺は、今でくつろぐ両親にそう告げた。
「いきなり、何を言っているの?」
母はきょとんとした顔で聞き返した。ウルグアイに友達がいる事、サッカーの試合に誘われたという事、適当に家に泊めてもらって金は何とかするという事、10日くらいで戻るという事。
「そんな危ないところに行くなんて、今からでもやめなさい!」
母親は猛烈に怒った。ついこの前、ブラジルで働く邦人がバラバラ遺体になって見つかったと言う話を聞いたばかりだと言う。南米=危険というイメージしかなかったようだ。
「俺には、行く事が必要なんだよ!」
「バカな事おっしゃい!大学の推薦も全部蹴って家でゴロゴロしてばかりで、やっと働き始めたと思って少しは安心していたら、今度は危ない国だなんて!あなたはいったいどうするつもりなのよ!あれだけ父さんを見習えと言ったのに!」
父は一流大学を出た後、大手商社で真面目に働き、3人の子供を立派に育てている。今度さらに出世するという話で、2つ目の家を買おうかという事を母に相談している最中だった。
現実と能力に裏打ちされた人生設計、画に描いたような理想的な一本道。母はそんな父の事が好きになったのだから、俺に父の影を重ねるのは当然だったかもしれない。
「父さんも何か言ってよ!」
新聞に目を通していた父が、そっと紙面を畳んで俺を見た。口が堅く、滅多に話すことは無いから、その圧に少し怯んでしまう。
「何故南米なんかへ行く?危ないところらしいが、お前は将来にとって重要なのか?」
父は低く重い声で俺に尋ねた。部活の怖い顧問より威圧感がある。少しの嘘も、全て見破ってしまいそうだ。
「分かんないよ。だけど、俺にとっては、何だか必要な気がするんだ」
答えになっていない答えだった。エリートたちに囲まれて日本をリードする様なビジネスの話ばかりしている父に、こんな子供っぽい感情を理解してもらえるなんて思っていなかった。もし父と母が俺を羽交い絞めにしようとしたら、このまま家を飛び出して空港まで歩いていこう。そんな妄想が頭をよぎる。
「自分探し、か・・・」
父は俺の感情を、綺麗に一言でまとめた。
「ああ、そう、それ!自分探し!」
そうだ、俺は自分の生きる意味が分からなくなって、その答えをどこかに求めていたんだ。
「羨ましいな。行ってこい」
「あなた!」
父の予想外の反応に、叫び声を上げたのは母の方だった。俺はまさか堅物の父が許してくれるとは思わず、いやむしろ後押ししてくれるとは思わず、呆然と立ち尽くしていた。
「この子が死んだらどうするの!そんな恐ろしい国に・・・」
「俺は反対しない。コイツが自分で何にも考えられなくなる方が恐ろしい」
「でも・・・」
母は何か言おうとしたけれど、父は何にも言わず黙り込んだままで、ついに母も折れてしまった。
「ありがとう、父さん、母さん」
家族にこんなに感謝したのはいつ以来だろうか?試合を応援してくれた事、卒業式で泣いてくれた事、それも嬉しかったけれど、今より嬉しい瞬間は思い返して一度も無かった。

ふと、携帯電話に届いたメッセージを確認する。彼女からだった。
「全力で頑張ってね」
少し口下手な彼女からの応援メッセージが、さらに俺の心を熱くさせた。

[4]
「あっつ!」
空港から出た瞬間、襲ってきたのは熱気だった。
ウルグアイの首都、モンテビデオ。
家を出る時に必要だったマフラーは、出来の悪いスポーツタオル代わりにしかならない。ウルグアイは日本とは季節が逆で、1月が一番暑いのだ。
『おーい、ジョバンニ!』
「ああ、久しぶり」
『日本語?』
『ああ、ごめんごめん』
久々に再開したジョバンニは少しだけ背が伸びていて、そして車を悠々と運転できるようになっていた事で、なんというか大人度が増して見える。
生まれて初めての海外、なんというか、色合いが違う。散々「危険だから」と言われた場所であったが、街は綺麗で過ごしやすそうだった。
『時差ぼけは大丈夫?』
『ああ、全然大丈夫だ。明日試合があるんだから、そんな事言ってられないよ』
外の看板を見渡すと、結構な確率でサッカーをモチーフにしたものがある。ウルグアイは人口300万人の小さな国で、俺の住んでいる自治体よりも少し多いくらいだ。
それなのに、ワールドカップで優勝2回。最近でもブラジルやアルゼンチンみたいな人口の多い強豪国を倒して、国際大会で大金星を上げる事もある。
人口比で言えば、おそらく世界一コスパがいい。彼らにとってサッカーは日本よりも身近なものなのだ。
『嬉しいな、こうしてスペイン語で会話できるなんて』
『俺もだよ、ジョバンニ』
ジョバンニの運転する車で、俺たちは住宅街へと向かった。

『おお、噂の日本人!』『サッカー上手いんだってな、ジョバンニから聞いたぞ』「ハジメマシテ、アリガトー」『お前がニンジャなのか?それともオタクってやつなのか?』
明日一緒に試合をするチームメイトに取り囲まれた。背丈は日本人とそんなに変わらないけれど、筋肉や脂肪の付き方は日本人とは異なるのが分かる。そして何より、滝水の様に浴びせかけられるスペイン語の数々。ああ、ここは本当に海外なんだと実感する。
このアマチュアサッカーチーム『ABCクラブ』はウルグアイの街クラブでプロになれなかった選手たちが、楽しみ続けられるようにと作られたものだ。だからちょうど、俺みたいな境遇の人がたくさんいる様なクラブなのだ。
そして明日は『スーペル・リーベル』との親善試合だと言う。
『一緒にぶっつぶしてやろうぜ』
『あ、ああ、よろしく・・・』
ガタイのいいおじさん選手が俺に握手を求めてきた。その間にジョバンニが割って入る。
『ちょっとちょっと、おじさん、マリファナ臭いよ』
『ダメか?』
『日本だと犯罪なの!てかここでも犯罪だけど・・・』
日本だと絶対に聞けないようなやり取り。少し母の心配していた理由が分かった気がした。

翌日、旅の疲れでよく眠れて、完全に回復していた。朝飯は量がものすごく多い味の薄い肉だった。朝から肉なんて、と思ってジョバンニを見ると、顔に似合わず豪快に肉へとかじりついていた。なんてパワフルなんだろう。食べ終わったら少し昼寝をし、起きたタイミングでそのまま、昼下がりに彼の車でサッカー場へと向かう。
モンテビデオの街中は大きなビルが結構建っていて都会感にあふれていたけれど、郊外へ行くとどこまでも続きっぱなしになっている草原に驚く。南米の中ではかなり小さい方だけれども、それでも奥行きが全く違う。
サッカー場についた俺たちは、試合開始30分前だったのに一番乗りだった。
『おい、どうするんだ、これ』
『まぁ、こっちでは30分前集合なんて概念は無いから』
試合開始時間が迫って、ようやく味方と相手の選手たちがぞろぞろとやってきた。選手だけでなく、サポーターらしき人達も何十人か集まってきている。チームの色をあしらった傘やバンテーラ、横断幕などが張り巡らされ、人数は少ないものの高校の公式戦よりも華やかに見えた。
『ここ、アマチュアクラブだよな?あの人たちは、家族か何か?』
『サポーターさ。暇なおじさんたちだよ』
『へぇ・・・』
『その代表格が、ほら、あそこでラッパを吹いている肉屋のおじさん。いつも力強いメロディで、僕たちを応援してくれるんだ』
そのおじさんが俺に気付くとラッパを置き、ワイン瓶を飲みしなががら手を振った。
何もかも、俺の知っている世界じゃない。「時間厳守でお願いします」「会場内での飲酒喫煙はご遠慮ください」、そんなルールで固められた日本に慣れてしまっていたから、マリファナや酒臭い匂いを感じる度に、この青空の先に日本が繋がっているなんて信じられなかった。
『おう、そろそろ試合をやるぞ』
試合を厳格に裁くはずの審判が15分も遅れてやってきた。試合時間に遅れた謝罪をする事もなく、やたら堂々と声掛けをする。
両チームの選手たちが、ぐだぐだとしながら立ち上がり、芝生が剥げてでこぼこのピッチの中へと入った。いつも通り右足からピッチに入ると、巨大なバッタが驚いて飛び出してきた。バッタが不時着したところで、どこにいたのかさらに巨大なカエルがぺろりとバッタを飲み込んでしまう。南米は広いから、生物もパワフルになるのだろうか。
『そう言えば、試合前の練習はしないのか?』
『皆僕と似たり寄ったりのテクニックだから、やっていくうちに何とかなるよ』
日本では必ず設けられていた練習時間が無い事に戸惑う俺に、ジョバンニが苦笑いしながら答えてくれた。そう言えば、俺はチームメイトたちと全く練習をしていない。
俺は少し不安になってきた。「憧れの海外サッカー」と言えば聞こえはいいものの、ウルグアイはヨーロッパにあるスペインやイタリアなどのトップリーグがあるわけではない。有名な選手は何人もいるけれど、それはヨーロッパで活躍する選手が大半だ。
部活時代に感じた試合前のピリピリとした雰囲気はなく、緩い緊張感の中で試合が始まろうとする。正直、もっと戦術などをがちがちに固めて、厳しい練習を行って、シビアな戦いをするものかと思っていた。もしかしたら、自分は間違えたんじゃないだろうか。そんな考えが頭をよぎった。
『それでは試合を開始する』
肉屋のおじさんが吹き鳴らす音痴なラッパと共に、楽しそうな歌声がサポーター席から響く中、試合開始の笛が鳴った。
俺は背番号13の右ウィング。かつて憧れた選手と同じ背番号、同じポジションだ。
『へい、日本人!』
さっそくボランチからボールが供給される。でこぼこのピッチの上で不規則にバウンドするボールをよく見極め、丁寧にトラップして周りを見る。綺麗に収めて、「よし、いける」と手ごたえを掴んだ。相手の左サイドバックが俺に向かってプレッシングをかけにきているのが見えたので、一度後ろにボールを戻した。
「試合開始15分で失点しない事」
高校時代の恩師に耳にタコが出来る程聞いた言葉だ。実際にそれで互角の相手に勝ってきた。最初は慎重に、やるべきことは日本でもウルグアイでも変わらない。
『よけて!』
右サイドバック、つまり俺の後ろのポジションに入ったジョバンニが叫ぶ。何の事だろうと思ったその瞬間、体が宙を舞った。

[5]
ウルグアイにはサッカーに対する異常なプライドがあった。彼らは、ブラジルやアルゼンチンなどの強国に、本気で勝とうとしていた。
知らない人が聞けば、人口がたったの300万人の小国が、何千万、何億人もいる様な国相手に互角に渡り合うなんて不可能だと笑うだろう。
それでも彼らは諦めない。体力でもテクニックでも劣るのであれば、激しさで相手を飲み込んでやろう。
ガラ・チャルーア、「ウルグアイの爪」と呼ばれる激しい球際での競り合いは、ブラジルやアルゼンチンの選手を怯ませる為に磨きこまれた武器である。
その凶暴な爪が、俺の足元を切り裂いた。

『ファウルだ!』
ジョバンニの声が遠くに聞こえたと思ったら、叩きつけられた体がぼこぼこの芝の上を跳ねる。
「な、なんだ」
気付くとプレーは中断され、ABCの選手たちがリーベルの選手を取り囲んでいた。
『何すんだテメェ!』『お前らこそ何なんだ!誰だこの中国人は!』『早く再開しないと殺すぞ!』『バカ!リーベルはバカ!』『バカはABCの方だ!』
俺の頭上ではマリファナの匂いを漂わせた選手たちが、もみくちゃになって言い合いをしていた。
立ち上がると、『シミュレーションだ!』と言いながら、リーベルの選手が胸ぐらを掴んできた。
『い、いや、俺は普通にファウルを受けて』
『何だとてめぇ!』
迫られて焦る俺の相手の間に、ジョバンニが割って入った。
『ふざけるなよお前!日本だったら一発退場だからな!』
驚いたのは、俺に話しかける時ももじもじしていたジョバンニが、相手の選手に殴り掛かる様な勢いで迫っていった事だ。
これがウルグアイの、勝負の世界か。

試合は喧騒の中再開するが、そこからはファウルの応酬だった。ジョバンニが相手を肘で抑えつければ、相手も脛のあたりを思いっきり削ってくる。
ドリブルを仕掛けようとする選手をなぎ倒し、審判の笛に対して猛抗議を行い、やられた側は次のプレーで削り返す。
「いってぇ!」
俺はジョバンニの上りを待ってパスを出そうとしたが、その前にまたもや相手のサイドバックから、一歩間違えれば大怪我になりかねない深いタックルを貰った。
それでも何故か笛はなく、お返しとしてジョバンニが相手の足の甲を踏みつけにかかる。
ファウルの基準が全く分からず、というかファウルが存在しないのではないかと思う程激しい応酬に、俺は面食らってしまった。ボールを持ってもタックルが来るのではないかと怯み、反応が一瞬遅れる。せっかくのチャンスにパスもドリブルもできず、右サイドで停滞してしまっていた。
決して抜けない事はないし、パスのスピードだってついていける。だけれども勝手が違い過ぎる。日本のサッカーは「キツくて苦しい」が、ウルグアイのサッカーは「激しくて痛い」のである。
味方と連携をしようにも、一人一人の距離感が日本よりずっと広い為、自分で正面の敵を何とかするしかないのだ。
気付けば前半は終了し、相手のリーベルが1点リードしていた。
すぐに後半が始まって、またしてもガラ・チャル―アが襲い掛かってくる。少しでも判断が遅れようものなら、狂犬の様に食いついてくる。
『仕掛けて!相手を押し返して!』
ジョバンニの声が聞こえるが、そうは言ってもファウルも取ってくれないのであれば、足元が怖くて仕掛けられない。両足を骨折して歩けなくなった状態で日本に帰ったら、彼女はいったい何て言うだろうか。

「全力で頑張ってね」

彼女のメッセージが彼女の声で再生され、はっと顔を上げた。
「いけね、忘れてた」
俺はタコの様に絡みついてきた相手を体の全てで抑えながら、無理やり前を向いた。そして前に仕掛け始めたところで、相手の深いタックルが入ってファウルになった。
『いいね、その調子だよ!』
ジョバンニからブラボーの拍手が送られる。そうだ、彼女はどんな状況になっても、俺を応援してくれる人だった。だったら、ここでできる事はやり切る事だけだ。
クイックリスタートで素早くゴール前まで放り込む。大好きだった背番号13がよくやっていた意表を突くプレーだ。今まで相手の波に飲まれていた俺がいきなりプレーを再開して、相手のリーベルは誰一人として反応できてなかった。
『よしきた!』
マリファナのおじさんが豪快なボレーシュートを放つ。バーの遥か上に飛んでいったボールを見て、『いや~、惜しい!』と手を叩いていた。どこが惜しいのか全く不明だが、今のプレーで自分のリズムが出始めた。
みぞおちやわき腹を肘や拳で突かれながらも、俺は少しでも前に行こうとした。危ないスライディングタックルを紙一重で交わし、筋肉の塊みたいな相手に押し倒されまいと踏ん張り、シュートエリアまでボールを運び続けた。高校時代にフィジカルを沢山鍛えた、その効果がこの肉弾戦の中で発揮された。
肉屋のおじさんが吹くラッパのテンションが上がり、気付いたら観戦していた子供たちが叩くドラムの重低音が自分の心臓の音と重なる。俺がリズムを出し始めたところで、試合はABCが優勢になりつつあった。
それでも、相手のリーベルは少しでもプレーが切れるタイミングを見計らって、選手や審判を取り囲みリスタートを遅らせ、イエローカードを貰ってない選手たちが次々に遅延行為に参加し、日本では滅多にお目にかかれない量のイエローカードが乱舞された。
さらに、俺が仕掛けるタイミングで観客席から爆竹が鳴り響く。相手のサポーターからの妨害だ。肉屋のおじさんがラッパを放り出し抗議しいく。ピッチ上も客席も滅茶苦茶だ。
リーベルのやり方にイライラさせられるけれど、これがウルグアイの『普通のサッカー』である。
「そりゃ勝てるわけだわ」
俺たちがやってたサッカーはフェアプレーを愛し、ルールに従って勝ちを目指していた。けれど彼らは、勝つためにどんなことでも最大限に利用する。だからブラジルやアルゼンチン相手に粘る事ができるのだろう。
後半ロスタイム、俺は最後の仕掛けでモーションに入った。
『ジョバンニ、俺を感じてくれ!』
『え?』
大好きだった背番号13の、Uターンしてからの裏抜け。俺はジョバンニならこの動きが分かってくれると信じて走った。そして、完全にオフサイドラインを突破したところで、後ろからパスが飛んできた。
「ナイスだジョバンニ!決める!」
この試合初めてシュートコースが見えた。キーパーの脇のあたり、ニアへのシュート。キーパーは横に飛び跳ね、片手一本でボールを防ぐ。
『待ってました!』
マリファナおじさんがボールを詰めていた。確実に枠に入る優しく浮かせたシュート。そのシュートを、相手はキーパーではない選手が手で防いだ。
『はぁ!?』
マリファナおじさんが激高する。当たり前だ、明らかに相手は狙って手で防いだのだ。当然審判からレッドカードとPKを提示されるが、何故か相手のリーベルは、選手全員で抗議をする。いや、キーパーと相手のキャプテンと思しき人物と話し込み、落ち着いてPKを臨めるように時間を作っている様子だった。これもテクニックの一つなのだろう。
『いつまで抗議してるんだよ!』『さっさと再開しやがれ!』
ジョバンニとマリファナおじさんが、目を血走らせてリーベルの選手に掴みかかる。相手の選手が振りほどこうとして、ジョバンニの顎に肘がヒットする。口の中を切ったジョバンニが血をだらだらと垂らすが、それでもお構いなしに掴みかかろうとしていた。客席からの罵声も激しくなり、何故か肉屋のおじさんが半裸のまま味方のサポーターから羽交い絞めにされていた。
かれこれ5分近くプレーが中断した後、最後のPKをマリファナおじさんが蹴る。
『せめて、引き分けにはしねーとな!』
マリファナおじさんは自信満々で蹴り込もうとした。しかし、相手のキーパーが前に詰めて圧をかけてくる。というより、両足がラインから思いっきり飛び出しているので、完全なルール違反だ。
『ああ!』
マリファナおじさんのシュートはまたしても、横へと逸れていった。そして審判の試合の笛が鳴る。試合はそれで終わった。
『ラインから出てただろ!』『審判、どう見てもPKやり直しだろうが!』
まだまだ負けを認めたくない選手たちが審判を取り囲んで抗議する。ただの親善試合なのに、誰もが本気で勝ちたがっていた。
だけれども俺は、何もかも出しきった体を草原みたいなピッチに預け、アドレナリンが切れて襲ってきた全身の傷の痛さに喜びを感じていた。
ウルグアイの奥から、夕日が俺に差し込んでくる。あの日、俺が走り続けた時と何も変わらない夕日の姿だった。「幸せかい?」そんな事を言われたような気がした。
そんな姿を見て俺は、「ああ、幸せだな」と呟いた。沈む夕日を見て、俺は楽しい旅の終わりを感じた。


[6]
俺の長い思い出話を聞かされていた息子は、いつの間にかぐっすりと寝てしまった。
タブレットの画面は付きっぱなしになっていて、"自分探しをしてる奴はバカしかいない"という文字がでかでかと映し出されている。
別にそれでもいい。自分探しは頭が悪くて、ダサくて、かっこ悪くて、非効率的だ。
でも俺は、心の底から幸せだったと、胸を張って言える。
「ただいま。お父様からお便り届いているよ」
妻が会社から帰ってきて、俺に手紙を渡した。父は数年前に定年退職し、母と共に実家に残って暮らしている。
「珍しいな、どうしたんだろう」
裏面でサングラスをかけた爺さんがおちゃらけた表情で、太陽をバックに両手を上げて何かに勝ち誇っている。
スペイン語で『ウルグアイの朝日』と書かれていた。
「父さん!?」
サングラスの陽気な爺さんがよくよく見ると父だった。さらによく見ると、写真の隅っこにインディアン装束の母がいた。
「そう言えば、羨ましいって言ってたっけ」
子供時代に見たことの無い、父の満面の笑み。綺麗な朝日に背中を押され、新しいスタートを踏み出した両親は何を思うのだろう。
そう言えば、ウルグアイは日本のちょうど反対。この朝日が、ここから見る夕日である。差し込んだ光がが気になって外に出てみる。あの時見えたものと同じ、美しい姿。
俺はこの光景を見るたびに、一番の思い出をいつでも思い出すことが出来るんだ。そして、自分の人生に誇りを持って生きていける。
息子よ、お前は旅の中で、どんな人生を見つけるんだい?
できればいつか、父さんにも教えてくれよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?