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神の社会実験・第9&10

9.
ここまでずっと催眠術にかかったように院長先生の話を聞いていたけど、フラミンゴの群れが首を滑稽にフリフリしながら頭をよぎった事で集中が途切れてしまった。確かに、出来損ないのコンテンポラリーダンスなんかよりは、フラミンゴの求愛の舞の方がずっと素晴らしいかも。

それにしても、僕も両親も無宗教なので、これまでの話は結構他人事の様に聞いていた。科学的な様な、哲学的な様な話で、神の思想とかも交えて仮説として結構興味深くはあるけど、何教の信者でもない僕らがこの話を聞くことが、何で代金になるのか不思議だった。まさか、神様自身による布教活動とか?それとも、この話を人類に広めろ、とか?

そんな僕の雑念を見抜いたかのように、院長先生は僕をほんの軽ーく睨んだ。

悪魔が怒ると目が赤く光るだとか、瞳がヤギとか爬虫類みたいになるとか俗に言われるような変化は全くなかったけど、麗しい切れ長の目から鋭い眼光が放たれたとたん、思いがけず薔薇の棘に触ってしまったような衝撃が走った。思わず声を上げそうになって、焦った。美人は怒ると怖いとよく言うけれど、これ程までとは。僕は慌てて背筋を伸ばして、冷や汗をかきかき話に注意を戻した。急いで横目で父と母を確認したけど、気付かなかった様だった。両隣に座っている者に気付かれないほど軽く睨まれてこれだから、本気で怒らせたらどうなる事だろう。想像するのも恐ろしかった。

院長先生は、僕のそんな様子を見て、ほんのり目元を緩めて話を続けた。その目元を確認したとたん、僕は情けないほど安心した。ドッグトレーナーと犬か!と心の中で自分に激しく突っ込んで、苦々しさを忘れるためにも話を聞くことに専念した。


10.
つまり、人間が定義する偉いとか凄いとかは、結局は主観でしかなく、人間の間でしか通用しない。その証拠に、どんなに遺伝子を持っていても、動けても、繁殖できても、大きな脳や自分の意思を持っていても、創造性を多様に発揮できても、結局人間は、自ら定義した上記の「偉い・凄い・特別」のカテゴリーは一つも満たしていない、地球と言うでっかい無機物の塊のお世話になっているではないか。その上、母なる自然が引き起こす様々な災害には、未だに一つも打ち勝てていない。そして、一番決定的なのは、仮に人間が「特別な」存在であったと仮定しても、人類がそのご自慢の「偉さ」や「凄さ」をちゃんと駆使してまともな発展をしているかと言えば、そうではないという事だ。人類は今、確実にその意思や創造性を持って自らを破滅に追い込んでいて、その主たる理由はなんと、何の実質的な価値も持たない「カネ」に対する欲なのである。これを、愚の骨頂と言わずになんと言おう。

自然界において、「流通貨幣」という観念の存在価値は理解できる。生物の進化の中で、細胞共通の「通貨」(エネルギー源)であるATPという物質が発生したように、ある程度組織が大きくなった時に共通の通貨を決めることは、実に便利で有意義である。しかし、人間の作りだしたカネと言う物は、元は実用的な価値のある穀物がその役割を果たしていたが、そのうちにただ単に魅力的な貴金属や装身具などに置き換わり、いつしか手形の様な紙切れや電子通知される数字の羅列となり、何れもそれそのものには何の使い道もない。そんな信用だけでなりたっている、ほぼ架空の貨幣の価値が暴走と言えるまでに高騰しているのは、どういう事なのか。

しかも、そのカネがまっとうな通貨として機能しているかと言えば、実際の労力や資源、或いは能力の投資に見合った対価が支払われている場合は殆どない。事実、毎日の現実よりもカネの幻想に踊らされ、ソーシャルワーカーや看護師や教師と言った、実際に必要不可欠且つ大変な職種には割に合わない低賃金しか支払われず、株トレーダーや銀行員など、居なくなっても誰も困らない職業(アイルランド銀行は70年代に6カ月にもわたるストを決行しているが、誰も困ってくれなかったので、要求が通っていないのにそそくさと業務を再開したらしい)に大枚を与えている。この理不尽さが放置されまくった結果、実に全人類の僅か2%が、世界の富のほぼ50%を所持していると言う、不自然極まりない状態になっているではないか。しかも、残る98%の人類がもう半分の富を仲良く分け合っている筈もなく、全人類の半数が世界の富の僅か1%を侘しくすすりあっている。国は他の国に多額の借金をし、しかし貸した方の国も裏ではあっぷあっぷと言っている、この不可思議な状態はいったいどういう訳なのか。

そもそも、人間社会におけるカネの暴走と、人間が異様に執着する「偉さ」や「凄さ」には、密接な関係があるようだ。そして、その関係とはカネに課せられた役割にある。人類は、文明がある程度繁栄して人口が増え始めると、必ずカネと言うシステムを導入してきた。それは、物々交換では社会全体の経済が潤滑に回らないという理由だけではなく、人々を良く言えば治める、しかし悪く言えば支配する手段として導入されている。つまり、カネは経済と政治を統一した、いろんな意味での権力の象徴となったのだ。そしてそれは、「働きさえすれば」生まれや身分に関係なく誰にでも手に入る、一見とても平等なシステムであり、広く素早く受け入れられた。

しかも信仰と違い、カネは数値化することができる。かつて人々は、その不安を和らげる為に祈り、その信仰の厚さを貴金属で作った偶像やオブジェなどの数や大きさで表す事で、神の加護を約束されていると自分に言い聞かせていた。しかし、カネが登場すると、その所謂価値は定量化ができ、宗教で得られたフワっとした安心感は、より確実な物にすり替わった。その上、信仰心と違い、カネは使うことができる。その購買行為がカネの虚実的価値を確定し、その実用性から、より広く素早く受け入れられた。そして、そのカネと言う実体のない物に価値を見だした人間は、カネを沢山有する人物にもその架空の価値を重ね、何時しかカネを持つ人が「偉くて凄い」と勘違いをし、勝手に勘違いをされた人は更に儲け、そして「カネ=凄い」となり、更にカネの架空的価値を高騰させ、金持ちは過大評価されるという負の連鎖に陥った。尚悪い事に、銀行や政治はそれに便乗して、カネと言うハーネスを着けられた人々に更に拍子を掛け、ますますがっちり社会をコントロールすることに成功していった。そのうちに、その銀行や政府さえもカネの支配下に陥り、カネはもはや手段ではなく目的になってしまっていた。

今や、人間の社会ではカネが全てである。カネが物を言い、カネがなければ人間の社会にはいられず、カネを沢山稼げない者は凡人で、貧乏人はクズで存在している価値もないという風潮になり、カネさえあれば安心と言う反面カネが無ければ不安と言う危なっかしい思想を抱き、ある国では一文無しになるくらいなら死んだ方がましなどと言う者達も現れ、実際、カネは現代の人間の不幸の根源であるとも言えるようになってしまった。

幸せになることはカネを沢山持つ事だという、とんでもない勘違いをした人類は、皆が金持ちになるという蜃気楼を追いかけるようになった。カネを稼ぐことは、それ自体が立派で意義のある事なのだと思い込み、そういう活動を行っている自分は偉いという間違った考えの元に資源を無駄に使い、環境を破壊し、自分自身やお互いを傷つけている。そして、カネを持った時はその時で、ゲームの様に、大金(大きな数値)を手にしたスリル自体に快楽を覚え、更に欲するようになる。その行為がいかに破壊的でも、自分が生涯かけても使い切れない程持っていたとしても、ゲームのスコアを上げるように、数値を増やすためだけに際限なくカネを増やそうとする。そして、正しい所に集まれば人類のためになる資金が下らないビジネスや賄賂に浪費され、社会はさらに荒み、環境は益々破壊されて行く。マスメディアやインターネットの普及により、所謂「サクセスストーリー」が一瀉千里の勢いで広まり、もうカネ信仰の勢いは止まらなくなった。お互いを信用できなくなった人々はカネしか信じられなくなり、更にカネ地位を跳ね上げ、人間関係や病気などカネで解決しない時はまた神に祈り、今や人類にとってカネは神に並ぶ絶対的存在となってしまった。

この「カネイズム」という宗教にどっぷりとハマった人類は、カネと言う概念に囚われ、カネで動く世界と言う狭い視野の中でしか、生きられなくなってしまっている。そして人類が自分たちを過大評価する原因の一つも、ここにある。実体のない物(カネ)の価値は無限に膨らむから、それを駆使している(と信じている)人類のプライドも無限に膨らんでいく。それは、「神の御加護は絶対だから」、「自分は神のために尊い仕事をしているのだから」、即ち「そういう自分は尊い」と言う信仰心と誇りの元に、なんでもしてしまう危ない宗教信者の心理と大差ない。そして、現代社会人のエゴとカネは密接に係わりあっているために、切り離すのは非常に難しいだろう。
こうしてカネが原因で人類が自分たちを滅ぼしていく兆候は、以前からあった。人類の歴史上繰り返されている宗教戦争は、信仰を盾にする教会と言う組織の陰謀で、勿論その根底にはカネがあった。ごく最近でもテロやら何やら頻繁に行われているが、その背景には膨大なカネの動きがあるとされている。そして、ファシズム、軍国主義、はたまた独裁的な共産主義など、全ての不穏な政治活動の根本にも、カネがある。そして今、最も受け入れられている、「カネの下には」皆自由である資本主義社会も、確実に人間たちを滅亡に導いている。

しかし、これも自然の成り行きなのだと神は思っている。なぜなら、どんな生物でも、その環境から得られる資源に対して個体数が大きくなり過ぎると自滅を始める傾向にあるから。例えば、ペトリ皿に培養された細菌が増えすぎると、排出される代謝廃棄物の蓄積や、養分や場所が無くなったせいで菌が死に、死骸から溢れ出た酵素や毒素の濃度が上がって、さらに周りの菌を毒殺する負のスパイラルに至る。もっと複雑な生物の例だと、群れが大きくなり過ぎた旅鼠が新しい住処を探すという本能に駆られて、自己の危機を顧みずに崖から飛び降りたり大川を渡ろうとしたりして沢山の個体が命を落としていく例(これは、自殺と勘違いされていると言われているが、これもまた考え方による。[自殺]を意識していなくても、結果的には本能に駆られた[その状況から逃れたい]という願望からくる自殺的行為をコントロールできずに死んでいるので、人間の[もう死ぬしかその状況から逃れる方法は無い]と行き詰った結果の自殺と変わらない様にも考えられる)などがある。こうした自滅傾向から抜け出すには、変わるしかない。進化してその形態や生理的機能をより環境に適したものにするか、或いは周りの生態系と同化してより効率的な何かを作りあげるか。

人間の場合、テクノロジーの発展によって、「飽食の時代」などと言う言葉が現れるほど食物を大量生産する術を得て、医学の発展により、多くの伝染病を回避できるようになり、高層住宅などの開発によって、狭い土地も限界まで有効活用できるようになったため、論理的にはまだまだ過剰人口の危機を察することなく、増え続けることができる。

しかし、それらのテクノロジーで餓死や病死、スラム街が無くなったかと言うと、そんな事はない。実際にそれらの発明が適応されるのはカネを持つ者達だけのためであり、カネを持たない者達は未だにジョン・スタインベックがほぼ100年前に書き綴った「怒りの葡萄」の様な悲惨な境遇に遭遇しうるのである。カネのある者が選り取り見取りの贅沢をするために大量生産された食物の余りは、市場価値を下げないために安売りや寄付などではなく捨てられ、製薬会社は肥満防止やアンチエイジングなど富裕層の悩みばかりを研究し、元の住人を追いやって建てた建物は会社や富裕層だけに占められている。一方、カネを持たないばかりに賃金・労働力・アイデア・環境資産など、全てにおいて富裕層に搾取されまくっている世界人口の大多数は、精神的にも肉体的にも追い詰められ、とっくに特効薬が開発されている筈の病気に侵され、飢餓に苦しみバタバタと死んでいるのである。その上、環境汚染やストレスによる不妊症に加え、高い養育費が賄えない、或いは高い養育費によって現状の生活水準を落とされたくないという金銭的な理由で少子化が進んでいたりもする。そう。今やカネは、人間が進化することなく過剰人口を「自然に」制限できる手段となっている。住・食・病の生命の三大難を乗り越える知恵を持った人間が、カネと言う自らを制限する手法を作り上げたという事は、やはり人類も自然の法則に従っているという証拠なのだ。

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