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まあるい赤銅色の記憶

一度あったことは忘れないものだよ
すぐに思い出せないだけで

そういえば誰かが言ってたっけ。



タバコをやめて13年半になる。

超音波検査で見せてもらった小さな命。
心拍を確認したあの日、
一生やめないつもりだったタバコを捨てた。

吸いたいとはもう思わない。
子供たちと気兼ねなく遊べる、体調もいい、人と会うのがラクになった。私にとってはいいことばかり。すべて息子のおかげだ。


けれど時々、あの香りが蘇ってくる。
やさしい記憶を連れて唐突に。


私はタバコを吸う人が好きだった。


*

レンくんはバイト先のお好み焼き屋にふっと現れた。彼は常連、私は新入りのアルバイト。実際には私があとから入り込んだ世界だから現れたのはキミの方だと言われるかもしれない。商店街の端っこのビルの2階、細い階段を上がった右側の店、お客さんが少ないのはマスターが無口なせいだけじゃない。入口は狭く、隣は雀荘だ。近寄りにくい雰囲気の飲食店に学生や若いカップルのファンがつくとは考えにくかった。


今日はダメだったよと言いながら入ってきたレンくんは、ポケットに手をつっこみながら一直線にカウンターまで進んでいった。ガシャっという音とともに置かれた小銭とタバコとオイルライター。水と灰皿を届けるとレンくんは少し体をそらせて初めて私に気づいたように頭をちょっと下げた。店に入ってきた時こちらに視線を向けたはずなのに。なぜだか私の方が恥ずかしくなってテーブルを拭きはじめると、いつものでいい?とマスターの声がしてレンくんが前を向き直した気配がした。


高校時代の彼に教えてもらった不思議な空間。別れたあともなんとなく通い続けていたのはモダン焼きという看板メニューがおいしかったからだ。それに外観のイメージに反して店内はいつも清潔で居心地がよかった。だからバイト募集の張り紙を見た時すぐに手を挙げたのだ。友達が紹介してくれたもっと時給の高いウェイトレスを断ってまで。


ふわふわのお好み焼きに焼きそばを乗せ、その横でお好み焼きの直径より少し大きめに薄焼き玉子を焼く。広げた玉子に火が通り切らないうちに焼きそばの乗ったお好み焼きをひっくり返して玉子とくっつける。ぐるりとヘラで一周。焼きそばが飛び出さないキレイな円ができたら表面にソースをたっぷり塗り、左上の方からケチャップを斜め下に向けてかけていく。往復させながら右に移動していき、円全体にかけたら次はマヨネーズ。交差するようにかけ、きれいな網の目ができたら青のりを散らしてフィニッシュ。


程よいスピードで丁寧に作り上げるマスターのモダン焼きは芸術的だった。お客さんが少ないから出せたクオリティだとしても本当に美しくておいしかった。だいぶ後になって大阪にモダン焼きが存在していることを知ったけれど、あの時マスターはオリジナルだと言っていたし、玉子の感じも仕上がりの見た目も本場のものとは少し違うからマスター開発説を信じてあげたいなと思っている。


会社を辞めて研究したんだ、山芋の量もキャベツの刻み方も。卵は1つ、ヘラで黄身を潰してクレープを作るみたいにクルクルっと広げる。その時混ぜすぎない。白身と黄身がハッキリ分かれてる部分があるのがまたいいんだ。

そう説明する時のマスターは別人みたいに見えた。

そんなにこだわりのあるメニューならチラシで告知すればいいのにと一度だけ言ったことがある。でもチラシにお金を使うなら、その分でいい食材を仕入れてお客さんに出したいからと断られた。私は友人や母の知人まで思いつく人すべてを店に呼んだ。ほんの少し売り上げに貢献できただけなのにマスターはとても喜んでくれた。


レンくんは商店街のパチンコか、隣のマージャンで遊んだあとに店に来た。いつもカウンターに座ってマスターと話をして帰っていく。お腹がすいている日はモダン焼きを、そうでもない日はマスターが出すなにかしらを食べていた。いつも1人だった。

ある時マスターが彼の家は歯医者なんだよねと教えてくれた。すごいですねと答えたらマスターは困ったような笑い方をしたのだけど、私にはその理由がわからなかった。でも今なら想像がつく。お金があることと幸せは必ずしも一致しないんだ。


バイトを終えて自転車置き場に行くと1時間以上前に店を出たレンくんがいて、オレと付き合ってくれないかなと言った。自転車で通っていることも彼と別れたこともそういえば話したかもしれない。うなずく私に「よかった」とつぶやいたレンくんの見たことのない表情。受け取ることに不慣れな人だと知ったのはその時だった。


私にタバコを勧めたのはレンくんだ。

強制されたわけではない。吸ったらいいのにと言われただけ。彼女に勧めるなんておかしいとも感じなかったけれど多分、他の人に言われていたら吸っていなかったと思う。


お互いが新しい日常に吸い込まれていくうちに私たちは少しずつ離れていった。悲しい記憶がない別れ。おそらく若すぎたのだろう。お好み焼き屋は移転が決まり、タバコを吸う私だけがそのまま残った。それから一度もタバコを嫌いになったことはない。

レンくんと私は似ていたのかもしれない。不器用で無口なマスターに心を寄せていた私たち。

1人では抱えきれずポロポロこぼしていた思いをマスターは拾い上げてくれた。ある時はレンくんの、ある時は私の。鉄板の上でまあるく整えられていくそれを私たちは笑いながら見つめていた。


*

私はタバコを吸う人が好きだった。

スーパームーンの前日、ふと思い出したあの頃のこと。


皆既月食でまあるい月は赤銅色になったそうだ。
ニュースを見ながらきっとレンくんも笑っている。

なんとなくそんな気がした。


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