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頼り、頼られ、生きていく

起き上がれない。
こんなことが自分におきるとは思っていなかった。
平日はいつも通り。なのに休日になると布団から出られなくなる。何もしたくない。お腹も空かない。音も受けつけない。

***

もう二十年近くも前のこと。有名メーカーの通販カタログ制作に携わった。職場は小さなデザイン事務所だったから、突然決まったその仕事は、会社の柱の一つとなった。

腕の良いクリエイターとはいえなかった私は、それまで、会社では保健係のような立ち位置だと自覚していた。社長からは他社とのパイプ役になるよう頼まれたし、起こった作業トラブルを全員に周知する役にも任命された。夜中まで作業をする私の姿が現場のモチベーションになっていると褒められ、社長のお客さんと一緒に食事もした。後輩たちとのランチはいつの間にか悩み相談会になり、時には恋と仕事とどちらが大事かという答えに困る質問を投げかけられることもあった。

長い時間を経て先方に同行するようになった私と違い、あとから入ってきたデザイナーはすぐ前線に出るようになった。悔しさはなかった。技術力が伴わない自分がほんの少しさみしかっただけだ。他職種から転職した私と違って、明確な意志を持ってデザイナーになった後輩たちは、技術だけでなく目標も高く、純粋にすごいと思った。それに彼らは異質な私のことを大切に扱ってくれたから、さみしさよりも楽しさの方がずっと上回っていた。

私が仕事にしていたのは、先方からの依頼を噛み砕くことや、制作物の趣旨を伝えること。かっこよく言うなら、デザインを組み立てる際のコンセプトワークの部分だった。とはいえ大きな広告代理店とは違って、あくまでも制作サイドの話。印刷会社の営業に同行するデザイナーの一人が、どちらかといえば絵作りより言葉を考える方が得意、と説明するのが一番近いかもしれない。

ある年の繁盛期、社長の元に新しい案件が持ち込まれた。手の空いているデザイナーはいなくて、まず私が話を聞くことになった。こういう言い方は良くないけれど、会社にとっては特にやらなくてもいいような仕事。作業の複雑さが売り上げに見合わない、魅力のない案件ということだ。馴染みの営業の顔を立てるための仕事と言ったほうがいいだろうか。

作業の手が足りないこともあり、私はビジュアルを作り込まずに趣意書に注力する方法でいこうとデザイナーに伝えた。肝の部分だけ絵を作って、ほかは言葉にしてまず一度先方に投げてみようと。それならほぼ私だけで完結できる。その方法で作り上げた資料を営業に渡したあと、案件自体を忘れてしまうほど印象に残らない仕事だった。

思い出したのは数ヶ月後、社長に呼ばれた時だった。そばにいたのは興奮した様子の営業。分厚いカタログを抱え、こちらに右手を伸ばしている。満面の笑みで握手を求められ、混乱しながら話を聞いた。新しく発注を受けたカタログがあったが、今までどんな表紙案を何度出しても首を縦に振ってもらえなかった。そんな時、先日の趣意書を読んだ先方の部長が私に会いたいと言い出した。次回の打ち合わせに同行してくれないか。簡単に言うとそういう内容だった。待ってほしい、提出したのは確かにそのメーカー用の書類だったけれど、カタログとは無関係の小さなチラシ用の趣意書だ。私はカタログなんて作ったこともないし、表紙デザインだってできるはずがない。口ごもる私をよそに、営業は打ち合わせ日を告げて帰っていった。

そこから話は一気に進み、大きな金額の動く商品カタログを引き受けることになった。こうなったらもうやるしかない。社内の優秀なデザイナーは手一杯だったため、テイストがぴったりはまる外部のデザイナーに連絡を取った。私は自分が作業できない分、誰がどんなデザインが得意かという情報だけは多めに持つようにしていた。それが功を奏し、気の合うデザイナーと二人で動けることになった。

実際に始まると、表紙案のほかに企画ページのアイデアや、大まかな流れを決めるような会議にも呼ばれるようになった。同世代の商品担当者とも仲良くなり、知らなかった情報がどんどん集まってきた。振り返ると、あの時得た知識が私のモノづくりに与えた影響はとても大きい。充実した濃い時間だった。

代わりに私が失ったのは時間的な余裕だった。ただでさえ忙しかった毎日に、今までやったことのない仕事が入ってきたのだから、戸惑うことも多く作業時間は膨れ上がる。もちろん、今まで自分が抱えていた別件もおろそかにはできない。

分厚いカタログといっても、カタログ制作実績のないうちの会社が引き受けたのは、表紙や企画ページ、全体統一のためのエッセンス提案までだ。だから社内で案件に携わっているのは私だけで、あとは外部スタッフでまかなえていた。同僚に相談できないことは辛かったけれど、みんなだって忙しいのだ。私は一緒に動いている外部デザイナーとの時間と、社内での保健係を両立することに必死になった。そして気づいた時には、息継ぎが上手にできなくなっていた。

数年間は大丈夫だった。創刊したてのカタログだったこともあり、クライアント自体も手探りだったから、みんなで作り上げる楽しさが支えになっていたこともよかった。でも、私を見つけてくれた部長が異動になると、クライアントの考え方がカタログの質より制作費用を下げることに傾きはじめ、ノウハウや制作オペレーターを大勢抱えた印刷会社が、低コストの提案を持ち込むようになった。競合プレゼンは珍しいことではない。先方が価格を抑えたいという気持ちもわかる。それでも、一緒にやってきた担当者たちの気持ちを思えば、残さなくてはいけないこだわりもあるというのが私の思いだった。

プレゼン前日、私は眠れなかった。資料を仕上げて帰ってきたのが夜中だから、もともと数時間の仮眠予定。焦る必要などなかったのに、眠れない自分を前に冷静ではいられなくなった。数分だけでもと目をつぶっても奥の方で何かがチカチカしているような感覚が続く。結局 一睡もできないまま、スーツを着て先方に向かった。

結果は忘れてしまった。急に担当を外されることはなかったし、デザインや思いにこだわる企画ページの制作はそのあとも続いていたから、一応 成功はしたのだろう。それでも、私の役目は終わったんだな、と思ったことだけは記憶に残っている。

その後、営業は頑張ってくれて、今度は同カタログの中から数百の商品ページを持って社長の元にやってきた。会社的にはありがたいけれど、忙しい社員にとっては嬉しくない作業。ひとまず経験値の高いデザイナーをリーダーにしてチームを立ち上げ、社内ではなく他社のオペレーターに作業を頼むことにした。私は今までのことを基にしたマニュアルを作り、作業を依頼した会社との連絡を取り、先方に疑問の確認をした。別途、商品コピー作りがあったが、ドタバタが終わる深夜まで手をつけられなかった。そんな日は会社にある寝袋で一人眠った。都心のビルの一室。扉の隙間から廊下の音が聞こえてくるような夜は、ただただ怖かった。


ある日曜日、私は突然 起き上がれなくなった。


両親から連絡が入ったのだろう。近くに住む妹夫婦が私を外に連れ出そうと遊びに来た。断る私を見て、最初は疲れているだけだろうと寝かせておいてくれた妹も、毎週続く状況に不安になったようだった。それまではどんなに忙しくても3人で食事やカラオケに出かけてはしゃいでいた姉が布団から出てこないのだ。

数ヶ月の間、ずっと黙って見守ってくれた義弟に「どうした?」と声をかけられた日、私はスイッチが入ったように話し始めたらしい。仕事が好きなこと、みんなが好きなこと、時間がないこと、うまくやれないこと、休みになると何もできなくなること。泣きながら一気に吐き出したのだとあとで聞いた。

薄らいだ記憶の中でもはっきりと思い出せる景色がある。

まとまらない長い話を辛抱強く聞いてくれた二人。私が思いを出し切ったのを確認して、義弟はやさしく言った。

「チビなんだから背伸びすんなよ」

たったひとことだけ。

***

心に真っ直ぐに届けてくれる言葉には不思議な力がこもっている。このひとことが私を変えてくれた。そうだ、そうだった、ちっぽけな私一人で、どれだけのことができるというのだろう。

翌朝、同僚に話を聞いて欲しいと頼んだ。仕事はやり遂げたいけれど、このままでは自分が保てなくなりそうだ、そう伝えるとみんなは驚いていた。私がいっぱいになっているとは思っていなかったらしい。

「もっと早く言えよ」
「今、抱えてる仕事どれ?」
「なに遠慮してんだよ」
「ごめん、気づかなくて」
「代われることある?」

涙と一緒にいろいろな気持ちがあふれ出た。

みんなが軽くしてくれたのは作業だけではない。たったこれだけのことで私の休日はまた動き出したのだから。面と向かって伝えてはいないけれど、長い年月を経た今も義弟には感謝している。

保健係だなんて買いかぶりだった。私が言えなかったみたいに、誰にでも見せない思いはある。意識的にそうすることも、それを自覚していないことも。

人に寄り添うのは本当に難しいことだ。それでも大切な人の力になりたいから みんなその方法に悩むのだろう。正解のわからない私にはただ相手を見つめることしかできない。でも、当たり前のことを丁寧にやり続けることで、大事な見極めができると信じている。そっとしておくべきか、声をかけるべきか。

限界を知るために我慢が必要な場合もある。でもそれは自分の器を知った上でのこと。体や心が悲鳴をあげる前に辛さを外に伝えなければ潰れてしまう。誰かが勇気をふりしぼって出した声を、きちんと拾えるようになるのは自分ができるようになってからなのだ。

偉そうなことを言って、私もまだ練習中だけれど。

いつか上手にできるようになる日まで、保健係は封印しようと思っている。




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