【読書ノート】ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法――哲学的断想』(徳永恂訳、岩波文庫版)―①
この春休みの期間でなんとか通読したので、今後のためにも部分的に内容をまとめておきたいと思います。他の文献もこのような形で随時シェアしてまいります。時々、加筆・修正が入ると思いますがご了承ください。
本文引用について
以下の読書ノートでは、徳永訳(岩波文庫版、2007年)からの引用を行なっている。括弧”()”内に算用数字(0,1,2…)のみ表記してあるものは、基本的にこの文献のページ数に対応している。これ以外の文献から参照等行った際には、括弧内に著者名・出版年・ページ数を併せて表記する。
初版序文
この書全体の中心的な問いは、なぜ人類は「真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(7)というもの。
この問いが難しい理由:「現代の意識に対して、まだまだあまりにも多くの信頼を寄せていたから」(7)。つまり、問いに答えるには、伝統的な諸学科(←自己忘却的な道具化に陥る)を拠りどころとする発想を捨てる必要があった。
アドルノらフランクフルト学派が拠り所としてきたマルクス主義のイデオロギー批判などの方法も、ここで手放さなければならないと言っている(訳注2)。
(学問だけでなく)思想もまた「批判的な本領から逸脱し、現存するものへ奉仕するたんなる手段と化すとき、〔中略〕かつて選び取った積極的なものを、自らの意志に反して、否定的なもの、破壊的なものへと変容させてしまう」(9)。これを「生産の総過程の影響」(9)と言っている。かつて批判力を持っていた思想も、同調へと変容していってしまうことで、「真理は霧消」してゆく(9)。
思想の傾向は文化、教育にも波及してゆく。「支配的な思想傾向との協調を目ざさないような表現は、もはやまったく影をひそめ、そのうえ、使い古された言語が自分の手でやらないことは、社会的諸機構によって確実に補足される」(10)。人々の内外に設けられる「検閲機構」によって、抵抗の意志を奪われていく。この点を強調して論じているのが、第Ⅳ章の「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙――」である。
「啓蒙の自己崩壊」(言いかえとして「自然への頽落(Naturverfallenheit)」)。これは端的には「社会における自由が、啓蒙的思想と不可分」でありながら、しかし同時に「啓蒙的思想はその具体的な歴史上の諸形態や、それが組み込まれている社会の諸制度のうちばかりではなく、ほかならぬその概念のうちに、〔中略〕退行への萌芽を含んでいる」(11)ことを意味している(進歩のもつ破壊的側面)。
当初の「野蛮」への問いから、「啓蒙の自己崩壊」を考察することへと問題が焦点化されたところで、本書の狙いが示される。すなわち、啓蒙が神話へと逆行していく原因は、「むしろ真理に直面する恐怖に立ちすくんでいる啓蒙そのもののうちに求められなければならない」(12)ということを示そうとするのである。アドルノらにとって、神話とは「あいまいであるとともに明瞭」な、「虚偽の明晰さ」をもつ表現であり、それは、言語や思考を用いた「概念の作業」を人々に要求しない(13)。
啓蒙の自己崩壊(あるいは「自然への頽落」)のメカニズムを簡単にまとめると、それは社会の進歩と不可分な関係から生じる。「経済的な生産性の向上は、一方ではより公正な世の中のための条件を作り出すとともに、他方では技術的機構とそれを操縦する社会的諸集団とに、それ以外の人民を支配する計り知れぬ優越性を付与する」(13)。「それ以外の人民」はどうなるか。「個々人は自分が仕える機構の前に消失する一方、前よりいっそうよくこの機構によって扶養されることになる」。最終的には「物質的にはめざましいが社会的にはお粗末な、下層階級の生活水準の上昇は、精神の見せかけだけの普及のうちにその姿を反映している」(13-14)状態になる。「精神が固定化されて文化財となり消費目的に引き渡されるところでは、精神は消失せざるをえない。精細な情報とどぎつい娯楽の氾濫は、人間を利口にすると同時に白痴化する」(14)。(→社会の進歩は人間から精神を奪ってゆく)
経済的・技術的な進歩は人々の生の水準を高めたが、同時に精神を堕落させた、といった言説は、何もアドルノらのオリジナルではなく、1920年代から頻りになされてきた。そこで彼らは、ハックスレー〔オルダス・レナード・ハクスリー 〕(*1)、ヤスパース〔カール・ヤスパース 〕(*2)、オルテガ〔オルテガ・イ・ガセット 〕(*3)などの「価値としての文化」を問題にするつもりはないと、従来の言説との関心が異なることを付け加える(*4)。すなわち、「啓蒙は自己自身について省察を加えなければならない」、「過去の保存ではなくて、過ぎ去った希望を請け戻すこと」を問題とする 。
幸福をもたらすはずの財そのものが、たとえば「社会的全体のなかでそれ自身形而上学になるとき、あるいは現実の害悪を背後に押しかくすイデオロギー的なカーテンとなるとき」(15)、不幸を招く要素となりうる。そのような逆転の生じるいわば臨界を議論の出発点としていく。
[全体の構成と見取り図]
第Ⅰ章「啓蒙の概念」…あとの論文の理論的基礎。
・合理性と社会的現実との絡み合い
・それと不可分の自然と自然支配との絡み合い
を解明する。ここで啓蒙に加えられる批判:(a)すでに神話が啓蒙である。(b)啓蒙は神話に退化する。が、これまで盲目的支配に巻き込まれていた状態から啓蒙を解放することのできる、啓蒙についてのあらゆる積極的概念を準備することができる、という見込み。
(第一補論(第Ⅱ章)と第二補論(第Ⅲ章)は(a)、(b)とリンクする)
第Ⅳ章「文化産業」
・啓蒙が、映画とラジオのうちに典型的な表現を見出すようなイデオロギーへと退化していくこと
を示す。
第Ⅴ章「反ユダヤ主義の諸要素」
啓蒙された文明が、現実には未開・野蛮へと復帰することを取り扱う。「反ユダヤ主義」と一口に言っても、そこにはいくつかの側面があり、各節でそれらの検討を行っている。訳注4にもあるように、アドルノら社会研究所による「反ユダヤ主義」の経験的研究は、エーリッヒ・フロムが主導した1929年の調査(*5)ではないかとされている。
第Ⅵ章「手記と草案」
…弁証法的人間学への展望、といったところか
注
(*1) 1894-1963.イギリスの作家。『すばらしい新世界』など。
(*2) 1883-1969.ドイツの哲学者、精神科医。『精神病理学原論』など。
(*3) 1883-1955.スペインの哲学者。『大衆の反逆』『芸術の非人間化』など。
(*4) たとえばオルテガは『大衆の反逆』で、真のエリート対大衆という構図をとり、精神的な理想像としての「生の哲学」を提唱するが、おそらくアドルノは、そのような理想像――ここでは啓蒙と言い換えても良いかもしれない――そのものをこそ、まず反省の対象とすべきであるという立場を表明しているのだと思われる。
(*5) なお、フロムのこの調査結果は、以下の邦訳で読むことができる。エーリッヒ・フロム著;佐野哲郎、佐野五郎訳『新装版 ワイマールからヒトラーへ:第2次大戦前のドイツの労働者とホワイトカラー』紀伊國屋書店、2016年。
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