静岡・井川方言のフィールドワーク

この note は松浦年男先生が企画されたアドベントカレンダー 2022「言語学な人々」の 11 日目の記事として書かれたものです。

いざ、言語の島へ


私は2019年から、静岡・井川方言の研究に参入している。
学会の懇親会(オンライン)で「感染症の影響から海外でフィールドワークができなくなり、私の研究者人生は終焉を迎えそうだ」と愚痴を言ったところ、ある先生に井川方言の研究を勧められたのだ。
その方曰く、井川はいわゆる「言語の島」と呼ばれる地域で、周囲とは方言が大きく異なるらしい。
近年研究は行われておらず、当該地域の過疎化を考えれば、話者はごくわずかしか残っていないだろうという。
「井川から最も近くに暮らす言語学者は、他でもない、あなただ。絶対にやるべきだ!」となぜか力説された(このあたりの話は国立民族学博物館の広報誌『月刊みんぱく』2021年12月の「ことばの迷い道」にも書かせていただいた)。

いざ、横道へ

話は逸れるが、私は学会の懇親会が大嫌いだ。セクハラまがいの言動や差別的な発言に不快な思いをしたこと数知れず。本当にろくな思い出がない。
このような場で書いてもいいものか判断に迷うが、泥酔した中年男性に「はじめまして!おっぱい!」と、突然両胸を掴まれたこともある…
ここ数年は、加齢により、このようなことに悩まされる機会も激減した。歳をとるのは良いことだ。
コロナ禍で懇親会が軒並みオンラインになり、安堵しているのは私だけではあるまい。

いざ、吊り橋へ!

さて、井川方言に話を戻す。
井川は遠い。距離にすれば自宅から片道80kmほどだが、そのうちの半分以上は山間地に造られた道で、カーブの連続だ。特に接岨峡(せっそきょう)という険しい渓谷に架けられた橋を渡ってから、井川に入るまでの8kmほどの山道は、神経がすり減る。左側は山の岩肌となっており、大小さまざまな石や岩が落ちてくるし、右側は断崖絶壁だ。道幅は狭く、対向車が来れば、互いに睨み合うことになる。
また、井川の集落内も道が細く、私の車(よりによって3ナンバーで車幅もある)は入れない場所が多い。車で吊り橋(↓)を渡らなければならないこともある。揺れが激しく、体感としては震度5ぐらいか。この吊り橋を渡ったところにある集落は、ほとんどがダムの底に沈んでしまったが、数世帯のみ残されており、ここの住人は皆、井川方言の達人だ。吊り橋は恐ろしいが、超えてしまえば、そこは井川方言の楽園なのだ。

車で渡れる井川大橋

いざ、本題へ!


さて、そろそろ言語の話をせねばなるまい。この企画は「#言語学な人々」というハッシュタグと共に立ち上がっていたはずだ。

無アクセント

井川方言にはいくつか特徴がある。
まず、中部では唯一の無アクセント地帯と言われている。
「日が」「火が」、「雨が」「飴が」、「熱い」「厚い」などを読み上げていただくと、高齢者の方は「同じだな」と笑いながら話す。

「日」って言わないんだよ、お天道さん、って言うんだよね。
「飴」も言わない。「アメン玉」って言う。
「熱い」は「あちい」だし、「厚い」は「あつっか」って言うんだよ。
だから、どっちか分からない、なんてことはないんだよね。

調査では、他にも、同音異義語の使用を避けて意思疎通を図っている事例を多く収集することができた。人の言語使用は、どこまでも創造的だ。私が言語の研究に熱中する理由はここにある。

独特の語彙・表現

次なる特徴として、周辺地域とは異なる語彙や表現が多く見られるという点が挙げられる。
とりわけ興味深いのは禁止表現だ。「泣くな」は「ナイソ」、「書くな」は「カイソ」のように言う。
これは、かつて習った古典文法ではないか。
高校生の頃、古文の先生の声が小さく、聞き取るのに難儀した。その声は囁き声のようで、内容に注意を払いさえしなければ大変心地よく、クラス全体が毎回、深い眠りへと誘われていた。
そんな時、先生は「皆(ミナ)… ナ寝ソ… 」と呟いていたため、この文法はよく覚えている。

その他、動詞語頭のハ行音がパ行音になったり(挟む→パサム、へし折る→ペショール)文末イントネーションが独特であったりと、井川方言の特徴を挙げれば枚挙にいとまがない。
この記事を読んでくださった皆様はそろそろ井川に行ってみたくなっているのではないだろうか。

調査協力者のお宅から望む井川湖

方言に関心がなくとも、井川は大変に美しく、観光に適した場所だ。
今すぐ井川に向かってほしい。
今すぐが無理なら明日にでも行ってもほしい。
明日は月曜だが、このコロナ禍だ。
職場や学校に「風邪症状がある」とでも言えば、堂々と休めるだろう。
井川に行ったら、車で吊り橋を渡るのをお忘れなく!


3人の子どもを育てながら、新幹線で大学院に通い、どうにか学者になるという夢が叶いました。どうぞよろしくお願いいたします。