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東海林直人のゴロテマ日本史◇古代5(三律令~京畿内税制)*

※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。

※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです
※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)


820 弘仁格式なる
[ゴロ]三代(さんだい)の 初お目見(めみ)えは 弘仁だ
[句意]三代格式のうち、初お目見え、すなわち初登場は弘仁格式だ、という句。
[解説]嵯峨天皇のとき、弘仁格式をつくり律令を修正、補足してきた格と式の分類整理をはかった。のち貞観格式・延喜格式とあわせて三代格式とよばれた。

842 承和の変おこる
[ゴロ]情は(=承和)なし 恥にならぬか 藤原氏
[句意]藤原良房がこのような陰謀をめぐらすとは、情のない恥ずかしい行為だ、という句。
[解説]承和の変は北家の藤原良房が、古くからの有力貴族の伴健岑や橘逸勢らを謀叛の疑いで陥れた事件。

858 藤原良房、摂政の実をおこなう
[ゴロ]天皇の 反抗外(はず)せいは(=清和) 摂政で
[句意]天皇から藤原氏に反抗する機会を奪った、という句。
[解説]この年、幼少の清和天皇が即位すると、藤原良房は外祖父として政務を代行し、摂政の実を行った。

887 藤原基経、関白の詔をうける
[ゴロ]パパもなりたい 亭主関白
[句意]恐妻家のパパが、わたしも亭主関白になりたい、嘆いているナンセンスの句。
[解説]藤原基経は光孝天皇の事実上の関白となっていたが、宇多天皇即位のとき、正式に関白に就任した。

◇古代41.歴代天皇の覚え方④(平安時代初期:光仁から文武まで9代)◇S


[ゴロ]後任幹部の/丙さんが純な2名に/もっと世話を/要請    
光仁(こうにん)・桓武(かんむ))(城(へいぜい)・嵯峨(さが))(淳和(じゅんな)・仁明(にんみよう))(文徳(もんとく)・清和(せいわ))(陽成(ようぜい))

[句意]後任の幹部の丙さんが、純な心の2名にもっと手厚い世話をと要請した、という句。「丙」はA氏や甲氏のように匿名の人を表わしている。

[point]
1.歴代天皇は光仁→桓武→平城→嵯峨→淳和→仁明→文徳→清和→陽成とつづく。
[解説]
1.光仁天皇(位770~781)は天智天皇の孫。62歳で即位。道鏡をしりぞけた藤原百川らがはかって、壬申の乱以後続いてきた天武天皇の血統による皇位継承を廃し、ふたたび天智天皇の皇統へ。光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。光仁天皇780(宝亀11)には帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれる大規模な反乱に発展した。この後、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。
2.やがて光仁天皇と渡来人(百済)系氏族の血を引く高野新笠(たかのにいがさ)とのあいだに生まれた桓武天皇が即位した。
3.桓武(位781~806)・平城(位806~809)・嵯峨(位809~823)各天皇は別項で詳述予定。
4.淳和天皇(位823~833)は、桓武天皇と藤原百川の娘の子。嵯峨天皇の弟。諱は大伴(そのため大伴氏は即位の翌日、天皇の名を避け伴氏と改めた)漢詩文集『経国集』(827)、養老令の官撰注釈書『令義解』(833)をつくるなど文化政策に努めた。
5.仁明天皇(位833~850)は、嵯峨天皇の子。治世中、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子としたが、承和の変(842)により、藤原冬嗣の娘順子との間に生まれた道康親王(文徳天皇)が皇太子とされた。
6.文徳天皇(位850~858)は藤原良房の画策により皇太子になったため、その治世は良房の政治介入を避けられなかった。第一皇子をさしおいて、良房の娘明子の生んだ第4皇子惟仁親王(のちの清和天皇)を生後8ヵ月で皇太子に立てられている。
7.清和天皇(位858~876)は、9歳で即位。後見役の良房事実上の摂政となる。しかし天皇自身も『貞観格式』の編纂にや学問の振興には積極的に関与している。27歳で譲位。
8.陽成天皇(位877~884)はわずか2歳で立太子、10歳で即位。乱行が絶えず、関白藤原基経により病気を理由に廃された。長命で譲位後も65年生きた。『後撰和歌集』に収められた「筑波嶺(ね)の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」は百人一首にも採録されている。

2019早稲田大・文化構想2/12:「
問3.下線b当時の天皇には、成人として十分成熟し、政務能力を持っていることが求められていたに関連して、9世紀になり政治が安定すると、10歳に満たない天皇(幼帝)が誕生するようになった。それは誰か。1つ選べ。
 ア.淳和天皇 イ.文徳天皇 ウ.仁明天皇 エ.清和天皇
 オ.光孝天皇」
_________________
(答:エ)〉

2018早稲田大・国際教養:「
問1.下線部a六国史について説明した文として誤りを含むものはどれか。1つ選べ。
 ア. 中国の歴史書の体裁にならった漢文編年体の正史である。  
 イ.『日本書紀』には、持統天皇までの歴史が記されている。  
 ウ.『続日本紀』には、三世一身法と墾田永年私財法が引用されている。 
 エ.『日本三代実録』の三代とは、清和・陽成・光孝の三天皇のことをさす。
 オ.『日本文徳天皇実録』は、六国史の最後の書である。」
_________________
(答:オ× ※最後は日本三代実録)〉

2017早稲田大・教育:「
問6 下線部c桓武天皇について述べた文として、正しいものはどれか。
 ア 藤原種継が暗殺されたことから、長岡京に遷都した。
 イ 徳政相論において、菅野真道の意見を採用した。
 ウ 『延喜式』を編纂させた。
 エ 父は光仁天皇、母は渡来系氏族出身の高野新笠である。
 オ 空海に教王護国寺を与えた。」
_________________
(答:エ〇 ※ア×暗殺の結果長岡京を捨てた、イ×軍事と造作の継続を主張する菅野真道の意見を退けた、ウ×醍醐天皇の時代、オ×嵯峨天皇より空海に下賜された)〉

2014早稲田大・人間科学:「
 歴史書の編纂は平安京に遷都した後も継続され、『続日本紀』からf『日本三代実録』まで5つの勅撰の正史が残された。」
問6 下線部f『日本三代実録』に事跡の描かれた3天皇の組合せとして、正しいものはどれか、1つ選べ。
 ア 淳仁・称徳・光仁 イ 清和・陽成・光孝
 ウ 桓武・平城・嵯峨 エ 淳和・仁明・文徳
 オ 宇多・醍醐・朱雀」
_______________
(答:問6イ〇)〉

2013早稲田大・文:「
 平安時代に入ると、藤原良房が承和の変により、伴健岑・橘逸勢を排除した。また、応天門の変によって伴善男を排斥し、[ C ]天皇の摂政となった。ついで良房の養子の基経が関白となり、摂関政治の基礎を築いた。
問4 空欄Cにあてはまる人物は誰か。1つ選べ。
 ア醍醐 イ文徳 ウ仁明 エ陽成 オ清和」
_________________
(答:オ)〉

◇古代42.三代格式の覚え方(律令格式②:その編者3人と3天皇) ◇B

[ゴロ]冬好くウジ虫ひらひらは/広辞苑で/探せだい
冬嗣(ふゆつぐ)・氏宗(うじむね)・時平(ときひら))(仁(こうにん)・観(じょうがん)・喜(えんぎ))(嵯峨(さが)・和(せいわ)・醐(だいご))

[句意]冬が好きなウジ虫で時々ひらひらと動く虫は広辞苑で探せだい!、と威勢良く言ってる句。これだけ多くのことを一句にしかも簡潔に収めたいと思ってつくりました。ときにこの句のように「辞」だけで貞観を再現するはめにならざるを得ません。再現練習をお願いします。

[point]
1.三代格式とは、弘仁格式貞観格式延喜格式で、三代とはそれぞれ、嵯峨清和醍醐天皇で、編者はそれぞれ、藤原冬嗣藤原氏宗藤原時平である。
[解説]
1.弘仁格式は、嵯峨天皇のもとの法制の整備で、律令制定後、社会の変化に応じて出された法令を、820年律令の規定を補足・修正する格施行細則の式とに分類・編集し、編纂された。
2.この編纂は、官庁の実態にあわせて政治実務の便をはかったもので、この後、さらに貞観格式(869、清和)、延喜格式(格907、式927、醍醐)がそれぞれ編纂された。これらをあわせて三代格式という。
3.格は三代の格を集めた『類聚三代格』に一部現存、式は『延喜式』のみほぼ完全な形で現存。

2018慶応大・法:「
 聖徳太子が制定した官吏の服務規程である十七条の憲法は、大宝律令以降の法令を集めた[ 12 ]の序にある「上宮太子親作憲法十七条 国家制法自茲始焉」の記述からも、わが国初の成文法として古くから認知されていたことがわかる。」
_________________
(答:12弘仁格式)〉

2017近畿大・全1/28:「
問6.下線部c弘仁十年の時の天皇名として最も適当なものはどれか。次の①~④のうち一つを選べ。
 ①嵯峨天皇 ②清和大皇 ③字多天皇 ④醍醐天皇」
_________________
(答:①)〉

2017南山大・営人文外2/11:「
また、a嵯峨天皇の代には法制が整備され、最初の格式が編纂された。宮司制も変化した。
問2 下線部aに関して述べた次の文Ⅹ・Yについて、その正誤の組合わせとして、正しいものを、下記のア~エから選びなさい。
 Ⅹ.新しい律令の編纂が進められ、嵯峨天皇の没後に制定された。
 Y.この格式ののち、貞観格式・延喜格式が編纂された。
 ア.Ⅹ-正、Y-正 イ.Ⅹ-正、Y-誤
 ウ.Ⅹ-誤、Y-正 エ.Ⅹ-誤、Y-誤」
_________________
(答:ウ ※Xは在位中)〉

2017中央大・文:「
問9.下線部⑤真言宗について、この宗派の中心的寺院の一つである教王護国寺(東寺)は、ある天皇から空海が賜ったものである。その天皇の時期にあった出来事としてもっとも適切なものを、次のア~オの中から一つ選べ。
 ア.国司交替の際に事務引継文書を検査する勘解由使が設けられた。
 イ.平安京の治安維持を担う検非違便が設けられた。
 ウ.藤原基経の地位をめぐって阿衡の紛議が起こった。
 エ.律令を補足・修正する延喜格式が編纂された。
 オ.荘園に関する書類を審査する記録荘園券契所が設けられた。」
_________________
(答:イ〇空海は嵯峨天皇から賜る ※アは桓武天皇、ウは宇多天皇、エは醍醐天皇、オは後三条天皇)〉

2016関西大学・全学部2/7:「
G 『類聚三代格』に「上は大宝元年より起こし、下は弘仁十年に迄る、都て式冊巻、格十巻と為す」とある。これは ⑦[ア桓武 イ平城 ウ嵯峨]天皇の時代に撰進された『弘仁格式』の序文である。」
_________________
(答:ウ)〉

2013青山学院大・経営:「
 下線部907年に関連して、この年、日本では当時の天皇の命で『延喜格式』の格12巻が完成した。この編集に関わったのは誰か。下から選べ。
 ①藤原良房 ②藤原頼通 ③藤原道長 ④藤原時平」
_________________
(答:④)〉

2013立命館・文法済営などA方式2/1:「
問1 下線部⑫清和に関連して、清和天皇の時代のできごととして、もっとも適当なものを下から一つ選べ。」
 あ『弘仁格式』の成立 い『貞観格式』の成立 う『延喜格式』の成立
 え『類聚三代格』の成立」
_________________
(答:い)〉

2000センター追:「
 平安時代の前半に編纂された弘仁格式・貞観格式・延喜格式の三つの格式を三代格式という。」
_________________
(答:正文)〉

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