ブログとの向き合い方(それを真面目に考えているようなところが欠点です)

あんなに楽しかった文章作成がまさか数回の投稿で中断してしまうなんて、さすが私ですね。

私の完璧主義

スマートフォンでアプリをダウンロードして、最初に開いた時の利用規約、読んでいますか。読まずに同意していますか。一応開いてスクロールだけして同意していますか。

私は読まないで同意することに罪悪感を伴いますし、あの耳慣れない長文をしっかり読むことにも、苦痛を感じます。
「読んでいないのに同意したのか」と責め立てられる妄想で疲弊し、「理解できなかったのに、理解できるまで繰り返し読んだり、他人に助けを求めたり、辞書を引いたりしなかったのか」と怒鳴られることを心配しています。
何か重大なことが書かれていたのに気づかず、金銭的不利益を被るのでないかとびくびくしています。

私はそんな感じですが「普通の人」はどうですか。

○○○○○

自分の完璧主義的傾向が、人生のあらゆる側面で足枷になっていることを知っています。自覚があるなら、修正も容易いと思っていましたが、修正されず、同類と、いきづらいねと言い合いながら今も生きています。

まず、認知の歪みに自覚的になることは思ったよりも容易ではない、というのが最近になってようやくわかりました。色々なところに書いてありますが、自己を過信し、敵を侮っていました。息をすることは下手ですからそれには例えられませんが、心臓を勝手に動かしている自然さで、わずかに、私は歪んでいます。残念ながらそれは本当でした。そして自覚しても完璧な修正は難しい。行動を変えることは心の反応を正すことに比べればなんとも簡単でした。

自覚のしづらさに関して言えば、それは「完璧主義」と呼称する故に漏れ出たあらゆる自分ルールが、修正の対象になりませんでした。つまり、いま頭の中でまとまっていない状態でこの文章を書くこと、書いたものを推敲せずに投稿することなどへの抵抗は、完璧主義は良くないと考えると薄まっていったけれど、誠実であることとか、じぶんなりに審美的に正しいかとか、そのあたりが完璧でないとまったく無価値でだめだめだという価値観にはなんの効果もなかったということです。と。これは“完璧主義”ではないと思います。

この完璧主義から漏れ出た完璧主義への自覚は、希薄な物で、すぐに忘れてしまいます。ここに書かなかったら永久に失われる可能性も高いでしょう。ですがこの自覚が社会不適合からの脱出の一助になるかもしれない。希望をこめて投稿します。

この価値観の起源を辿ると、おそらく幼少期に触れたメディアによる「信念」や「こだわり」の美化が私の中に浸透のだと思います。それらは“一般的に”とてもよいものなのでしょうが、私にとっては余計な(あるいは肥大している故に有害な)価値観なのでしょう。これはとても残念なことだと思います。

このブログの自分ルール

「完璧」という言葉では補足できないものが多すぎるので、自分ルールなどと呼ぶことで改善が見込めるではないでしょうか。

ここに文章を書くうえで無自覚だった自分ルールをいくつか列挙してみます。

・個人を特定できる情報は出さない
・嘘は書かない
・自己の価値観をできるだけ誤解ないように伝わるように表現する
・性別に関してこだわる
・一文を無闇に長くしすぎない
・読みやすさも一応は考慮する
・自分らしい文章
・自分の審美的完璧さを最低限達成していること
・文末を揃える
・自分にとって価値のある情報を書く
・文章化する価値があるものを書く
・思いつくままに書いて、気が向けば少しだけ読み返す
・無理をしない、楽しく書く

とりあえずこれくらいで。
全部でなくても、程度が大きくなくても、ここに挙げた規制から自由になればなにか新しいものに出会えるかもしれない。新しい場所に辿り着けるかもしれない。

書くことは本来自由な行動でしょう。
自由に書くという
ルールは成り立つでしょうか。

読者が存在したことの衝撃

投稿を何回かすると、noteの機能で誰かが読んでくれていることやいいねと思ってくれたことがわかりました。もちろんすごく嬉しくて、嬉しすぎて自己を見失う危険を察知し怯えました。
私の欠点が誰かに嘲笑われることから逃れたくてしょうがなく、自分のだめなところすべてを恨みました。

どうせ誰にも見られないの心持ちで文章を書くことはもうできなくなりました。誰かが見てくれたらなあと思いながら書きましたが、読者が実際に現れると生々しくてびびりました。だからと言って私が何が書けるかは変わらないし、想定読者などを考える書き物ではないので何も変わらないのですが。
過去に書いたことを、自分が記憶しておけないことの罪悪感だけ少し強くなりました。記憶力が弱いせいですが、罪悪感で強くなったりもしませんし、そのために過去の投稿を毎日読み返すの苦痛だしおかしいことだともわかっています。

○○○○○

人と関わるのが好きです。しかし、私の心は性善説に侵されていて、人を疑うことはせず、過剰な思いやりを当然のように要求し、無防備で、少しの意地の悪さや無遠慮にぼこぼこになります。それでも人が好きです。みんないいひとだと思っているので。みんなは私の傷つくことは絶対にしないと心の底では思い込んでいるので。

恐ろしいことです。いい人もいれば悪い人もいるし、悪意がなくても私は傷つくというのが現実です。私はいついかなる時でも笑顔と愛想の良さに全力を注ぐべきだと信じていて自己防衛も足りません。
もしも、年若い人に何かを教えなければいけないとすれば、一番最初に自己防衛を教えます。私が欲しかった機能です。みんな友達という価値観は暴力の抑止に貢献しているのでしょうか。もし効果がないならば、私にも必要ありませんでした。代わりに自分を守る方法をいくつか教科書に載せてほしかったです。すみっこのちいさなコラムでもかまわないから。

私の書いたブログを読んでくれるひと、スキをしてくれるひとが加害的だとは微塵も思っていませんが、私は他人が息をしているだけで自分が勝手に傷つくことも、それを防ぐ有効な手段を確立できていないことも知っています。そして、誰かに自分の書いた文章を読んでもらう喜びも、いいじゃんと言ってもらえる喜びも知っています。そして、もしかしたらこれが一番重要なことかもしれませんが、本当に誰にも読まれない文章を書くことに私はモチベーションを感じません。文章を書くこと自体が楽しいのは本当ですが、誰にも見せない文章を書くことに喜びを見出して書いた経験は一度しかありません。この投稿は何回目でしょうか。残念ながらそれが答えです。

ここまで書いていて(あるいは読んでいただけたなら)他者の存在や人とのかかわりは、私にとって良くないことの方が多いようにフィーチャーされている気がします。私のここ数年の思考の中でも同様でした。ですが、このモチベーションになるという一点のなんと有意義なことか。
文章化することの思考の発展への貢献はすごいですね。このエクスタシーのために、思いついたことをダラダラ書く方式から抜け出せないのかもしれません。
私としては芸術的な創作がしたいときに、その手段として書くことを思いつくのですが、結果としてやっていることは思考の整理になってしまって悲しいです。しかし、楽しいです。

ブログとの向き合い方

これを考えてブログを書くことが素晴らしいと思い込んでいます。あらゆることは、信念など、なんらかの自己を律する枠組みをもって取り組んだ方が良いといろんなひとが言っていたから(私もそれがとても良いと思ったので)、私の価値観になりました。しかし、私はそれを過剰に実行しようとするあまり、生活に支障をきたします。真面目さは美徳ですが、私が行う“真面目な”振る舞いは良くない結果を招くことが大半です。
このような性質を持った人間が、健全にブログを書き続けるにはどのような向き合い方が適切なのでしょうか。

答えはまだ出ませんし、今は久々に文章を書いたので、とても疲れました。思考は止まってしまいました。文章を上手く締める文言も思いつきません。このまま投稿することは私の自分ルールに反するのでしょう、やりたくないと思っています。下書きのまま置いておくのはどうでしょう。それにはなぜ抵抗感がある? どんなルールが適応されている? おそらくは、下書きを読み返したときに、この文章の上から下まで全部が気に入らなくて没になることを恐れているのと、全部とは言わないまでも文章の8割が修正を必要としている場合に、直すのがすごく面倒だと思う故に、今投稿してしまった方が何かとラクだと思っているからでしょう。それで、私はどうするのか……

ずっと座ったままでいるとき、立ち上がって少し歩いたりするだけで新しいアイデアに出会えることがありますよね。
つまり、とりあえず投稿して、編集機能に甘えるというのが平和のための最善手だと思いました。

私はこの文章を書くことから自由になって今すぐ休むべきです。
もしここまで読んでくださっている方がいたならば、あなたもこの蛇足を読むことから解放されるべきです。

おやすみなさい。また会えると嬉しいです。



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