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この日を忘れない人達も

 いつも記事をお読みいただきまして、ありがとうございます。9月26日は「伊勢湾台風の日」ということで、1959年の台風15号で未曾有の大惨害となったことをきっかけに、人々が防災意識を高めるためにこの呼び名がつれられたようです。
 しかし、同じ9月26日でも、こちらは1954年の台風15号で、我が国の海難史上希に見る大惨事となった、「洞爺丸台風の日」でもあるんです。不気味なことに、どちらも9月26日で、しかもその年の台風15号ですね。

犠牲者の慰霊碑です


実は洞爺丸のほかに4隻が犠牲に


こんな掲示物がありました

 1954年(昭和29年)の9月26日、この大惨事は起きました。この慰霊碑がある場所は、何事もなければ、砂浜の、函館山を間近に見る、おだやかな海が目の前に広がる場所です。事故当時函館湾の海上は50メートルの風が吹いていたと記録されています。この時代は本州と北海道の連絡手段は、船に頼っていたわけで、航空機は一般の旅客には今のように利用できる状態ではなかったはずです。ちなみに、本州と四国もそうでしたね。当時は、鉄道連絡船ということで、青函連絡船、宇高連絡船は国鉄の航路で、もちろん国鉄の切符で乗船することができました。
 この青函連絡船として就航していた「洞爺丸」(3898トン)が惨劇の舞台になってしまったのです。この時代は、線路を走る鉄道も蒸気機関車というのが、まだまだ全国的に走っていましたが、実は連絡船のような大きな船も、「蒸気船」というのがよくある話でした。つまり、台風による激しい揺れで、船内への浸水がひどくなり、最下部にある「ボイラー室」の釜焚きの火が消えてしまい、航行不能になってしまったのです。
 この事故で犠牲になった人は、死者行方不明者を合わせて1100人を超える大変な数でした。実はこの事故をきっかけに、現在の青函トンネルを建設する動きが加速したと言われています。さらに、この事故後はこの航路の新造船はすべて、ディーゼルエンジンの船になったことも、有名な話です。
 しかも、洞爺丸は簡単に遭難するような昔の「オンボロ船」ではなく、実は大惨事のおよそ1ヶ月前に、昭和天皇皇后両陛下が北海道に渡る際にご乗船された、「お召し船」として使用されています。鉄道でも「お召し列車」というのがありますが、鉄道関係の人から聞いた話では、このお召し列車に使用される車両は、現地の車両区に所属する中で、一番故障が少なく信頼性の高い車両が使用されるとのことですから、たぶん船にも同じ事が言えると思います。

 自然の力は恐ろしい、災害の備えは他人事ではなく、いつも自分も危険と隣り合わせにいるという意識を忘れないように、事故の犠牲となった方々のご冥福をお祈りいたします。

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