どこへでも行けそう

「皆とならどこへでも行けそうな気がする」
仲の良い友人達との旅先で雑談の合間にそう呟いた子がいた。
どこへでもは何一つ具体性がない曖昧なものだけど、その時は漠然とした未来に希望を抱かせる素敵な表現に思えた。友人としてそんな風に思われているのが嬉しかった。

現在その友人に送ったメッセージは未読状態。
どこへでも行けそう計画は2ヶ月半ばで頓挫した。
仲が良いとか気が合うとかやっぱりどこか不安定で結局個人の期待に支えられている。言葉もその人の抱えるもの以上の責任を持てない(多分)。でもやはり友人といる時は心地よくて、不安が消えて、強い安心感を持てる。スターをとったマリオみたいに無敵な自分がいる。そうしていると私も言いたくなった。「お前らとならどこへでも行けそう」

どこへでものどこかは何かの間違いで消えてしまう。未来や将来に淡い期待を寄せるのと同じく、曖昧で不明確なものにはきまって特別な意味を与えやすい。脆い言葉かもしれない。
それでも毎日誰かと話し合い、笑いあう。実現不可能な計画もでっちあげる。鼻もとことん伸ばし合う。そんな延長線にどこへでもはきっとあると思うのです。恐らく人と関わる数だけ。

あぁ何か今日はどこへでも行けそうな気がする。

 

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