産声は奇跡に一番近い音をしている。

始めに、、、
私、就活用にポートフォリオの制作を始めました。今までもポスター制作を始め学祭とかで記事を作成してました。それらをまとめて簡単な作品にしちゃおうという魂胆でございます。その作業を今日してたわけですけど、授業の一貫で一度作った赤ちゃんのポスターが作業中目に入りました。今日はその話。

生まれたことは奇跡に近い

最近、反出生主義についてという見出しをyoutubeのサムネイルに見つけた。その文字のあまりの破壊力に視聴せざるを得なかった。内容を見てみると「そもそも産まれてこなければ世の中の苦しみに苛まれることはない。出産は親のエゴである。」という主張であった。ふざけんな!という気持ちと共にどこか心で分かってしまう気もした。母親は身体を痛めて子供を産むが、そもそも私(反出生を唱える人)は産まれてこない方が楽だったのだから、始めから痛みもないのがWin-Winじゃないか?とそういう主張であると思う。随分な冷待遇を受けたのかもしれないし、ただの考え方の一つかも知れない。確かに苦しいのは嫌だし無いことが楽に思えるかもしれない。「でもね、苦しさから抜け出すために考えることが力になったりするし、世の中の人に比べればあなたはまだ楽な方だよ。」こういうのも聞き飽きてると思う。それでも、でもねと言い加えることが出来るなら、私は言いたい。
まず苦しみなんか始めはなかったはず。生まれた頃の記憶を鮮明に持つ人は珍しい。大人に近い年齢になってこの世の厳しさや苦しみに心を病んだんでしょう?これは私にもある(まあ親のお金で生きている現状で説き伏せられるほどの説得力はない)。じゃあ母親はどうして私を産んだんだろうか?おそらくだが「この暗くて狭い恐怖の世界、地獄にようこそ!」でポン!と産んではないだろう。例外はまた今度話すとして大抵は何かしてあげたくて産んでくれたんじゃないかと私は思う。死は望まれぬ形でやって来るけどその逆はない。人為的に奇跡を起こす方法があるとしたら全く違う人物同士が出会い全く違う人を生む出産が一番近いと思う。ただ世の中で多くの人が経験しているから奇跡とは言い難い部分があるだけ。また生まれなければ、家族、友人、自然、恋、愛その他諸々知ることは出来なかった。苦しみを経験したときこれらはより綺麗に見えたりする。私は本気で生まれてきて良かったと心の底から思えるが何もすぐこの考え方になる必要もない。今は何か大きなものに覆われて自分を見なくしているだけなのかもしれない。けど隙があったら考えてみてほしい。あなたの産声は奇跡に一番近い音をしていたことを。
全くクサイし綺麗事ですね。でも汚れたなら綺麗に着飾れば良い話。ご愛敬。

AM1:55

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