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【論理学】 「ならば」について

論理結合子のうちの一つである「→」(条件法、ならば)をご存知だろうか。高校数学を学んだことのある方なら、数学Ⅰの必要条件、十分条件の分野でなんとなく見覚えがあるのではないだろうか。いま、二つの命題をPとQと名付けよう。「→」は「ならば」なので(最後まで読んでいただければ、この時点ですでにおかしいことに気づいてくださると思うが、ひとまずこのまま進めて)P→Qという命題は、日本語に即して理解するなら「PならばQである」という文章だと理解できるだろう。では、ここで、Pを「僕は今、オーストラリアにいる」という文に、Qを「僕はコアラを抱っこしたことがある」という文だとしてみよう。この場合、P→Qは、ひとまず「僕が今、オーストラリアにいるならば、僕はコアラを抱っこしたことがある」という文章に置き換えられるだろう。

この「P→Q」という文が「真」である場合(正しい場合、事実と合致している場合)とは、いかなる場合だろうか。論理学的な「正解」を示しておくと、以下の場合である。

P  Q P→Q
真 真  真 …(1)の場合
真 偽  偽 …(2)の場合
偽 真  真 …(3)の場合
偽 偽  真 …(4)の場合

この一般的な「→」の働きを示す表(真理表という)によると、(2)の場合、すなわちPが真で、かつ、Qが偽である場合以外、「P→Q」はすべて真となるのである。これは論理学的な「常識」である。しかし、ここで、(少なくとも僕にとっては)奇妙な事態が起きている。まず、(1)の場合は、よい。Pが真で、Qが真である場合、P→Qは真となるだろう。上の例で言えば、僕が今オーストラリアにいることが真であり、かつ、コアラを抱っこしたことがある場合、全体として、P→Qは真となるだろう。(2)の場合も、納得できる。僕が今オーストラリアにいるにも関わらず、コアラを抱っこしたことがないとすれば、P→Qは偽となる。(本当はこれらも「よく」はない)

僕が特に納得できなかったのは、(3)と(4)である。(3)の場合、僕は今オーストラリアにいることは偽である(すなわち僕は今オーストラリアにいない)。かつ、僕は、コアラを抱っこしたことがある。この場合、P→Qは、全体として真となる…。なぜだろうか。今説明した状況で、なぜ「僕が今オーストラリアにいるならば、僕はコアラを抱っこしたことがある」という文章が真となるのだろうか。「→」の真理表によれば、前件(→で繋がれる2つの文章のうち、前にある方)が偽である場合、後件の真偽にかかわらず、P→Qは真となる。極端な例を出せば、僕が今オーストラリアにいない場合、「僕が今オーストラリアにいるならば、オーストラリアは消滅する」という文章も、真となってしまう(前件が偽の場合、後件の真偽は関係ないから)。

ここで、何かおかしいと感じた昔の僕は、数学に詳しい父親に尋ねてみた。すると父親は、以下のように説明してくれた。

Pが偽であるときは、P→Qの文章については、何も言っていないんだ。例えば、ある人が「明日晴れたら、100万円を君にあげる」と言ってきたとしよう。この場合、この人が言ってきたことはどんな場合に、約束違反となるか。それは、明日晴れて、かつ、その人が君に100万円を上げなかった場合のみだろう。逆に、明日晴れなかった場合は、その人が100万円をあげようとあげなかろうと、さっきの約束には違反してない。だから、P→Qは、こういうふうに捉えるのが正解なんだよ

父。ありがとう。

僕はこの説明を聞いてもなお、完全には納得しきれていなかった。ただ、どんなところが、どのように納得できていないかを説明することはできずにいて、そのまま大学に入って論理学の本を読むまで、このモヤモヤを放置していた。

さて(ここからが本番)、大学に入って戸田山和久先生の「論理学をつくる」(2000 名古屋大学出版会)を読んで、僕のモヤモヤは綺麗に解消された。まず、戸田山先生は、上記の僕の父親のような説明を次のように「インチキ」であると説明する。(父、ごめんなさい)

厳密に言えば、この議論は「→」の真理表の正当化としてはインチキだ。まず第1に、命題の真偽と約束を守る・守らないということは、関係はありそうだがいちおう別物じゃないだろうか。また、約束を破ったと言えないということがすなわち約束を守ったということだ、とも直ちには言えないだろう。

同上 p.40

うん、多分僕が感じていたモヤモヤを綺麗に説明するとこういうことなんだろう。(大学の先生の説明に頼って、自分の頭を使わずにモヤモヤを放置していたことが情けない。)

では、どうやって先ほど示した「→」の真理表を正当化できるのだろうか。

一言で言ってしまえば、日本語の「ならば」という言葉は豊かな含みを持つが、論理結合子としての「→」に、その豊かな含みの全てを持たせることはできないからだという回答になる。どういうことか。

まず、僕がさっき示したモヤモヤは、日本語の「ならば」と論理結合子としての「→」の違いを意識していないからこそ、生じたものであった。日本語の「ならば」には、実に豊かな意味合いが込められている。さきほどと同様、「僕が今オーストラリアにいる『ならば』僕はコアラを抱っこしたことがある」という文章を例に取ってみよう(ちなみに僕は今オーストラリアにいるが、コアラを抱っこしたことはない)。上の文章において、「ならば」という言葉はどのような意味合いを持っているだろうか。

まずは、もちろん、「ならば」は条件を示している。前半の文章が真実である場合には、後半の文章が正しいということを言っている。この「条件」というのを詳しくみていくと、どうやら、「逆は必ずしも真ならず」ということも含まれていそうだ。つまり、PならばQという文章では、PとQの「この」順番が大事なのであって、PとQをあべこべにしたのでは、意味が変わってしまう。

他にも、普段の我々は、「ならば」という言葉で繋がれた文章が、内容的な関連性を持っていることを期待する。例にとった上の文章は、内容的な関連性という点をクリアしている。オーストラリアはコアラで有名であるから、オーストラリアにいることとコアラを抱っこしたことがあることは内容的に、まあ関連があるだろう。しかし、(どんな文章でもいいが)「僕が今オーストラリアにいるならば、ナポレオンはコルシカ島で誕生した」という文章はどうだろうか。真偽はどうでもよいが、この文章はとても奇妙ではないだろうか。この奇妙さは、前半の文章と、後半の文章が内容的に関連していないからだろう。そうだとすると、日本語の「ならば」という言葉には、内容的な関連を前提とすることが含められていそうだ。

他にも、殺人で取り調べを受けている被疑者が、「じゃあ、僕が殺人をしたならば、あなた方はどうしますか」と言ったとしよう。あなたが警察官なら、この発言によって、この被疑者は殺人を犯した可能性が少しばかり高くなったと考えるのではないだろうか。もしそのように感じたのならば、日本語の「ならば」には、前半の文章がある程度正しい場合が多いという意味合いすら含まれていることもあるだろう(もちろん場合によるだろう)。

このように、日本語の「ならば」には、複数の微妙な意味が色々と織り混ざっている。そして、論理学を建設するにあたって、この日本語の「ならば」を論理学の記号として輸入したい。というのも、論理学の目的は、論理・真理を探究することである。論理に関する探究には、日常の我々の論理に対する考えを分析するのが良さそうだ。日常の我々の論理的思考の1つとして「ならば」という言葉は一定の地位を持っている。そうであるならば、日常言語の「ならば」を論理学の言語に置き換えて、論理学的振る舞いを探究することは必要そうであるからだ。

では、どのように日本語の「ならば」を論理学の「→」として導入すればよいのか。ここで、再び戸田山先生の説明をお借りしよう。

⑴ まず、日本語の「ならば」について成り立つ重要な特徴をピックアップする。それと同じ特徴が「→」についても成り立つように「→」を定義すべきだからである。
⑵ 次に、⑴でピックアップした「ならば」の特質を「→」にも反映させようとすると、我々がすでに行ったような定義の仕方しかありえないことを示す。

同上 p.82

⑴について。日本語の「ならば」が持つ重要な意味合いは何であろうか。戸田山先生は次の2つをピックアップする。

逆は必ずしも真ならず:「AならばB」が成り立つからといって「BならばA」が成り立つとは限らない。この2つは同じことではない。
推移性:「AならばBでありしかもBならばCであるならば、AならばCである」というのは、A、B、Cにどのような命題が来ても成り立つ。つまり日本語の「ならば」についても推移性は形式的真理である

これら2つの性質を「→」に反映させるためには、「→」に次のような制約を課せばよい。
A→BとB→Aとは論理的同値ではない。
((A→B)∧(B→C))→(A→C)はトートロジーである。

同上 p.82

簡単に言えば「論理的同値ではない」というのは、真偽が同じにならないということであり、トートロジーというのはどんな場合でも真となる命題である。

さて、前回の記事で僕が奇妙さを指摘した(3)と(4)の場合を、空欄(α、β)にしてみよう。

A  B A→B
真 偽  真
真 偽  偽
偽 真  α
偽 偽  β

⑴の性質を制約を満たすためには、αは真と偽のどちらであろうか。以下の表を考えるとわかりやすい。

A  B A→B B→A
真 偽  真    真
真 偽  偽    α
偽 真  α    偽
偽 偽  β    β

αが「偽」であるとすると、上の表の2列目と3列目のA→BとB→Aが、どちらも「偽」であることになってしまい、⑴の制約を満たさない。だから、αの部分は「真」でなければならない。(なお、これは、2値原理を保持することを前提としている。)

次に、⑵の制約を満たすには、βは「真」でなければならないことを示そう。

同上 p.83

上の真理表の「1」は「真」のことであり、「0」は「偽」のことである。

((甲→乙)∧(乙→丙))→(甲→丙)という形をした文章は、どんな場合であっても「真」の値をとらなければならない(「甲」とかには命題が入る)。上の真理表のβの上の式は、まさにこの形をしている。そうであるならば、少なくともβは「1」すなわち「真」でなければならない。

以上の議論によって

A  B A→B
真 偽  真
真 偽  偽
偽 真  α=真
偽 偽  β=真

という真理表が完成したことになる。

さて、ここでの解説は自分なりの言葉を織り交ぜながらも、度々引用しているように、基本的には戸田山先生の『論理学をつくる』を参考にさせていただいている。この本は、論理学について、単に「論理学はいかなる形をしているか」という点だけでなく、「論理学はなぜこのような形をしているのか」といった点をゼロから紹介している。まさに、論理学を戸田先生に導かれながら「つくっている」ような感覚になる。論理学を学びたい方には、大変おすすめの本である。

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