【短編小説】口実と口付け

「口実と口付け」

コンビニから出ると雨が降っていた。天気予報を信用しなかった男、瀬川は過去の自分を恨んだ。温めてもらった唐揚げ弁当を食べたい。だが、雨は一向に止む気配がない。振り返ればビニール傘が目に入る。あまり安い値段ではない。それに玄関の傘立てに同じものが刺さっている。一人で生活しているのだ、傘は何本も必要としない。となると、購入するという選択肢は消えた。次に下を向いた。格子状の傘立てがある。材質は分からない。蹴れば痛いだろう。派手な花柄の傘が一本だけ刺さっていた。

雨は止みそうになかった。

瀬川は地元の私立大学を卒業し、地元の中小企業に就職したどこにでもいる男だった。目立つような人物ではない、がいないよりかいた方がいいと評される。日付が変わる前に就寝し、朝六時には目を覚ます。三食きちんと食べるし、間食はあまりしない。しかし、カフェに誘われた時には断らないしケーキも食べる。趣味は読書だ。特に嫌いなものもなければ、好きなものもなかった。

瀬川は気を落ち着かせるため、煙草を吸うことにした。コンビニの隅にぽつんと置かれた吸い殻受けの隣に立つ。視界に傘立てが入る。学生時代から変わらない銘柄を吸い、煙を吐いた。喫煙するようになったのは同じサークルの先輩から貰った一本だった。瀬川はその先輩を尊敬し、同時に恋愛感情を抱いていた。

先輩は瀬川の二つ上だった。彼女は過去に付き合っていた彼氏が置いていった煙草を捨てることができず、気まぐれに一本吸ったことで煙草を吸うようになったと笑って教えてくれた。彼女は彼より先に卒業し、地元の中小企業に就職して、しばらくして会社で出会った歳上の男性と結婚した。招待された結婚式で彼女は禁煙したの、と照れくさそうに教えてくれた。それから連絡は取っていない。共通の友人によれば幸せな日々を送っているらしい、とのことだった。

懐かしい記憶だ。瀬川は感傷に浸る己を笑いそうになり、口角が上がった。灰が落ち、じゅっ、と音が聞こえた。

雨宿りを口実にもう一本吸うことにした。濡れた帰ることを思えば憂鬱になるが、このまま煙草を吸い続けるのも退屈だった。

雨は止みそうになかった。

新たな傘を買おう。買えない値段ではない。ついでに煙草も買おう。吸い殻を捨て、顔を上げると、赤い傘を差した女と目が合った。

「やっぱりそうだ」

偶然にしては出来過ぎだ。先程まで何度も頭に浮かんでいた先輩がそこに立っていた。先輩は片手に食料品などが詰まったエコバッグを持ち、もう片方の手で傘を差していた。その姿があまりにも学生時代とかけ離れていて、今度こそ笑った。人の顔を見て笑うとは失礼だなと先輩は呆れていた。しかし怒ってはいなかった。

「煙草、やめないの?」

今更やめる気はないと瀬川は煙草を勧めた張本人に応えた。彼女はそれもそうか、と納得した。どうして先輩は煙草をやめたのですか、と過去に聞いたことがあるけどはぐらかされたことをふと思い出した。

「傘忘れちゃった?」

瀬川は頷いた。

先輩は「そうでしょうね」とにやにやとした表情だった。

「昼休憩にコンビニでご飯を調達しようとしたが、帰る段階になって雨に降られた。違う?」

名推理だった。

「入りなよ」

彼女の傘が目に入った瞬間にイメージしていたことが現実となった。しかし、素直に首肯でき
なかった。相合傘をしてもいいのか。瀬川は逆の立場で考える癖を遺憾無く発揮した。答えは出なかった。結局は本人次第だ。

「相変わらず優柔不断。ほら」

差し出された傘を持った。ついでに鞄も持たされた。熱々の唐揚げ弁当を代わりに持ってくれた。鞄は重かった。隙間から見える材料で今晩はカレーかな、と考えた。先輩は大量にカレーを作り、友人や後輩に振る舞うことが好きだった。余ったカレーは冷凍していたし、朝昼晩カレーの日もあった。簡単なようでいて凝り始めると際限がないカレーが魅力的だったようだ。

二人並んで歩くには傘は小さかった。瀬川は車道側を歩いた。傘を先輩の方に寄せて差していた。瀬川の気遣いを先輩は知らない振りをした。窪んだ道路には水溜りができていた。水面に二人の姿と赤い傘が映っていた。

「ねえ」

先輩は少し背伸びをして、瀬川の左耳に口を近づけて囁いた。突然のことで彼は驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。

「私たち、どう見られているのかな?」

どうでしょうかね、と瀬川は答えを濁した。彼女は「つまんない」と残念そうだったが、どこか安心しているようにも見えた。

こうして二人で歩いていると大学生だった時と重なった。先輩はうじうじと悩みがちな瀬川を放って置けないとよく構った。彼は恥ずかしいと思いながらも、内心では喜んでいた。少なくとも嫌われてはいないことに安堵していた。二人を恋仲と噂する声はあれど、彼らが交際することはなかった。きっかけさえあれば、と当時の瀬川は仲間内で話していた。自分で努力することを放棄しただけだ、と今なら分かる。あれだけ同じ時間を過ごした相手に交際を断られるのがたまらなく怖かったのだ。臆病になっていたのだ。あの時の後悔が厄介な宿痾となり、こうして瀬川の心をじくじくと蝕んでいた。

交差点の赤信号で止まった。もうすぐ別れの時だ。こういう時に限ってすぐに青信号になる。歩き出そうとしたが、先輩は動かない。彼女は何か言葉を発そうとしている。瀬川は忍耐強く、言葉を待った。

少し口が動いたが、すぐに真一文字に封じられた。出かかった言葉は奥底に飲み込まれた。

「また会えるかな」

できるなら、晴れの日に会いましょう。瀬川は先輩に微笑んだ。先輩はこくりと頷いた。目的地である会社まであと少しだった。横断歩道を先輩の歩幅に合わせて歩いた。会話はなく、傘が雨を弾く音が大きく聞こえた。先輩の顔を見るのが何故か怖くて、瀬川は前だけ見た。

「今日、雨で良かった」

先輩の声が聞こえたような気がした。

先輩の後ろ姿を見送り、腕時計を確認したらあと少しで昼休憩が終わること知った。慌てて弁当を食べようとしたが、すっかり冷めていた。このまま食べる気にはなれなかった。先輩の顔と、赤い傘が頭から離れなかった。できればそのまま居座っていて欲しい。目を瞑るたびに微笑む先輩と目を合わせたい。思い出の中でいつまでも美しくいてほしい。考えるのはやめた。

無性に煙草が吸いたくなった。全てを煙に包んで空に還したい気分だ。幸い、まだ一本残っている。喫煙所に向けて力強く足を踏み出したが、次の一歩が出なかった。方向転換しゴミ箱を目指した。ぱっくりと口を開けたゴミ箱に煙草を箱ごと捨てた。勿体無いと叫びそうになったが堪えた。この衝動を忘れないでいよう。瀬川は窓の外を見た。雨は止み、道ゆく人は傘を畳んで歩いていた。あの一本を吸っていれば雨は止んでいたのだろうか。考えても仕方なかった。

煙草のにおいで先輩を思い出す。

その日から瀬川は煙草をやめた。

🔚


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